14 病院の記憶
様々な薬品のにおいが鼻孔を鋭く叩く。ここが病院なんだと、思い知らされた。
「! わっ」
頭から血を流し、縛り付けられて運ばれる男性を見た。
この建物――。外壁には窓が少なく、壁面ばかりが目についた。中の様子をうかがうことはできず、建物そのものが口を閉ざしているようだった。
“精神病院”
その野卑な俗称に見合わぬ威容でどっしりと構えている。周囲には人の住処などほとんどなく、どちらかというと木々に囲まれた場所に居を構えていた。
私はこの病院の廊下に、茫漠と座っていた。不意に現れる非日常に、ハッと意識が現実に引き戻される。この繰り返しだった。
「今井イマ子さーん」
「!」
呼ばれた。診察室、行かないと……。
「――」
「――」
診察。傍目から見て、1人の男に、1人の女が質問に答えるだけの、ただの会話。
一呼吸置き、男は『これは、今の時代珍しいことではないのですが』と、前置く。
安心させるための言葉、納得させるため――? 落ち着かせようとしている? でも……。
(言わないで――!!)
心臓が高鳴る。速まる拍動が手先を重くしていく。口の中が乾き、喉がひりつく。俯いた私の指先は、落ち着かなげに右腕をなぞっていた。『答え』を私は忌避していた。
「鬱症状。かな、と……」
(言われてしまった)
「最初は感じましたが、どうやら違ったようです。今日のカウンセリングで治療は終了です」
(って、言ってくれ……!!)
「アナタの病気、鬱というのは、ご存じかも知れませんが特定のストレスにより――」
これが、現実だ……。確かな、『それ』を表す『符丁』を聴いた。
「お薬を服用する必要があります」
男は、『答え』に至る道を示した。
穏やかな笑み。いかにも博愛を謳っているような風貌で、私にとって酷薄な告白を告げる。永久に思われた平穏は、この言葉を境に崩壊した。そんな悲劇のヒロインぶっている私は、身じろぎひとつできずに、男に目を向けて、茫漠と座っていた。
(でっ……でも大丈夫!『今の時代珍しいことではない』って言ってたし。もしかしたら、弱い人間だって思われるかもしれないけど……)
心の中では、大丈夫だと言い聞かせる自分と、その言葉を信じきれない自分とがせめぎ合っていた。
「どうしましたか? そんなに足、気になりますか?」
「あ」
気付けば足先をそわそわと動かしていた。
(行動の端々から心の隅々まで見透かされているような……ゾワっとする。この人、プロだ……)
心理学だか精神医学だか――。人の心を扱う学問の恐ろしさを、垣間見た気がした。
さしもの私も適当な相槌しかできずに、引きつるような笑みが浮かぶ。
(目の前の医師は呵責してくることなどない。しかし、恐らく社会は唾棄してくる――)
私のカテゴリが、一般人から精神病者へのシークエンスに移行したことを今一度確認した。
そう言葉が巡っただけで――、
私の輪郭は、今にも消えてしまいそうに像がぼやけていた。
「お薬を自分の判断で止めたりはせず、心配事があったら必ず相談してください」
「……」
居た堪れなくなる沈黙だけが私からの返事だった。
「次の診察日、来週のこの時間で良いですか?」
男が私を一瞥する。
「……」
続きを促す沈黙に頷きで応じ、立ち上がった。軽くえずく子芝居を挟んで――
「ありがとう……ございました……」
霧散しそうな声で、診察室を去った。
――、
胡乱な、別世界の生き物と思っていた人種が――、
最も近くの存在に――
自身が、“それ”になってしまった。
渇いた喉を鳴らした。
身に覚えのない糾弾が、私を混乱の海へと突き落とす。
「会社……暫く休もう。……最悪、フリーターでいっかな……」
あの頃の私は知らない。
この心の中のぐちゃぐちゃが、いつか心を愛でる記憶になることを――。
あの頃の私は知らない。
あの心の中のぐちゃぐちゃが自然と解け、いつか溜飲を下げる日が来ることを――。
病院の記憶、イマ子の記憶――。




