お客さん
ドアが開いた。
かと思うと、包丁を手にした少女が血走った目でこちらへ来た。
「助けてください!」
「どわあっ」
刀を抜こうとしたが、あまりに急のことで慌ててしまい、抜けなかった。
そいつは……以前、本館のトイレで遭遇したオカッパの少女だった。部屋を貸してくれた。たぶん花子さん的な存在だと思われるが。正確なところはなにも分からない。
「ふぅーっ、ふぅーっ……」
少女は必死の形相で呼吸を繰り返している。
刺されはしなかったが、俺も心臓がドキドキしている。
「えーと、あのときの……」
「上から急にネコが出てきたんです!」
「わ、分かったから落ち着いて……」
「しかも人間に化けて! 私、怖くて!」
「分かった分かった」
包丁を握りしめてプルプルしている。
この子のほうが怖い。
たまこも「おい、まだ着替え中だゾ」と怒っている。
状況がカオス過ぎる。
*
「金田くん、もう大丈夫だ。ここなら誰にも手を出せない。安心してくれ」
「ありがとう……ございます……」
「ほら、水飲んで」
「はい……」
ヒゲのせいもあるが、ずいぶん老け込んだような気がする。
肌にもハリがない。
凄まじいストレスにさらされたのだろう。
だが、ストレス由来のダメージは、ある程度は回復することがある。ここで安静にしていれば、死ぬことはないだろう。たぶん。
さて、続いての問題は。
「いえ、ですから、ずっと待ってたんですよ、私。なのに、全然会いに来てくれなくて。僭越ながら、こちらからお邪魔することにしまして。だというのに、待てど暮らせど誰も帰ってこなくて……。そしたら急にネコですよ? 非常識ではありませんか?」
花子さん的な少女が、包丁片手に、熱心に自分の都合を並べ立てている。
勝手に人の家のトイレに入り込んできた自分は非常識ではないのか?
たまこもうるさそうな顔だ。
「ネコなんだからしょーがねーだろ」
「ネコだからって、なんでも許されると思わないでください! そういうところですよ! ネコの傲慢なところ!」
「あーし、傲慢だったのか……」
まあ傲慢ではあろう。
それは否定しようのない事実だ。
ネコでなければとっくに処されている。
俺はつい溜め息をついた。
「けど、どうやって入ってきたの?」
「え、どうって? トイレって普通、つながってますよね? 逆にどういうことです? 人間にはムリという話ですか? そういう前提ならそうですね。でも私には関係ないことなので」
自分の常識を前提に語りやがって……。
通気口でも伝って入ってくるのか?
迷惑極まりない能力だ。
だが、この能力は使えるかもしれない。
「花子さん、ひとつ相談が」
俺がそう切り出すと、彼女はカッと目を見開いた。
「あーそれ! ぶっぶー! アウトのヤツです! 花子さんて! すぐそう呼びますよね! 勝手に名前つけないでください! 怒ります!」
もう怒っている。
「ごめんなさい。そういえば自己紹介がまだだったっけ。俺は……」
「霧島さんですよね! しかも偽名! でもいいです。霧島さんって呼びます。私、そういうの寛容なので」
「お名前をうかがっても?」
「ジュリエットです」
「はい?」
「ジュリエットです」
真顔だ。
疑問を挟む余地がない。
「じゃあ、ジュリエットさん……で……」
「はい? なんで不服そうなんですか? トイレにこもってるような女は、ジュリエットって名乗っちゃダメなんですか? あなたも偽名ですよね? なのに人の偽名は許せないんですか?」
「偽名なの?」
「違います。いまのは流れで……。違います! ジュリエットです!」
いまはこんなことでモメている場合ではないのだが。
俺が困惑していると、自称ジュリエットはすっと素に戻った。
「そういえば、話の途中でしたね。お願いというのは? トイレに関するお願い以外でしたらたいてい聞きますけども」
トイレはダメなのか。
「いや、あんたの能力を活かして、敵のボスを暗殺できそうだなと思って」
「あー、また! ぶっぶーのヤツ! アウト! アウトですよ! どうせ包丁で刺してこいっていうんでしょう? 最悪。包丁は料理するためのものであって、人を刺すものではないんです。まともな教育受けてないんですか? 信じられません。考えを改めてください!」
「……」
完全に正論なのだが、なぜかこの女に言われると腹が立つ。
だったらなぜトイレに包丁を持ち込むのか。
「なんですか? だったらなぜトイレに包丁を持ち込むんだって思いました?」
「えっ?」
「もちろんお料理するためですよ! でも勘違いしないでくださいね! トイレで料理なんてしませんから! 非常識です!」
「じゃあ……」
「いつでも料理できるように持ってるだけです! え、なんですか? ダメなんですか? そんなルールあるんですか? どこにあるんですか? 教えてください」
「でも衛生的に……」
「……」
急に黙り込んだ。
衛生的な問題があることは自覚しているらしい。
ともあれ、彼女を使った暗殺は不可能と考えていいだろう。
ま、最初から期待はしていなかった。
俺だって本気じゃない。
安田少年がおずおずと手をあげた。
「あの、よかったら、ちょっと説明してもらっても……」
「そうだった。完全に置き去りだったな。いまから説明するよ」
*
今回の仕事は難航しそうだ。
絶対条件は、感謝教団による聖水の放流を阻止し、アパートを守ること。
そのためには、高田を交渉のテーブルにつかせる必要がある。現状では不可能。たぶん。
だから俺は勢力の拡大を計画した。
それなりの勢力になれば、対等な交渉ができると考えたからだ。
しかし……。
金田くんを救出したのは、作戦上はマイナスだった。処刑場から死刑囚が忽然と姿を消したのだ。安田少年と俺たちまで失踪した。どう考えても犯人は俺たちだ。
もちろんマイナスでもいい。
あそこで彼を救わなかったら、俺は永遠に後悔したはず。
高田言説をぶっ殺すという手もあった。
成立して日の浅いカルトなら、教祖の死によって自壊する。
だが、それも今日までの話だ。
ついに先生まで絡んで来てしまった。あいつはカルトを支援し、アパートを壊そうとしている。
カルトだけどうにかすればよかったはずなのに、先生まで始末しなければならなくなった。
あまりにも問題が大きい。
というより、アパートがなくなるかもしれないのだ。
みんなの問題なのに、動いてるのは俺たちだけ……。なんだかおかしくないか?
いや、センさんは動いてくれた。雲外老師も、おそらくこの件の対処を求めていたのだろう。みんな事実を知らないだけなのだ。御所にかけあえば、力を貸してくれるのでは?
俺だって、べつに好きでこのアパートに住んでるわけじゃない。強制的に閉じ込められているだけだ。人間界の刑務所に戻れと言われても構わない。本来そうすべき人間だから。
ただ、ここがないと困る人たちがいる。人というか、不命者というか。
もともとこの空間が永遠に存在し続ける保証はない。いつかは終わりを迎えるのかもしれない。だが、それはいますぐじゃなくていい。少なくとも準備の時間が必要だ。誰かの個人的な判断でおこなわれるべきじゃない。
*
テレビを使って事務所に連絡をとった。
俺一人で考える必要はない。せっかく仲間がいるのだ。
『ええ。先生の件は、こちらにも伝わっています』
「えっ?」
いきなり不吉な返事が来た。
『御所には、先生に協力的な一派がいまして。ずっと主を観測していたようです。それで先生の復活を知ったとか』
「じゃあ、今日俺が知ったようなことは、もうとっくに?」
『おおむね』
知っている。
なのにこの動きの鈍さ。
最悪の結末が脳裏をよぎった。
「えーと、こちらでも対処したいんですが……。先生が相手となると、あきらかに戦力が足りませんよ。時間を止める能力まで戻っちゃったし。御所から援助をいただけると嬉しいんですが」
『すみません。私からもかけあってみたのですが、いまいち反応が薄く……』
「なぜ?」
『先生を敵に回したくないと』
やはりそうか。
先生は、王朝の依頼を受けてレジスタンスを抑え込んでいた。恩もあるのだろう。両者の結びつきはいまだに強い。
「このままだと、なくなりますよ、アパート」
『論理的に考えればそうなります』
「論理的じゃない考え方もあると?」
『残念ながら。御所には、祈りをささげることで生命の樹を蘇生できるという……迷信が流布していまして』
「えっ? 迷信?」
『先生を止めるのではなく、お祈りする方向でまとまりそうです』
未開人なのか?
なぜそんな非論理的な方向へ逃げる?
どこかの誰かが、滅ぶような方向へ工作しているのでは?
最悪だ。
なにをすればいいのかは明白なのに、都合の悪い問題を避けて、妄想にすがってしまうなんて。
もう誰もアテにならない。
いや、先生を抑え込むチャンスはゼロではない。
もし聖水の放流が続けば、先生の術をブーストするものはほとんどなくなる。するといずれ護符を使っても時間を止められなくなるだろう。そこに勝機がある。
ただ、そこまで大量の聖水が流れてしまったら、もうこのアパートは助からないだろう……。
個人的な戦闘には勝てても、総合的な闘争に負けてしまう。
いま先生を阻止しなければ。
まあ、それがムリだから御所に頼ろうとしているのだが。
じつはもうひとつだけ可能性がある。
あると言っていいのか分からないが。
本当の最終手段だ。
過負荷状態で獣になったものは、凄まじい強さを得るという。それが先生相手に通じるかは分からないが。俺がバケモノになって先生を襲い、その隙に、誰かになんとかしてもらうという作戦だ。もちろん俺は助からないが、ほかの誰かは助かるかもしれない。
俺の器は、他人より少し大きいらしい。試してみる価値はある。
*
通信を終えた俺はリビングに戻り、たまこのすぐそばに腰をおろした。たまこはのんきに寝そべって脇腹を掻いていた。
「なあ、たまこ」
「断るゾ」
顔をしかめてしまう。
頼みごとをしようとしたのがバレてしまったか。
「話くらい聞いてくれないか?」
「いやだ。オマエがそういう顔してるとき、たいていロクなこと考えてねーからな」
「俺、そんな変な顔してるか?」
「してるゾ」
もうこいつに隠し事は通じないか。
勘が鋭すぎる。
それとも俺が分かりやすいだけか。
「ま、言わなくても分かってるなら、それでもいい。そのときになったらよろしくな」
「ふん……」
バーンとトイレのドアが開き、自称ジュリエットが顔を出した。もちろん包丁を握りしめている。
「ところで、そろそろみんなで食事する時間ですよね? ケーキ用意してください、ケーキ! 私、お客さんですよ!」
もはや厚かましい……。
極めて深刻な事態だってのに。
「分かったよ。ケーキを用意する。みんな、食べたいものは? まとめてオーダーしとくから。金田くんはおかゆがいいかな。徐々に慣らしていかないとね」
なんだかんだ言って飯はいい。
特に、大勢で食う飯は格別だ。
考え事をするにも栄養は必要だし、食わないでいると最終的に死ぬ。
(続く)




