言葉
さすがの自称ジュリエットも、ケーキのときはトイレから出てきた。
ただし部屋の隅に陣取ったまま動かなかった。周囲に壁がないと落ち着かないらしい。
ただ、ケーキもそうだが、他の食事も、なんだか量が少なかった気がする。
俺はかつ丼にしたのだが、小ぶりなかつがいくつか乗っていただけだった。アパート自体が弱っているのだ。
早く手を打たなければ、取り返しのつかないことになる。
その後、ジュリエットには帰ってもらって、男たちはみんなリビングで寝た。
たまこは自分の部屋でおとなしく寝たようだ。
長いこと本館にいたせいで、「通りゃんせ」が流れたときは緊張してしまったが。特に襲撃などはなかった。
*
翌朝――。
腹の上にネコがいた以外は、特に変化もなかった。
俺はそっとネコをどかして顔を洗い、湯を沸かし始めた。
お姉さんのお気に入りの食器はそのまま残っていた。白磁のティーカップも。お姉さんとたまこが、二人で暮らしていた部屋だ。
世界が、平和ならよかったのに。
悪意などなく、悲しみもなく、人々が助け合いながら平穏に暮らせたなら……。
コンロの火を見つめながら、俺はそんなことを思った。
逃避したい。
ずっとこの安全な部屋にいて、すべてが終わるのを待っていたい。
それでもいいじゃないか。
俺の居場所は人間界にもある。決していい場所ではないが。お似合いの場所だ。
このアパートのことは、存続を望む人たちが対処すればいい。
まあ、本音ではそうだ。
そうだが、仕事として受けてしまったので、俺はやめることができない。いや、仕事として受けたのは、俺にとってはよかったのかもしれない。真面目に取り組む動機になっている。
茶の用意をしていると、安田少年が身を起こした。
「お湯わかしてんの?」
「茶を出すから、少し待っててくれ」
「ありがとう……」
斜め下を見ながらも、いちおう礼を言ってくれる。
*
朝食をオーダーしようと、俺はテレビの部屋に入った。
するとこちらが操作する前に、どこからか通信が入った。
『おはようございます、霧島さん』
「……」
於路地だ。
映し出されていたのは、見慣れた部屋の様子。
ただし円柱型の水槽は二つに増えている。一つにはオレンジ色の液体。もう一つには子犬が閉じ込められている。きっとマリカだ。
『私の部屋に、野良イヌが入り込みまして』
「あんた、それやったら本当に……」
『フフ。そう怖い顔をしないでください。第一、彼女は空っぽです。聖水にしようにも、ほとんど抽出できないでしょう。不純物だらけで使い物にならない』
殺す気はない、ということか。
だが先生のことだ、もっと卑劣なことに使うつもりなのだろう。
「そのイヌ、うちで引き取りますよ」
『そのつもりで連絡しました。ただ、私からそちらの部屋に近づくことはできませんから。どなたか引き取りに来ていただければと』
なんだこいつ?
タダで身柄を引き渡すって言ってるのか?
「なにを企んでるんです?」
『なにも』
「水槽から出してやったらどうです?」
『そうしたいのはやまやまですが、自由にすると私に噛みついてくるので』
マリカのヤツ、一人で先生に挑んで捕まったのか。
しかも実力の差もわきまえず、勝つつもりでいる。
「分かりました。俺が行きますよ」
『ええ。お待ちしております』
見たところ、イチカの聖水も流していない。
交渉に使うつもりだろうか?
もしわずかでも人の心が残っているのなら、ぜひそれを思い出して欲しい。先生だって、世界をよき場所にするため活動しているはず。その方法が全生命の殺傷というのが痛いところだが……。
*
罠を警戒しつつも、俺は先生の家へ向かった。
感謝カルトの待ち伏せはなかった。やたらキョロキョロしてるヤツはいたから、市民に探させているのかもしれないが。写真もないから、誰を探せばいいのか分かっていない様子だ。あるいは俺ではなく、少年を探しているのか?
「先生、いますか?」
「どうぞお入りください」
施錠さえされていなかった。
不用心なのか、自信過剰か。
部屋は、通信で見た通りの状況だった。水槽が二つある。子犬はキャンキャンほえているが、容器が密閉されているせいか、音がくぐもっている。
「まさか先生が交換条件もナシにイヌをよこすとは思いませんでしたよ」
「私、そんなふうに思われているのですか?」
困ったように笑う表情さえ絵になる。
人はこういうのに弱い。相手が男だろうと女だろうと、じつはあまり関係がない。総じて人類は、顔のいいヤツに弱い。
俺は無遠慮に部屋へ入り込み、出されたまま茶をすすった。苦い茶だ。毒ではないと思う。そんな姑息なことをせずとも、この男は術で俺をどうにでもできる。
「苦いでしょう? 生薬を煮出した茶ですから。体にはいいんですけどね」
「ありがたく頂戴しますよ」
床板には座布団。
そして背の低いテーブル。
昔の人はこんな生活をしていたんだろう、という感じになる。
子犬は困惑している。
早く助け出してやりたいが、その前に俺は先生と世間話でもしようと思っていた。
俺は先生のことを知らなすぎる。
なにかヒントが欲しい。
敵を知り、己を知れば百戦あやうからずと、古人も言っている。
「聞きましたよ。先生、この世界に自力で入ってきたんですって? どうやって?」
本人がフカしているならまだしも、歴史を知る人物が教えてくれたのだ。間違いではないだろう。
先生もおやおやと微笑を浮かべた。
「雲外老師にでも聞いたのですか?」
「正解」
「あの方は、口の軽いほうではないのですが……。なるほど。その価値が、あなたにあると認めたわけですか」
「本当はたまこに教えるつもりだったらしいけど。まあ、あいつに言ってもね……」
ネコの耳に念仏、だ。
先生も姿勢よく座し、静かに茶をすすった。表情を変えない。
「その話は本当ですよ。私はね、天才なんです。術で可能なことであれば、たいていなんとかできます」
このクソみたいな言い回しも、嫌味に聞こえない。
実際、天才なのだ。
それはイヤというほど見せつけられてきた。
「天才、ね。同じ景色を見たことがないから、お気持ちはいまいち分かりませんけどね。まわりの凡愚がイヤになって、ここに入り込んだクチですか?」
俺が皮肉を飛ばすと、彼は目を細め、こちらを見た。
珍しく、やや不快そうに……。
「どう思います?」
地雷を踏んでしまったかもしれない。
「ど、どうって? まあイヤじゃなかったら人間界に残るでしょうから……。なんかムカつくことでもあったのかなって」
「ええ。いら立ちはありました。私には、居場所がなかったのです。この才をもってすれば、世界をよりよい場所に変えることができる。私もそのつもりで出仕しました。ところが、そんな私を、みんなバケモノみたいな目で見る……」
おそらく突出し過ぎたのだろう。
彼の力は危険視されたのだ。
「仲間から嫉妬でもされたんですか?」
「いいえ。彼らは仲間でさえありませんでした。それどころか、世界をよくしようとする私の働きを、ことごとく妨害してきた敵です。彼らは、政の要たる最高峰の人間たちですよ。それがあの程度とは……。私は本当に哀しくなりました。悪とは、このような場所にさえはびこっているのかと……」
俺は天才じゃない。
だから嫉妬されたこともない。
ただ、一二三は多賀峰の嫉妬を買い、暴行された。
嫉妬は醜い。
醜いが、俺だって、したことがないとは言えない。
自分が持っていないものを、誰かが持っている。そこへ手を伸ばしたくなる。だが、力づくで奪ったらどうなるかは、冷静に考えれば分かることだ。消えない憎しみが生まれる。それはいつか自分へも返ってくる。自分のしたことで、自分が殺される。あるいは永遠になにかを失う。
決していい方向へは転がらない。
奪うだけ奪って、逃げ切るヤツもいるが……。
先生は細い目で、じっとこちらを見ていた。目が細いというより、まつげが長いせいで細く見える。
「悪は、人の心に宿ります。私は世界を浄化しなければならない」
「なあ、先生。俺もべつに否定しませんよ。あんたが天才で、周りのバカどもが悪人だってのは。きっと事実なんだろうし」
俺が同調しても、彼は微笑まなかった。
この話に続きがあると分かっているのだ。
「しかしあなたは、私を手伝わない」
「そうですよ。先生にとって、他人なんてカスみたいなモンでしょ? そんなの、ほっときゃいいじゃないですか? それとも、そいつらがズルズル生きてるのを見るのさえイヤなんですか? 俺はね、たとえばそこらの虫がどんなにバカげた行動をとっていても、絶滅させようだなんて思いませんよ。もしかすると先生、まだあきらめてないんじゃないですか? 本当は、どこかで人間に期待しているのでは?」
「……」
黙り込んでしまった。
すっと息を吸い、ゆっくりと吐いてから、苦い茶をすする。
俺もなにも言わなかった。
ただ壁を見つめて、換気扇の回る音を聞いた。
このアパートには風がない。だから、換気扇でも回していなければ、空気がよどんで、息が詰まってしまう。
なかなか答えなかったので、俺はつぶやいた。
「人間の輝きなんかに期待してるから、いつまでも光を追いかけるハメになるんですよ」
「……」
「なんとか言ってくださいよ。世界を救うために他人の命を潰してる崇高なあんたと、個人的な憎しみで人を殺し回ってたゲスの俺とじゃ、モノの見方がそもそも違いますか? 価値観の共有は不可能ですか? ただ、言っときますけどね、俺もあんたも、どっちかっていうと獣の側なんですよ。ちゃんとした人間は、他人の命を、奪わないんです。俺ら、とっくに人の道を踏み外してるんですよ。ま、あんたにとって、ありふれた人間なんて無価値な存在かもしれませんけど」
「……」
なぜ返事をしない?
じっとこちらを見ている。
「失礼。説教しに来たんじゃなかった。ただ、あんたのことを知りたかっただけなんだけど……。少し喋りすぎましたね。俺、どうも感情のコントロールが苦手みたいで」
「あなたなら、どう世界を救うというのです?」
「えっ?」
急に口を開いたと思ったら、そんなことを……。
「世界を、どう救います?」
興奮している様子はない。
威圧している感じもない。
ただ、シンプルに疑問を口にしているだけ。少なくとも俺にはそう見えた。
「言葉ってのは残酷ですよね。それを言った途端、なにかが規定されたかのような印象を与えちまう。『救う』という状態をどう定義するかで、答えは千差万別ですよ。ああ、でもいいんです。中身がなんであろうと、俺はそもそも簡単な答えしか持ってませんから」
「その答えとは?」
「答えっていうか、そもそもの問題文が成立していないと判断します。だってそれ、『救い』が存在するって前提の問いでしょ? けどたぶん、実在しませんよ。神さまみたいなもんでさ」
先生はすんと済ましている。
「実在しない?」
「人間ってのは、想像できちまうんですよ。各自が勝手に定義する『救われた世界』を。でも、過去に一度も、そんな世界であったことはない。おそらく未来もね。理想郷ってのは、理想の話だからこそ成立するんです」
「にわかには受け入れがたい説ですね。人間は、長い歴史の中で、環境を変化させてきました。みずからの理想によって」
「それはたとえば、樹木が実在するからでしょ? 伐採して家を建てることもできる。土木工事も実在する。それを『救い』っていうならそう。けど、あんたの言ってる救いは、そういうレベルじゃないでしょ?」
「生命を消去することも実在の問題では?」
「ま、そうか。先生にとっては実在の話でしたね。なら、きっと俺の指摘が間違ってるんでしょう」
偉そうにカマしておいてなんだが、おそらく先生の主張は間違ってない。善悪はともかく、ロジックは成立する。この人の「救い」は実現可能なものだ。
俺は苦し紛れに補足した。
「いや、俺が言いたかったのは、その崇高かつ壮大な計画を、現実でやんないで欲しいってことですよ。どうしても他人を巻き込みたいなら先に合意を得て欲しい。イヤなら一人だけの世界でやって欲しい。たぶんあんたも、そんだけの才能があるんだから、作れるでしょ。こんな感じの世界をさ」
「合意……」
「一律で他人をぶっ殺すようなヤツは、もはや獣でさえないんですよ。災害、モノ、あるいはただのエネルギーであって。理想を語る口さえ持たない。喋るってことは、聞かせる相手が必要だから。あんたは他人を必要としてる。たぶん。本心では消したくないんでしょ? もう自分でも分からなくなってるかもしれないけど」
「私の本心……」
こいつを説得できるとは思っていない。
だが、なぜか意外と真面目に聞いてくれる。
何百年も生きてる人間が、数十年生きただけの人間の言葉を。
「失礼。また一方的に話しちゃった。気を悪くしないでくださいね。どうしてもあんたを止めたいって気持ちが抑えきれなくてさ。えーと。お茶、ごちそうさま。子犬はもらってきますよ」
「ええ。どうぞ。ご自由に」
ゆっくりと水槽を横にして、俺は子犬を拾い上げた。
「そういや、ずっと疑問だったんですが。先生は、なぜ不死身に?」
「呪いですよ。じつは私、以前、生命の樹に挑んだことがあるんです。樹を取り込んで、一体化しようと思いましてね」
「えぇっ?」
頭大丈夫か、この人……。
「途中まではうまくいったと思います。しかし途中で取り込まれそうになり、すんでのところで離脱したのです。そのときからですね、身体の異常な回復が始まったのは」
力の一部を取り込んだ、というわけか。
呪いというよりはチートという気もするが。マイナス面はないのだろうか。
「それで死ななくなるなら、ぜひ俺も試したいですよ」
「オススメしませんね。並みの人間なら、まばたきする間もなく食われてしまいますよ。あの樹は、鬼の力で成立しています。鬼といっても、そこらのありふれた鬼ではなく、より深淵なもの。通常の方法では対処できません」
「離脱したときに、なにか代償を支払ったのでは?」
「ええ。しかしいまは秘密にしておきましょう。あなたとは遠からず戦うことになるでしょうから。これ以上、弱点をさらしたくはありません」
おやおや。
圧倒的有利にもかかわらず、意外と弱気なことを言うものだ。
もしかして自信がないのかな?
俺はつい笑ってしまった。
「お互い、敵同士ってわけですか。世界をよくするってのは、悪いアイデアだとは思わないけど。なにかがもう少しだけ違ってたら、協力できたかもしれませんね」
「同感です」
こいつは次の標的を人間界に定めている。
俺を聖水にするプランを完全に放棄したとは思えないが、より大きな目的のためなら、命を奪うことも厭わないだろう。
俺の嫌いな言葉が脳裏をよぎった。
Si vis pacem, para bellum.
汝平和を欲さば、戦いに備えよ。
どれほどの命が散ろうとも、人は何度でも繰り返してしまう。俺も例外ではない。誰もその愚かさからは自由ではない。身体が無限の拡張を求めてしまう。暴食に取りつかれた獣のごとく。
(続く)




