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第68話

「……偉すぎない?」


 思わず声が漏れた。


 私は、プリンの箱を胸に抱えていた。


 一ヶ月前からおやつを我慢して、一生懸命お金を貯めて、細かく細かくオーダーした超超超高級プリンである。つやつやで、なめらかで、カラメルが絶対にうまいやつ。冷蔵庫へ入れておけば、深夜二時くらいに勝手に私の口へ入ってきてもおかしくない危険物。むしろ入ってこない方がおかしい。プリン側にも、食べられる社会性というものが必要でしょう。


 そんなものを、私は今、未開封のまま持っている。


 しかも一個ではない。


 朔の分。私の分。龍兄の分。柚姉の分。俊くんの分。パパとママの分。おばあちゃんの分。家族全員分のプリンが、ちゃんと箱の中に並んでいる。


 食べていない。


 食べていないのだわ。


 これはもう、善行と呼んでもいいのではないかしら。善行どころか、偉業。食屍龍姫・玉織紬が高級プリンを前にして理性を保ち、未開封状態で持ち帰ろうとしている。歴史の教科書に載せてもいい。少なくとも、玉織家の冷蔵庫史には刻まれるべきだと思う。


 この一ヶ月、私は本当に頑張った。


 コンビニのプリン棚の前で二十七分固まった日がある。レジ横のスイーツフェアを見て、「これは誕生日会の前祝いだから実質食べてもいいのでは」と脳内弁護士が最低の弁論を始めた日もある。夜中、冷蔵庫の前で正座しながら、朔用に注文したプリンの確認メールを見つめていたら、ママに「何してんの」と言われ、「精神修行」と答えて普通に気味悪がられた日もある。


 一度など、朔の分だけ先に食べて、あとで似たようなプリンを買い直せば帳尻が合うのでは、という悪魔の発想が出た。


 その時は、私は自分の手を自分で噛んだ。


 痛かった。


 でも、プリンは守られた。


 偉い。


 私はその夜、自分で自分を三分くらい褒めた。途中で調子に乗って冷蔵庫のハムを食べたので、総合評価は少し下がったけれど、それでもプリンを食べなかったという一点だけで、私の魂はかなり善寄りに傾いたと言っていい。


「負けないわ……! 私は今日、プリンに勝つ女になるのよ……!」


 私はプリンの箱をぎゅっと抱え直した。


 箱の中から、甘い匂いがする。実際には密封されているから、匂いなんてほとんど漏れていないはずなのに、今の私の嗅覚には分かるのだ。卵。牛乳。砂糖。バニラ。焦がしたカラメルの苦み。舌の上でとろける未来。冷たい匙が表面を割り、ぷるん、と震える黄金色の幸福。


 いけない。


 考えるな。


 考えたら負ける。


「ふふ……ふひっ……朔、待ってなさい……」


 自分でも分かるくらい、気持ち悪い笑い方だった。


「今日は、食べてないプリンを持って帰る姉が来るわよ……!」


 誕生日会。


 素晴らしい響きである。


 私と朔は誕生日が近いので、玉織家ではだいたいセットで誕生日会が行われる。子供の頃からそうだった。私はいつも空腹で可哀想、というたいへん正しく、たいへん優しく、そしてたいへん私に都合のいい理由により、誕生日だけは毎年、満腹になるまで食わせてもらえた。


 おばあちゃんも来る。


 おばあちゃんが来るということは、私を甘やかす力が一段上がるということだ。ママは怒る。朔は蹴る。龍兄は気持ち悪く庇う。柚姉は嘘をつく。パパは難しい顔で胃薬を飲む。俊くんは困った顔で笑う。おばあちゃんは、その全部の上から「まあまあ、紬ちゃんもお腹空いてるんだから」と鍋を出す。


 最強。


 おばあちゃんは、ある意味で玉織家最強なのではないかしら。少なくとも私の胃袋に対しては、かなり強い。


 しかも今年は、ただの誕生日会ではない。


 巨人の国に接続されたダンジョンが見つかったらしく、そこから得た巨人用の食材や料理が用意されているらしいのだわ。玉織紬決戦前最後の食事として、総理や村山くんたちが手配してくれたらしい。誕生日に間に合うよう調整したと聞いた時、私は一瞬だけ、政府って神だと思った。


 普段は会議と書類と胃痛で人間を圧縮しているくせに、こういうところだけ妙に気が利く。


 うへへ。


 巨人飯。


 素晴らしい。字面だけで白米が進む。白米は今ここにないけれど、心の中で進む。巨人用の肉。巨人用の鍋。巨人用のパン。巨人用の骨付き肉。巨人用のケーキ。巨人用のプリンとかあったらどうしよう。いや、あったら食うわね。考えるまでもなかった。


 私は、インベントリに突っ込んでおいた五メートル級ドラゴンを頭からばりばり踊り食いにしながら、そう思っていた。


 ばり、ばき、ごりっ。


 んぐっ。


 うまい。


 でも、これは間食だ。


 誕生日会前の軽い補給にすぎない。軽い補給で五メートル級ドラゴンが一匹消える女。考えるとかなり終わっているけれど、考えないことにした。今日はめでたい日なのだわ。めでたい日には、多少の胃袋インフレなど誤差である。


 尻尾がぶんぶん揺れていた。


 黒い龍翼も、出さないようにしているのに少しだけ背中の奥でうずいている。


 気づくと、私は軽くスキップしていた。


 玉織・ウキウキである。


「巨人飯かあ……足りるかしら……」


 食屍龍姫となっても、一ヶ月前までなら確実に足りた。満腹になれた。巨人の飯なんて、名前だけで圧倒的だもの。普通なら、そこに期待しない方がおかしい。


 けれど、この一ヶ月で私の燃費は壊滅した。


 龍帝対策という名目で、世界中が私へ飯を送った。私は世界を救うために食べた。仕事だから食べた。職歴だから食べた。けれど正直に言うなら、欲望に負けた部分もかなりある。満腹になってもなお詰め込むことを繰り返し、食えば食うほど強くなり、強くなれば強くなるほど腹が減る。


 牛の丸焼きは飲み物になった。


 鯨の群れくらいないと、身体の奥の空洞が黙らなくなった。


 複数のチェーン店が私への食糧供給で一時停止し、私用の流通までできた。肉、米、怪魚、魔物残骸、核廃棄物、迷宮汚染材。人類の物流は、いつの間にか私の胃袋を一つの戦略拠点として扱うようになっていた。


 昨日だって、死ぬほど食った。


 死ぬほど食ったはずなのに、今はもうすっからかんだ。


 私の胃袋、世界経済へ喧嘩を売っていないかしら。売っているわね。ごめんなさい。でもお腹は空くのよ。


 そのくせ、今日はプリンを食べていない。


 偉すぎる。


 私は歩きながら、スマホのメモ帳を開いた。


 誕生日会で家族に言いたかったこと。


 そう題したメモには、数日前からちまちまと書き足した文章が並んでいる。ママへ。パパへ。朔へ。龍兄へ。柚姉へ。俊くんへ。おばあちゃんへ。


 たぶん、かなり高い確率で言えないと思う。


 私は家族相手ですら、真面目なことを言おうとすると変な方向へ逃げる女だ。感謝の言葉を言うつもりが、照れ隠しで「飯うまかったわ」とか「プリンは偉いわね」とか言って終わる可能性が高い。


 ほんとうに駄目な女ね。


 二十六年生きてきて、まだありがとう一つをちゃんと言えない。


 でも、言いたいことはある。


 かけてもらった手間がある。食わせてもらった。叱ってもらった。殴られた。沈められた。島流しにもされた。まあ途中から家族愛というより処刑手段の実験みたいになっていた気もするけれど、それでも見捨てられなかった。


 私みたいな泥の歯車へ、玉織家はずっと手間をかけてくれた。


 その手間の五百億分の一にも満たないけれど。


 このプリンだけは返さなくてはいけない。


 食べないで持って帰る。


 それが今の私にできる、ほとんど唯一の善性だった。


     ◇


 朔に会った。


 正確には、会った瞬間、怒鳴り声が飛んできた。


「テメェ、昨日のあれ、聞こえてねえと思ったのか?」


「ふひっ、これ……」


 私はプリンの箱を差し出そうとした。


 差し出そうとしたのだけれど、朔の顔がかなり怖かった。とても怖かった。世界最強クラスの怪物と戦う予定の女が、妹の目つきだけで敬語になりかけるくらい怖かった。


 昨日、柚姉と私の偽装胸コンビで、朔の胸部事情をディスってギャハハハハしていたのがバレたらしい。


 無乳陥没乳首のAAAAカップだの、嘆きの平原だの、童貞まな板ゴリラだの、可哀想だから私の脂肪を少し分けてあげてもいいのよだの、柚姉と二人で最低の語彙をぶん回していたのだ。今思うと、死刑である。しかもあいつ、地球全土まで届くレベルの地獄耳なのを忘れていたわ。柚姉も詰めが甘い。いつもは人類全体を騙すくせに、こういう身内の地雷だけきっちり踏み抜くのだから、本当にあの女も玉織家だと思う。


「いや、あれはその……柚姉が悪くて……」


「舌抜くぞ」


「ごめんなさい」


 即謝罪である。


 朔は舌打ちした。


 柄が悪い。態度が悪い。目つきが悪い。私へ向ける殺意の温度も、距離の詰め方も、口の悪さも、全部いつもの朔だった。


 なのに。


 嫉妬心が湧かなかった。


 その瞬間、私の中で何かが冷えた。


 朔を見て、嫉妬しない。


 ありえないでしょう。


 朔は私にとって、ずっと嫉妬の対象だった。家事ができる。料理ができる。パパママから信頼されている。外では清楚ぶっている。社会性がある。コミュ力がある。善性がある。怒り方は最悪だし暴力は天災だけれど、それでも朔はちゃんと人間の側で回れる歯車だった。


 私は朔を見ると、だいたい嫉妬する。


 こいつは私より偉い。私よりまとも。私より強い。私より家族の役に立っている。私より人間の世界へ足を置けている。そういう惨めで醜い感情が、いつも胃液みたいにじわじわ上がってくる。


 それが、ない。


 胃が酸っぱくならない。


 喉の奥に、あの嫌な熱が上がってこない。


 こいつを妬ましいと思えない。


 それだけで、目の前の朔が朔ではないと分かった。


 私の嫉妬は、私の中で一番醜くて、一番正確な鑑定紙片だった。


 目の前の朔は、完璧だった。


 舌打ちする態度も、柄の悪さも、私へ向ける圧も、再現度は百パーセントに近い。けれど、ほんの少しだけ、違う。違和感はあまりにも細い。普通なら気づけない。龍兄でも一瞬は騙されるかもしれない。


 でも、私の嫉妬だけは騙せない。


 こいつは朔じゃない。


 宿敵の形をした何か。


 社会性もある。コミュニケーション能力もある。善性すら模倣している。けれど、それは鳴き声だ。擬態だ。相手の信じたいものをまとい、近づき、油断させ、食うための皮。


 それは飢餓だ。


 穴だ。


 終末だ。


 私はプリンの箱を抱えたまま、スキルを起動し、全力でガードした。


 そのおかげで、死なずに済んだ。


 次の瞬間、“朔”の剣が振り下ろされた。


 絶対切断。


 そして、あらゆるデバフの具現化のような災厄付与。斬られた部分から毒、腐敗、呪詛、遅延、麻痺、崩壊、精神汚染、運命劣化まで流し込んでくる、悪趣味極まりない斬撃。そこへ龍の膂力と、知あるものの技術、さらにそれが食らってきたあらゆる生物の長所が乗っている。


 この一ヶ月の暴食がなければ、私はたぶん数百回は死んでいた。


 それでも防げた。


 剣の軌道へ【界滅爪牙】を合わせ、【捕食抵抗】で災厄を噛み殺し、龍鱗を薄く重ねて、どうにか初撃を弾いた。


 腕が裂けた。


 血が飛んだ。


 プリンの箱が揺れた。


「……あ」


 私は箱を守った。


 守ったつもりだった。


 でも、剣圧と衝撃が指をこじ開けた。


 箱が、手から離れる。


 白い紙箱が、妙にゆっくり落ちていく。


 中で、家族全員分のプリンが小さく跳ねた。朔の分。私の分。龍兄の分。柚姉の分。俊くんの分。パパとママの分。おばあちゃんの分。ちゃんと分けて、ちゃんと名前まで貼ったプリンたちが、一瞬だけ箱の中で揺れて、それから角から地面へ落ちた。


 ぐしゃ。


 音がした。


 箱の端が潰れた。


 薄い蓋が裂け、黄金色の中身が押し出される。カラメルが泥へ滲む。バニラの甘い匂いが、血と土埃と災厄の臭いの中へ、場違いなくらい優しく広がった。朔の分と、私の分と、ママの分と、パパの分と、全部が混ざっていく。せっかく一人一人へ返そうとしたものが、誰のものでもない泥色の甘さになっていく。


 私が一ヶ月、おやつを我慢して買ったプリン。


 家族全員分のプリン。


 家族に返せそうだった、唯一の手間。


 かけてもらった手間の五百億分の一で、私の中に残っていた、ほんの小さな善性みたいなもの。


 それが、泥と血と衝撃で、ぐしゃぐしゃになった。


「……」


 偽朔は、もう私へ執着しなかった。


 擬態での奇襲に失敗した時点で、合理性が切り替わったのだろう。何も言わない。何も語らない。怒りもしない。悔しがりもしない。朔ならここで、絶対に何か言った。舌打ちでも、罵倒でも、私の情けない顔への追撃でも、何かしらの感情を吐いたはずだ。


 目の前のそれには、そういう無駄がない。


 ただ、どうすれば目の前の餌を最も確実に食えるかだけを計算している。


 それは逃げた。


 何故?


 食うためだ。


 不意打ちが失敗した以上、私に拘泥する理由はない。地球を食い荒らし、強くなって、九十九・九パーセントの勝率を百パーセントにしてから、また来ればいい。そういう、徹底的に合理的で、徹底的に腹立たしい判断。


 多分、封印が早く解けたのも、もう少し解除に時間がかかるように擬態で見せていただけなのだろう。


 金剛龍帝。


 封印はもう、解けていた。


 怒りはすぐには来なかった。


 空腹も、一瞬だけ遠のいた。


 ただ、ああ、と思った。


 ああ、もう誕生日会には行けないのだわ。


 最後のお別れも言えない。朔へプリンを渡せない。ママへ、いつも食わせてくれてありがとうも言えない。パパへ、アーティファクトの管理よろしくも言えない。龍兄へ、気持ち悪いけど助かったわよ、なんて絶対言えないまま終わる。柚姉へ、嘘つきだけど少しは尊敬してる、なんて死んでも言えない。俊くんへ、私の真似だけはしないでね、と言う機会もない。おばあちゃんの飯も、もう食べられない。


 朔には、食べていないプリンを渡したかった。


 たぶん「当たり前だろ」と言われる。たぶん「褒められると思ってんのか」と蹴られる。たぶん「ていうかテメェ、昨日の胸の件をプリンで流せると思ってんのか」と追撃される。


 でも、少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 目を逸らして、受け取ってくれる気がしたのだ。


 その光景が、もう無い。


 最後は殊勝な態度を取りたかったのに。


 今日の朝だって、私はまあ酷かった。家族の入った風呂水を飲んで恍惚の笑みを浮かべているところをママに見られた。最後に母親が見る私の姿がそれになるのは、いくら何でも最悪でしょう。最悪すぎるでしょう。いや、見せた私が悪いのだけれど。


 でも、下手に誕生日会で情を持たれるよりはいいのかもしれない。


 私がいなくなった時、少しでも「まあ、あいつはあいつだし」と思える方がいいのかもしれない。


 澪へは手紙を渡している。


 配信アーカイブの中で、家族へ言いたいことも、一応は言った。ふざけながら。飯を食いながら。かなり逃げながら。でも言った。たぶん。言ったことにしておきたい。


 それでも。


 最後くらい、ちゃんとしたかった。


「……クソ」


 私は地面へ手を当てた。


 地球の肌理が分かる。地脈。海。大陸。都市。人間。家族。公園。泥団子。肉まん。澪ハウス。玉織家。朔の誕生日会。全部が、私の指の下にある。


 魔王を食ったことで、ラーニングした転移術の性能は上がっている。


 今の私なら、できる。


 やらなければ、地球が食われる。


 私は地球を転移させた。


     ◇


 宇宙。


 地球は、私の周辺から消えた。


 正確には、私が地球を遠ざけたのだ。金剛龍帝の初手から逃がすために。どこまで持つか分からない。あいつが本気で追えば、距離なんて意味をなさないのかもしれない。それでも、地球上で戦うよりはマシだった。


 私は、もう戻れない。


 燃費が悪化しすぎている。ガキ共や澪と遊んでいる最中も、何度も飢餓で意識が飛びかけていた。世界中の補給ですら追いつかない。食べるべき災害も、迷宮も、怪異もほとんどない。今日が最後に人間ごっこができる日だったのだ。


 龍帝を食えば、別世界へ飛べるだろう。そこで暮らせばいい。地球には戻らない。戻れない。戻ったら、私自身が次の災害になる。


 でも。


 生きて帰って、地球から去る最後の最後に、誕生日会へ出たかった。


 プリンを渡して、巨人飯を食って、朔に怒鳴られて、ママに呆れられて、パパに難しい顔をされて、龍兄に気持ち悪いほど優しくされて、柚姉の嘘に腹を立てて、俊くんへ変な心配をされて、おばあちゃんの飯を食いたかった。


 それだけだったのに。


 私は宇宙で、潰れたプリンの箱を見た。


 持ってきてしまっていた。


 無意識に、握りしめていたらしい。


 中身はぐしゃぐしゃだ。もう家族へ渡せるものではない。カラメルは箱の内側へ滲み、プリンは潰れ、名前の札も甘い液体で汚れている。


 それでも、ちゃんと甘い匂いがした。


 ちゃんと、家族に渡すはずの匂いだった。


 私はそれを捨てられなかった。捨てられるわけがないでしょう。私が一ヶ月、おやつを我慢した証なのだから。


 その時、遠くで魔法が起動した。


 金剛龍帝。


【災厄龍星】


 いくつもの災厄を込めた惑星が、宇宙の闇を裂いて降ってきた。


 嘘でしょ。


 惑星である。


 隕石ではない。砲弾でもない。災厄そのものを中核へ詰め込んだ星が、いくつも、こちらへ落ちてくる。毒、呪い、疫病、飢饉、戦争、精神崩壊、法則破壊、概念侵食。それらを星の質量で包んで叩きつける、あまりにも馬鹿げた魔法。


 最終決戦の火蓋が、切られた。


 目の前の怪物は、最強の生物。


 生まれてから、エリュシオン・オンラインのテスターになった時から、今日までのことが、色々と浮かんだ。


 黒パーカー。布団。冷蔵庫。公務。魔石。澪。ガキ共。泥団子。朔の怒鳴り声。ママの飯。パパの書類。龍兄の気持ち悪い善性。柚姉の嘘。俊くんの困った顔。おばあちゃんの鍋。


 ここにいるのは、二体の怪物だ。


 ひとつは、食うためにすべてを最適化した終末機構。


 もうひとつは、食うことでしか社会に噛み合えなかった泥の歯車。


 社会への適応はできても、社会への渇望はない怪物。


 社会への適応はできずとも、社会へ憧れた怪物。


 暴食と、嫉妬。


 いや、違うわね。


 向こうが暴食で、私が嫉妬。


 ずっと、そうだったのだわ。


 私は人間が妬ましかった。家族が妬ましかった。澪が妬ましかった。朔が妬ましかった。普通に話せる人間が、普通に感謝できる人間が、普通に誕生日会でプリンを渡せる人間が、どうしようもなく妬ましかった。


 その嫉妬があったから、私は歯車側へ行きたかった。


 憧れていた。


 食べるだけの怪物になりたくなかった。


 だから、まだ戦える。


「……バイバイ、人間共」


 私は潰れたプリンの箱を、インベントリへしまった。


 捨てない。


 絶対に捨てない。


 たとえもう渡せなくても、これは私が愛らしき何かを返そうとした証なのだわ。


 世界を救うためではない。


 家へ帰るためでも、もうない。


 ただ、私が食べずに持って帰った、私の僅かな善性を集めてできたプリンを潰した奴を、許せなかった。


 私は龍翼を広げた。


 喉の奥に、飢餓の炉が開く。胃袋が吠える。全身の細胞が口を開ける。災厄龍星が迫る。金剛龍帝が、宇宙の向こうでこちらを見ている。


 怖い。


 腹が減る。


 泣きたい。


 でも、食いたい。


 私は笑った。


 かなりひどい顔だったと思う。


「来なさいよ、金剛龍帝」


 黒い宇宙で、私は爪を構えた。


「誕生日会を潰した罪、胃袋で払わせてやるわ」

次回掲示板か最終決戦か迷ってるので感想欄でご意見いただけると死ぬ程嬉しいです!ここまでついていただけて本当に嬉しかったです!

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― 新着の感想 ―
どっちもするなら先に掲示板が見たいです。
朝、洗面台の鏡の前で入念に髪を整えていたらナニカが足元から這い上がってきた あいつの顔が鏡に映り込んだ瞬間条件反射で鷲掴みしていた 朔〈なんでお前がここにいる? 子紬〈はらぱんー 朔〈…あいつまた何…
金剛龍帝…朔に擬態して不意打ちとは性悪な…折角の最後の日常が…プリンが…始まってしまうんですね…やっちゃえ紬さんぶっ飛ばせ〜! 決戦というメインは最後に取っておきたいかな…と思いますので掲示板先が良い…
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