生倉探偵事務所
そして上へ。いや下か。ここは上下がつながっているから、どちらでも変わらない。
スーツを着た男とエレベーターに乗っていると、会社勤めのサラリーマンにでもなった気分になる。
「遠いんですか?」
「いや、距離はそれほどでも……」
距離は。
他の部分には問題がありそうだ。
かくしてやってきたのは、かつて共和国のあったエリア。
俺と多賀峰が対峙した場所だ。津邑を撲殺した場所と言ったほうがいいか。あのときの死体は、そういえば安置所に運び込まなかった。いまだに置きっぱなしかもしれない。
それはともかく、奥は毒に汚染されている。
通りたくない。
「ここ、通るんですか?」
「マスクあるから。つけて」
防毒マスクでも渡してくれるのかと思いきや、花粉症対策にしかならなそうな市販のマスクを渡してきた。
「こんなので防げるんですか?」
「大丈夫。途中で脇にそれるから」
「はぁ」
俺にだけ粗悪なマスクを渡してきたならともかく、彼も同じマスクを装着している。きっと大丈夫なんだろう。
「あまり深く吸い込まないように」
「了解」
*
空気がよどんでいるということはない。
少なくとも肉眼で見る限りは。
ただ、床や壁がまだらに黒ずんでいる。黒というか緑というか。吊り下げられた白熱灯も、他より薄暗くなっている。かつて散布された毒が、いたるところにこびりついているのだ。
赤尾さんは、指で移動方向を示してくれた。
部屋と部屋の間にある脇道。言われた通りに進むと、古びた木製のドアがあった。しかもドアの前には鋼鉄のフェンスがあり、南京錠で施錠されていた。
赤尾さんはキーで南京錠を開けた。
そしてフェンスをよけ、ドアを手で開け放つと……。
空が見えた。
紫がかった夜空だ。
上も下も、限りなく空。
どこにも地面は見えない。
風はないが、はるか遠方でコーッと気流の音がする。
俺はつい確認した。
「え、ここ通るんですか?」
「落ちないように注意して」
注意もなにも……。
たしかに足場はある。あきらかに、あとからムリヤリくっつけただけの板だが。
まさかアパートの外壁を伝って本館に入るつもりだと?
俺が尋ねるより先に、彼は行ってしまった。
慣れた様子ではない。へっぴり腰で、壁に張り付きながらじわじわと横歩きしている。まあ落ちたらどうなるか分かったものではないのだから、この姿を模範とすべきなのかもしれないが。
満月のおかげか、明かりは十分にあった。
普通に歩けそうな幅もある。
障害となりそうなのは、心理的な問題だけ。こんな下が見えないような場所、補助もガードもナシに移動しろなどと……。
赤尾さんはぐんぐん行ってしまった。ルーキーに配慮する気はなさそうだ。もっとも、このアパートにホスピタリティを期待するほうがどうかしているが。
俺は意を決して踏み出し、赤尾さんにならって壁に張り付きながら移動した。
アパートの外壁を、こんなにまじまじ確認するのは初めてかもしれない。
だが、あまりにも普通だ。
内側から想像できるような板の壁。
窓から覗いたこともあるし、初めて見るようなものでもないが。しかしむしろ普通過ぎることに違和感があった。こんな建材では、これほど巨大なアパートは支えられない。
*
「ふぅ。今日もなんとか生き延びたな……」
赤尾さんは大儀そうにネクタイを緩めた。
まあ危険と言えば危険ではあったが、死を意識するほどでもなかった。
強い風が吹きつけているわけでもない。足場は水平で、傾いておらず、安定感もあった。普通に前を向いて歩いたほうが早かった。
「マスクはどうします?」
「持っててくれ。帰りに使うだろう。それにしても君……意外とタフだな。高いところは平気なのか?」
「いえ、平気じゃないですけど。まあなんとか」
「そうか……」
哀しそうな顔になってしまった。
俺は周囲を見回した。
「ここが本館ですか?」
「そう。くれぐれも発言には気を付けてくれ。誰に会っても干渉しないこと」
「はい」
見た目は別館と同じだ。
古びた木製のアパート。天井には白熱灯が連なっている。
特に見所はない。なぜこんな平凡な場所が、禁足地で分断されているのだろう。人間と不命者を分けるためか?
人の往来はなかった。
きっとここも過疎区なんだろう。
しばらく行くと、「生倉探偵事務所」のプレートが掲げられたドアが見つかった。
「ここだ」
カギを差し込んで入る。
「ボス、戻りました」
「お帰りなさい」
テレビで通話した女性がデスクについていた。
なんの変哲もない事務所だ。
観葉植物があり、書類棚があり、応接セットがあり、調査に使ったとおぼしき物品がそこらの箱に詰め込まれていた。あとは謎の芳香剤のにおい。これは不要では?
「霧島です。お世話になります」
「生倉です。好きなところにかけて」
好きなところと言われても、ここには応接セットしかない。
赤尾さんがソファに腰をおろしたので、俺も対面のソファに座った。
生倉さんは立ち上がると、デスク上のテレビをこちらへ向けた。
「歓迎します。さっそくですが、今回の仕事について確認しましょう。目標はイチカの保護。そのためにあらゆる手を尽くすこと。報酬は解決後に後払い。ですが、あなたがうちに所属することでそれは帳消しにします。慢性的な人手不足なので」
「まさかとは思いますが、俺は今後、ここで永遠に無償労働を?」
「そうしたいのはヤマヤマですが、無償で働いてもらうのは今回だけです。次回からは適切な報酬を支払います。ただし、現物支給ですけども」
現物支給?
欲しいものはたいがい神社で手に入るのに?
いや、神社でも手に入らないものはある。そういうヤバいブツを期待していいのかもしれない。
「あんれま。新しい人間がいるわ。あやー」
外からエプロンの少女が入ってきた。
頭にツノがある。
あきらかに人間ではない。まあツノ以外は人間にしか見えないが。オカッパ髪の和人形みたいだ。
「新入りの霧島です」
「あだすはナヅ。よろしぐね」
こちらが頭をさげると、彼女もぺこりとお辞儀してくれた。人なつこい子だ。
しかしナヅとは珍しい名前だな。
生倉さんがなんとも言えない顔になった。
「ナツさん、悪いけどお茶を用意してくれる?」
「わがりゃしたー」
ナヅではなくナツだった。
訛っていただけか……。
地元を思い出してしまう。
「彼女は、見ての通り不命者です。不命者についてはどこまで?」
「うちでネコを飼ってましたんで、だいたいは」
「そういえばあなた、ふみこさんのところの居候でしたっけ。どういう関係なの?」
関係?
なんだったっけ……。
「えーと、ずっと住んでいた部屋を追い出されて、それで行き場がなくて泊めてもらってるだけで……」
「ま、倫理的な問題はクリアということかしら。ふみこさん、悪い人間には近づかないから」
お姉さんはそう考えているかもしれない。しかし殺人罪で逮捕されていた人間が、倫理的に問題がないとは言えないと思うが。
彼女は「ふむ」とうなずいた。
クールな見た目だが、話していると壁を感じない。
「不命者というのは、もとはこう書いたんです。ヌエを意味します」
そして「不猫蛇」と書かれた紙を見せてくれた。
まさかヌエのことだったとはな。
「それってつまり、妖怪なのでは?」
俺が思わずそう尋ねると、室内の空気が凍り付いてしまった。
お茶の準備をしていたナツさんも、ぴくっとして固まってしまった。
俺は即座にソファからおりて土下座した。
「いまのは不適切な発言でした。お詫びいたします」
赤尾さんは苦笑だ。
「いやいや、大袈裟だな。大丈夫だよ。誰も気にしてないから」
これに生倉さんが眉をひそめた。
「気にしますよ。本当に繊細な問題なんですから。ここの住人たちは、過去にその発言で人間たちから迫害を受けてきたんです。そのせいで不命者という言葉を用意せざるをえなかった。暗い歴史があるのです。以後気を付けてください」
「はい」
このアパートに、そんな苛烈な争いがあったとは。
だから人間は別館に隔離されたのか?
「座ってください。説明を続けますから」
「はい」
初日からミスしてしまった。
気を付けなくては。
「今回は於路地案件ということもあり、まだ作戦は立っていません。彼は術のスペシャリストです。どんな痕跡も消し去ってしまう。いちおう住居は特定しているのですが……。過去に探ろうとした人間は消息を絶ちました」
なにもかも不明ということだ。
すると赤尾さんが口を開いた。
「けど、イチカは先生の部屋に住んでるんですよね? やはりイチカを追うしかないのでは?」
「先生を直接追うのとリスクは変わらないと思いますが?」
「ま、自宅周辺になんらかのトラップがあると見られる以上、そうなりますわな。なら、外へ出ているところを狙うしかない。それも、二人が同時に出ている状態が望ましい」
そんな状態、あるだろうか?
いや、ある。
イチカがピンチになったとき、先生が駆け付けてきた。
つまりイチカをピンチに追い込めば、二人同時に外出させることができる。
俺は挙手をした。
「じつは先生から依頼が来そうなんです。どうやら彼は、俺を次の被害者にするつもりらしくて。うまくすれば、その仕事が使えるかも」
とはいえ、俺が探偵事務所と接触していることは、先生も気づいているかもしれない。罠にかけたつもりが、かけられているということもありえる。
かといってほかに策もないが。
ボスは「ふむ」とうなった。
「リスクはありますが、他のケースよりはマシかもしれませんね。分かりました。霧島さんはその依頼を受けてください。おそらくイチカもセットで動員されるでしょうから、できるだけイチカをピンチに追い込むようにお願いします。その隙に、私と赤尾さんで先生に対処します」
「対処とは?」
俺が尋ねると、ボスはかすかに笑った。
「安心してください。戦ったりしませんから。戦って勝てる相手でもありませんし。ただ、追跡くらいはできると思います」
「バレませんか?」
「バレますね。そしてバレたとき、私たちをどんな罠にかけようとするのかを見ます。それで失踪者の行き先を特定できるかも」
いや、それもリスクが……。
先生は時間を止めることができるのだ。たぶん一定の範囲内だけだが。簡単に追い回せる相手じゃない。
とはいえ、彼女たちは探偵だ。
本館で生き延びている。
俺には思いつけないような策があるのかもしれない。
思案していると、ナツさんがお茶を出してくれた。
「はいどーぞ」
「ありがとうございます」
にこりと笑顔を見せてくれた。
俺の失言があったにもかかわらず。
本当に気を付けないといけない。俺はここでは赤ちゃんみたいなものだ。勝手をなにも理解していない。慎重に行動しなければ。
すると生倉さんはデスクに戻り、引き出しからなにかを取り出した。
「霧島さんにはこれを」
「えっ?」
拳銃だ。
黒曜石のような質感をしている。
「あくまで護身用です。トリガーを引けば弾が出ます。ただ、経絡から気を送り込む必要があるので、できるだけ腕を伸ばして撃ってください。弾は、体力が続く限り無限。必要でしたら二丁お貸しします」
物騒なことを淡々と説明してくる。
いや俺も刀を持ってるから、人のことは言えないんだが。
「ちょっと待ってください。銃ですか?」
「刀も悪くありませんが、遠距離から人を殺したいときもあるでしょう」
「あるかな……。でも、気で撃つんですか? 俺、そんな心得ありませんよ」
「大丈夫ですよ。私だって気なんて使いこなせませんし。気と言ったって、人体に蓄積した静電気みたいなものですから。誰の体にも流れています。調整はすべて銃がやってくれますから」
それって、銃に生命力を吸い取られているということじゃないのか?
となると……。
俺の刀も、そういうタイプの武器だったりして?
いやまさかな。
「ありがとうございます。けど、しばらくは刀でなんとかしますよ」
「そうですか? 必要ならいつでも言ってください」
俺は茶をすすり、周囲を見回した。
もう話はおしまいだろうか?
だとしたら、少し本館を散策してから帰りたいんだが……。
赤尾さんが立ち上がった。
「じゃ、解散かな。途中まで送るよ。向こうの鍵を閉める必要もあるから」
「できれば、少し本館を見て回りたいんですが」
「えっ? なに言ってんの? 死ぬよ?」
「死ぬ?」
噂には聞いていたが、危険なのか?
さっき少し歩いた感じ、ちっとも別館と変わらなかったが。
生倉さんも溜め息だ。
「この近辺は術で保護されていますから、安全に見えたかもしれませんが。一歩でも保護の外に出たら、危険な捕食者に食い殺されますよ。ここでは挨拶より先に相手の命を奪う輩がうろうろしてますから」
「……」
そんなになのか?
ナツさんも哀しそうな顔だ。
「全員がそうではねんだよ? けっと、理性のねぇのもいっぺぇいっがら。人間には暮らしにぐい場所なんだぁ」
小柄だから少女に見えたが、じつは大人なのかもしれない。
ともあれ、不用意に出歩かないほうがよさそうだ。
好奇心はネコをも殺す、と、古人も言っていた。
(続く)
 




