怪文書
だが進展はなかった。
多賀峰はどこかのメディア企業に勤務しているはずなのだが、それさえ特定できず……。せめて西那さんに話を聞ければいいのだが、俺では取りつく島もナシ。お姉さんも西那さんと対立している。師匠はそもそもこのコミュニティに来たがらない。
お手上げだ。
ある日、食事を済ませた俺は、自宅へ向かって歩いていた。
すると俺の姿を見つけた西那さんが、ダダダと猛ダッシュで駆け寄ってきた。一瞬、逃げようか応戦しようか迷ったが、そのまま立ち止まって様子を見ることにした。
「ちょっと霧島さん!」
「はい……」
どうせまた皮肉でも言ってくるつもりだろう。
もしなにか言ってきたところで、空気が振動しているだけなのだから、無視すればいいのだが。
「みゅーちゃんが……みゅーちゃんがいなくなっちゃったんですよ! なにか知りませんか?」
「ああ、例の野良ネコですか? そういえば見ませんね」
「なにか危ないことに巻き込まれてなければいいんだけど……」
うーん。
巻き込まれてるんだよなぁ。
しかも足が……。
「ちょっと前に見かけたんで、また戻ってくると思いますけどね」
「見た? ちょっと前っていつ? どこで?」
「えーと、数日前に……どこだったかな……あのー、まあ、どこかで……」
「そう……。あの、もしみゅーちゃんを見かけたら、絶対に教えてくださいね。どんな些細な情報でもいいんで」
「分かりました。そうします」
ネコのことになると真剣だ。
お姉さんのところで治療に専念してるはずだから、無事なのは間違いないのだが。
*
帰宅すると、ドアの前にお姉さんが立っていた。
今日もバスケットを抱えている。
「おや、こんにちは。今日はどんなご用で?」
「ええ、あの……こんにちは。少し……」
「ああ、ごめん。中で話そうか」
「はい……」
落ち込んだ顔をしている。
まさか、治療が進んでいないのか?
俺はクーラーボックスに腰をおろし、お姉さんにソファを勧めた。
「えーと、たまこちゃんのこと、だよね?」
「はい……」
泣き出しそうな顔。
想像以上に深刻そうだ。
俺がコップの水を用意していると、彼女はクーラーボックスの上にお菓子を用意し始めた。またアップルパイだ。用意しながら泣いている。
「あの、お水しかなくてごめんなさい」
「いえ。ありがとうございます」
緊張していたのか、彼女はこくこくと飲み干した。
そして何度も呼吸を繰り返す。
「様子、あんまりよくないの?」
「うぅ……」
いきなりぽろぽろと涙をこぼして、泣き出してしまった。
話が進まない。
泣きながらアップルパイを進めてきたが、とても食える空気じゃない。においはうまそうなのに。いや、ここはあえて空気を読まず、食うべきか。間が持たないしな。
俺が無遠慮にアップルパイを食い始めると、持参したお茶を出してくれた。動いてるほうが気がまぎれるようで、彼女の気持ちも落ち着いていった。
「あの、たまちゃんね、足は治ってきてるんです」
「それはよかった。じゃあ体は無事なんだね」
「はい、体は……。でも……もうずっとネコちゃんのまま……。なにもお話ししてくれなくなって……」
「……」
凄惨な体験をしたせいで、心を閉ざしてしまった……ということか。
気ままに外を出歩く気分にもなれないのだろう。
お姉さんはうつむいている。
「たまちゃん……ずっとネコちゃんのままなのかなって……。で、でも……それがいいなら、私、そのままでもいいんですけど……。でも、少しは……お話ししたいなって……」
あのクソ生意気な態度も、なくなると寂しいものだ。
しかもプリンを食いに来ないせいで、ストックが溜まり続けている。たまに自分で食べているが、あまりにも寂しすぎる。
お姉さんは両手で顔をおおってめそめそ泣き始めてしまった。
気の効いた言葉のひとつでもかけてやりたいところだが、なにも思いつかない。俺が多賀峰の追跡をさせなければ、こんなことにはならなかった。気安くフォローできるような立場じゃない。
「ごめんなさい。私、ずっと泣いてばっかりで」
「いいんだ。教えてくれてよかった。俺もあの子の気持ちを直せないか、ちょっと考えてみるよ」
誰かの心が傷ついたとき――。周囲の人間がなにをしても、絶対に、空回りになる。優しさが逆に傷つけてしまうこともある。
やり過ぎなければ、最終的にはプラスになるとは思うが。
根本的には解決しないと考えたほうがいい。
忘れたフリをできるようになるだけで。
もし笑顔でいても、ふっといなくなることがある。
それを思うと、どうしようもなくぞわぞわする。
なぜ俺は完璧じゃないのか。
俺が完全無欠の存在ならば、治したいと思ったものはなんでも治せるのに。
守りたいものも守れるのに。
殺したいヤツも殺せるのに……。
無力感にさいなまれてばかりだ。
力が欲しい。
すべてを解決する力が。
そうすれば、もう二度と大切なものを失わずに済む。
いや、極端な考えはよそう。
そんなことは不可能なのだ。
問題から目をそらしているだけだ。
俺たちは、自分にできることをやるしかない。
できることを、なんとか見つけるしかない。
*
それから数日、俺は廊下を歩くたび、野良ネコの姿を探した。
だが、見かけることはなかった。
食堂で煎餅をもらっても、一人で食べるしかない。神さまにプリンをお願いするのも、もうやめた。
ひとつも進展がない。
心が摩耗してゆく。
俺たちの争いは、傷しか残さなかったのか……。
*
「手、治ったんですね」
ぼうっと歩いていると、横から声をかけられた。
メガネくんだ。
「ああ、これ? まあ、ね……」
いったいなんの用だ?
「霧島さんもネコを探してるんですか?」
「えっ?」
「このところ、あちこち覗き込んでるようなので。あ、いえ、監視してたわけじゃないですよ。僕も西那さんに言われて、ネコを探してまして」
「ああ、そういうこと。俺もたまに遊んでたりしてたんで。急にいなくなって寂しくなったっていうか……」
「もしお時間あれば、少し話しませんか?」
「いいけど」
ちょうど休憩所に近かった。
ベンチは埋まっていたので、俺たちはフェンスに寄りかかった。
いつもなら、特に話すことはない。
だが、師匠の話を聞いてからというもの、俺もこの人物が気になっていた。
メガネくんは言った。
「じつは怪文書が出回ってまして」
「はい?」
「これとこれです」
二枚。
一枚目は、阿家智という人物が、かつて共和国で毒をバラまいていたという情報。いまもどこかに潜伏しているから注意しろという内容だ。かなり特徴をつかんだ写実的な似顔絵まで掲載されていた。指名手配写真のようだ。
二枚目は、金田という共和国の生き残りが、市民を扇動し、アパートで革命を起こそうと暗躍しているという内容。絵柄はコミカル。たぶんお姉さんが描いたものだろう。予算がなかったのか、紙質がやたら安っぽい。
どちらも事実ではない。
たしかに師匠は共和国で特権的な地位にいたらしい。だが、毒をバラまいてはいない。そうするのを止めもしなかったようだが。
二枚目は完全にデマ。だと思う。否定材料はないが、肯定材料もない。
事実なのは、両者が共和国にいたということだけ。
俺はそしらぬ顔でチラシを返した。
「なんなの、これ?」
「どう思います?」
「共和国って、あの毒で消えた連中だよね? なんでいまさら」
「じつは、僕が共和国にいたのは本当なんです。そしてこの阿家智という人も知ってます。彼が毒をバラまいていたというのは正確ではありませんが、それを止められる立場にいたのは間違いありません」
情報が正確だな。
彼は遠くを見ながらこう切り出した。
「先日、この似顔絵によく似た人物が、霧島さんの部屋から出てきたという目撃情報がありまして」
「えぇっ、誰がそんなことを?」
「情報提供者の素性は明かせません」
「どうせ西那さんでしょ? あの人、俺を嫌ってるから。でもたぶん、その情報は間違ってるよ。俺の部屋に来る人間なんて誰もいないよ」
「それはウソでしょう。先日、若い女性があなたの部屋を訪れたのを見ましたから」
「まあ、彼女くらいはいるけどね」
いないけどね。
メガネくんはこちらを見た。
「その女性、前に西那さんと口論してましたよね?」
「さあ」
「結構大きな声でケンカしてましたよ」
「内容は?」
「そこまでは。目撃証言によると、食べ物の話だったという話もありますが。ナマモノがどうとか」
食べ物?
ホモ漫画じゃなくて?
俺はあえて踏み込むことにした。
「で、どうすんの? 金田さん、当事者だよね? このデマの出どころを突き止めるとか?」
「分かりません。僕も誤解されると困るので、みんなに釈明しようと思ってたんですが。それより先に、みんなが励ましてくれまして。ここのみんな、とっても優しいんです……。僕はそれだけで十分だなって思って」
絵に描いたような好青年だ。
裏側はないのか?
いや、ありそうもないのがまた……。
「言っておくけど、俺も疑ってないよ。あんたが来てから、ここらはホントに平和になった。前はもっと殺伐としてたのにさ。少なくとも、家を出てすぐ獣に出くわすことはなくなった。感謝してるよ」
「僕はなにも。でもじつは、霧島さんに疑われてたらどうしようって思ってて」
「ま、その霧島って野郎はとんでもない偏屈だからね。そう思うのも理解できるよ」
「そこまでは……」
俺のジョークは通じたらしく、彼は笑ってくれた。
「もしかすると、コミュニティの分断を狙った外部の犯行かも。相反する情報を流しておいて、住民の対立を促したりするんだ。とにかく、俺も怪しいヤツがいないか警戒しておくよ。少なくとも、切り捨てる前に話を聞くようにする」
「できれば穏便にお願いします」
とはいえ、これは分断工作ではない。
たまたま二つの情報戦が重なっただけだ。
まったく、師匠の野郎。
早まるなって言っておいたのに、こんな怪文書を出しやがって。
お姉さんもお姉さんだ。クソガキの件で落ち込んでるのかと思いきや、こんなクソ仕事に手を貸して。
いや、真の問題はもう一件のほう――クッソどうでもいい怪文書だ。
おそらく多賀峰は、もっとクリティカルな情報をつかんでいるはずなのに。師匠の名前と似顔絵しか出さなかった。基本的に過疎地から出てこない師匠にとって、これはたいしたダメージではない。
目的はなんだ?
第二段があるのか?
多賀峰は手続きや契約にこだわる女だ。
もし人を殺す場合でも、獣になってしまわないよう、細心の注意を払うはず。
師匠をいきなり刺すとは考えづらい。
次はどんな手で来る?
誰を狙う?
俺を直接狙ってくれるなら手っ取り早いのだが……。
(続く)
 




