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入園ゲートを潜り抜けると、それまで控えめだったBGMが力強い音量に変化した。
――昔から、この瞬間がとても好きだ。
日常から非日常に切り替わる刹那。そのスイッチは、人によって到着した電車から降りた一瞬だったり、駅改札を通った直後だったりするのだろうけれど。私にとってのそれは間違いなく、園内に足を踏み入れたこの瞬間だった。アリスの不思議な鏡、あるいは古い空き部屋のクローゼット。
当然、そうした音響効果は意図的なもので、子供の頃はわからなかった理屈の存在も、今ではきちんと理解している。だからといって、幼い時の情動を笑い飛ばすような大人にはなりたくなかった。
不意に仄かな不安を覚えて、隣を窺う。私の横を歩く護の口元は緩みきっていて、表情はそれこそ子供のようだった。私は安堵した。彼が自分と近しい感情を共有してくれていると思えたからだが、すぐに私の表情は渋面になった。――もしかして、単に音量の変化に気づいていないだけなんじゃないか? などと思ったからだった。
実際、その可能性はある。護の鈍感さもだが、それ以前に、私達のあいだには種族差という大きな壁があるのだから。
吸血鬼と人間。両者の差は遺伝子的な数字以上に、ずっと、もっと大きい。歴史がそれを証明している。私自身の経験もそうだが、恐らくは――いや、そんな曖昧な言葉では足りない。絶対的に、私達はまだなにも知らないのだった。日々を過ごしていくなかで起こる些細な価値観の差異や誤解、そこからのすれ違い。そうした無数の出来事を私と護が経験していくのは、全てこれからのことだ。
不安がないかと言えば嘘になる。それどころか、この二週間程のあいだ、そのことについて考えない夜はなかった。
だというのに――湧き起こりかけた苛立ちを、私はどうにかして抑え込んだ。やめよう。せっかくの休みに、いきなり不機嫌になるのは自分でもさすがにどうかと思う。
くすりという笑み。耳に障ったその元をたどると、少し離れて歩く友人が、人の悪い表情を浮かべてこちらを眺めていた。護に気づかれないよう速度を落として距離をとってから、私は横目で彼女を睨みつけた。
「なによ」
「別に? 女の子してるなーって思って」
「言いたいことがあるなら、いくらでも。ただし、男の趣味がどうとか、そういうのはいらないからね」
「他人の趣味にケチつけたりしないわよ。っていうか、それ以前の問題でしょ」
あっさりとした口調にはなんの悪意もなかったからこそ。それ故に、その言葉は予想以上に私の内側に響いた。一瞬、息を止めて、
「……やっぱり、おかしいって思う?」
「そりゃ、まあね。ただの“タンク”とかならわかるけど」
タンク。吸血対象を指す言葉だ。
私達のような吸血鬼にとって、日常的に行う「得血」とは異なり、「吸血」という概念には特別な意味がある。特別な相手にだけ行い、特別な相手からだけ行われる――肉体的接触及び、それに伴う体液の交換。
はっきり言ってしまえば、セックスみたいなものだ。
だからこそ、私達の間でも吸血行為についておおっぴらに言及することは多くなかった。それこそ、昔は「結婚するまで吸血は慎むべし」なんて言われていたくらいに、それはプライベート中のプライベートな行いだったのだ。
最近ではさすがにそこまで厳しい貞操観念を問われることは少なくなってきているが、特別な相手にだけ、それなりの覚悟を以って行われるべき行為であることは確かだ。
一方、近頃は若い吸血鬼の間で風紀の乱れが問題になってきていて、それを象徴する言葉が“タンク”だった。いわゆる「肉体だけの関係」だが、意味合いとしてはもっと酷いかもしれない。直訳すればわかる通り、相手のことを『血の詰まった肉』としか見ていないからだった。
一般的に、“タンク”として選ばれるのは人間だ。吸血鬼は人間の血を吸うが、人間は吸血鬼の血を吸わない。まさに、一方的な「血の袋」というわけだった。そしてそれは、私達吸血鬼が、人間という近似種についてどういった見方を持っているかという証左でもある。
吸血鬼は、人間相手に恋をしない。愛も育まない。結婚なんてもっての外だ。
――なぜなら、人間は吸血鬼にとって敵であり、餌だから。
血の色とその味。いつかの記憶を思い出して、私は人知れず自分の腕をさすった。ほんの少し、鳥肌が立っていることに気づく。
ちらとそちらに視線を落とした彌生が訊ねてくる。
「実際、どうなの? 吹那からそういう話って聞いたことなかったからさ。今まで、彼氏とかっていたことあるんだっけ」
「まさか。彼が初めてよ」
「なるほどね」
なにかを納得したように、彌生が深く息を吐いた。気になる態度だったので目線で訊ねると、肩をすくめられる。
「ま、いんじゃない? 他人から止められたところで、聞くような性格じゃないだろうし。そもそも、レンアイなんてそんなもんでしょ」
私は渋面になった。
「なんだか、子供相手に言ってもしょうがないって感じに聞こえるんだけど」
「だってねぇ」
彌生は苦笑して、
「彼とのこと、ご両親にも知られてるんでしょ? なにか言われたりした? 多分だけど、なんにも言われなかったでしょ」
彼女の予想は正しかった。
二週間前。私の家にやってきた護は、そのまま家のなかまでお呼ばれして、しばらくなんでもない会話をやりとりしてから帰っていったのだが、その護が帰ったあと、両親から私には特になにもなかった。はっきりした反対とか、やんわりした非難だとかも、一切ない。人間の男の子との交際なんて絶対に反対されるだろうと思っていたものだから、私にはそれがとても意外だった。
お母さんはただただ困ったようにしていて、お父さんは――無言。なんとなく私の方からも気まずくて、最近の私とお父さんはまた少し前のように微妙な空気に戻っていた。
「でしょうね。ようするに、そーいうこと」
「どういうこと?」
「さあ? なにごとも自分で経験してみなきゃわかんない、ってことじゃない? だいたい、わたしだって人様に偉そうに言えるほどケーケンホーフとかじゃないんだからさ、訊かないでよ」
明らかにはぐらかされた気がしたが、友人がそれ以上は言うつもりがないようだったので、私は追及を止めた。不満な表情が顔に出ていたのか、彌生はもう一度苦笑いを浮かべて、
「ま、興味はあるけどね」
「興味って?」
「あの吹那が付き合うことになった相手が、どんな人間なのかなあって」
思わず沈黙するこちらを覗き込んで、悪戯っぽく笑った。
「大丈夫よ。横から取って食ったりなんてしないから。あー。でも、ちょっと誘惑してみるぐらいはアリ?」
「ナシに決まってるでしょ」
あはは、と彌生は笑った。
「ほら、行きましょ。彼氏が呼んでるよ?」
「……ほんと、変なことしたりしないでよね。お願いだから」
私の念押しには答えない代わり、ひらひらと気のない手を振りながら歩いていく。基本的には善良だが、人をからかう癖がある友人の性格を思って、私は顔をしかめた。
彌生の向こうにはこちらを振り返った護の姿が見えていた。ぶんぶんと、全力で両手を上下している。……本当に、子供だ。護の友人という男の子もおなじようなことをやっていて、ほとんど子供が二人だった。
呆れ交じりの苦笑を浮かべて、私もそちらに向かって歩を進めたのだった。