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第46話

ここまで読んでいただけて、お気に入り、評価、感想、ここ好き、誤字報告、アンケート回答いただけてめちゃくちゃ嬉しいです。お礼に紬ちゃんをプレゼントします

スマホが鳴った。


 私はお家の客間で、布団に半分沈みながら、その画面を睨んでいた。


 表示名は、龍兄。


 出たくない。  すごく出たくない。


 だって、龍兄から電話が来る時点で、だいたい面倒ごとに決まっているのだ。あの男、顔と声と能力と善性の向き方だけは無駄に整っているくせに、人生の下半身まわりがだいたい放送禁止なのよね。そんな人間から電話が来て、平和に終わるわけがない。


 でも、無視するのも怖い。


 龍兄は普段、わりと放任主義だ。  私が布団の中で三日くらい溶けていようが、冷蔵庫を襲撃して朔に処刑されかけようが、まあ紬だしね、くらいの温度で流す。


 けれど、必要だと判断した時だけ、絶対に引かない。


 私はしばらく通話ボタンを睨み、それから、観念して指を滑らせた。


「……はい」


『紬』


 受話口の向こうから、いつもの落ち着いた声がした。


 腹立たしいくらい、穏やかで、聞き取りやすくて、相手を安心させる声。  中身があれでなければ、たぶん詐欺師か宗教家か政治家になっていたでしょうね。いや、公安なのだから、ある意味その全部の悪いところを少しずつ混ぜたみたいな職業かもしれない。


『今、大丈夫かな』


「大丈夫じゃないわ。お腹空いてるし、社会が怖いし、朔が隣の部屋にいる気配がして怖いし、何より龍兄から電話が来ている時点で人生の治安が悪いもの」


『それだけ喋れるなら大丈夫そうだね』


「そういう雑な診断、やめてもらえるかしら」


 私は布団の中で丸まりながら、ため息を吐いた。


「で、何。ご飯? 謝罪? 慰謝料? それともまたどこかの未亡人へ手を出して親族総出の追撃を受けているから、妹として情状酌量の嘆願書を書いてほしいとか?」


『違うよ』


「違うのね。じゃあ切るわ」


『紬。政府が君と話したがっている』


 切れなかった。


 指が、通話終了ボタンの手前で止まった。


「……は?」


『政府。内閣と、警察庁と、防衛省と、接続現象対策の関係者たちだね』


「いやいやいやいやいや」


 私は布団から半分だけ顔を出し、天井を見上げた。


「無理でしょう。何を考えているの。政府よ? 社会性の頂点じゃない。コミュニケーション能力と責任と常識と調整力の煮こごりみたいな連中でしょう? 私が最も近寄ってはいけないタイプの人種よ」


『知ってる』


「知ってるなら誘わないでちょうだい」


『必要なんだ』


 その言い方が、少しだけ変わった。


 軽くない。  冗談でもない。  いつもの、どうしようもなく気持ち悪い兄の声ではなく、玉織龍という男が本当に必要だと判断した時の声だった。


 私は、胃の奥が少しだけ冷えるのを感じた。


『渋谷ダンジョンは、後の解析でS級相当だと判断された。現行兵器がほとんど成立しない領域で、君は被害拡大を抑えた。結果だけ見れば、君がいなければ死者数は桁が変わっていた可能性が高い』


「……それは、まあ」


『日本には今、確認済みだけで百のダンジョンがある。他国の倍だ。探索者は特別テスターを中心に六万人程度いるけれど、高位ダンジョンへ即応できる人材は限られる。魔石の価値はもう政府も知っている。だから、国家としては君と協力関係を作りたい』


「嫌よ」


 即答だった。


「絶対嫌。政府とか無理。偉い人たちの前に出るとか無理。官邸とか無理。会議とか無理。資料とか無理。責任とか無理。私が五分で胃液を吐いて床を溶かす未来しか見えないもの」


『それも織り込み済みだよ』


「織り込まないでちょうだい。私の社会性崩壊を前提に国家運営しないで」


『だから、僕が同行する。村山君もいる』


「村山?」


『君がゲーム内で会った侍のレイ。村山玲。公安の僕の部下だ』


「……は?」


 私は布団の中で硬直した。


「え、あの、善良そうで、常識があって、私の食事風景にドン引きしながらも逃げなかった、あの侍君?」


『うん』


「公安?」


『公安』


「龍兄の部下?」


『そう』


「……可哀想」


『そこは否定しない』


 いや、否定しなさいよ。  部下でしょう。  上司でしょう。  せめて建前くらい取り繕いなさいよ。


 私はこめかみを押さえた。


 情報量が多い。  政府。村山。公安。龍兄。  全部、私の胃袋に悪い単語だ。


「じゃあ、あのサキュバスは?」


『僕だよ』


 布団から落ちた。


「ぎゃあああああああああああああっ!!」


『耳が痛いな』


「痛いのはこっちの精神よ! 何してるの!? 何でサキュバスなの!? なんでよりによって胸のバーを右端まで振り切ったみたいな女体でうろついてたの!? 公安最高戦力が何をやっているの!?」


『強いて言うなら、性欲かな』


「最悪の即答やめろ」


『僕は女体が好きだ』


「知ってるわよ! 嫌というほど知ってるわよ! 家族全員、あなたの下半身の尻拭いで人生の何割かを削られているのよ!」


『好きすぎて、そのうち女体になりたくなった』


「サイコパスなのよ」


 私は床に転がったまま、しばらく天井を睨んでいた。


 もう嫌だ。  この家、どうしてこう、上から下まで方向性の違う異常者しかいないのかしら。


『紬』


 龍兄の声が、また少し落ち着いた。


『断りたいのは分かる。でも、君はずっと、社会の歯車になりたがっていただろう』


「……」


『役に立ちたがっていた。必要とされたがっていた。自分がいてもいい理由を欲しがっていた。君はそれを、かなり下手なやり方でしか表現できないけれど、僕は見てきたつもりだよ』


「……ずるいわね」


 私は小さく呟いた。


「そういう言い方は、ずるいわ」


『うん。分かって言っている』


「本当に性格が悪い」


『それも自覚している』


 私は目を閉じた。


 断りたかった。  心の底から断りたかった。


 政府なんて嫌だ。  偉い人なんて嫌だ。  社会性の塊みたいな人間たちに囲まれて、まともな返事をしろと言われるのなんて、ほとんど拷問に近い。


 でも、龍兄には恩がある。


     ◇


 中学の頃。


 私は、血を吐くまでリンチされたことがある。


 別に、今さら綺麗な被害者面をするつもりはない。  当時の私にも問題はあった。空気は読めないし、気は利かないし、食い意地は張っているし、いらないことを言うし、善意を受け取るのも渡すのも下手だった。周囲から浮く理由なんて、両手では足りないくらいあったでしょうね。


 でも、だからといって、殴っていい理由にはならない。


 あの日、私は校舎裏で囲まれた。


 蹴られた。  殴られた。  倒れた。  立たされた。  また殴られた。


 スマホを向けられて、笑われた。


 誰かが言ったのだ。


『化け物退治だ』


 それで、みんな笑った。


 弱って、汚れて、血を吐いて、うずくまっている私を見て、笑った。  私が人間ではないみたいに。  殴る側の自分たちは、正義の側にいるのだと言いたげに。


 その時、龍兄が来た。


 普段の龍兄は、自分が何を言われても、よほど命に関わらない限り本気では怒らない。  女癖を罵られても、変態扱いされても、気持ち悪いと言われても、まあ事実だしね、くらいで流す男だ。


 でも、あの時だけは違った。


 あの兄は、本気でキレた。


 下手人たちは、最初こそ震えながら言い訳した。


 弱肉強食だから仕方ない。  あいつは化け物みたいだから。  強い奴が弱い奴を叩くのは自然だ。  自分たちだって怖かったんだ。


 龍兄は、それを聞いて、笑わなかった。


『弱肉強食?』


 声だけが、静かだった。


『なら死ねよ、弱者共』


 その瞬間の龍兄を、私は今でも忘れられない。


 別に、あいつらを殺したわけではない。  そんな単純な話ではなかった。


 けれど、龍兄は、彼らの言い訳を一つずつ潰した。  自分たちが強者だと思い込んでいた連中へ、本物の強者の論理を本当に振り下ろした。  暴力で他人の尊厳を踏みにじる覚悟があるなら、自分たちも同じ理屈で踏みにじられる覚悟があるのだろうと、逃げ道を全部塞いで、二度とそんな言葉を都合よく使えないようにした。


 あの時、私は怖かった。  自分のために怒ってくれた兄が、怖かった。


 でも、同じくらい、救われた。


 龍兄が善人かどうかは、今でも分からない。  たぶん善人ではない。少なくとも、綺麗な善人では絶対にない。


 けれど、あの時だけは。  あの兄は、私の尊厳を“人間のもの”として扱ってくれた。


 それは、返しきれない恩だった。


     ◇


「……受けるわ」


 私は、電話口へ向かって言った。


『ありがとう、紬』


「勘違いしないで。恩があるからよ。あと、社会の歯車っぽいからよ。あと、報酬とご飯が出るなら、少しだけ前向きになるわ」


『もちろん、食事は用意させる』


「量を間違えたら胃液吐くわよ。スプリンクラーみたいに」


『それは政府側へ強めに伝えておく』


「強めに伝えないと駄目な時点で、もうだいぶ終わっているのよねぇ」


 そこまで言って、なぜか少しだけ空気が緩んだ。


 私も龍兄も、電話越しに黙る。  沈黙が気まずいわけではない。むしろ、変に昔の距離感へ戻ったみたいな感じだった。


「そういえば、龍兄」


『何かな』


「政府の人たち、玉織家のことどのくらい知ってるの?」


『表向きに必要な範囲だけだね』


「じゃあ、動物園事件は?」


『知らないと思うよ』


「あれ、知らないのは可哀想ね。玉織家を理解する上で必須資料じゃない」


『紬が猿山に入って猿の餌を奪おうとして、逆に猿にボコボコにされた件?』


「そこだけ抜き出すと私がただの害獣じゃない」


『違うのかい?』


「否定しづらいけど腹立つわね」


 私は少し笑った。


「龍兄だって、日が暮れるまでメスキリンのお尻を見て、檻に向かって腰振ってたじゃない」


『あれは若気の至りだよ』


「小学生でしょうが。若さで済ませるな」


『朔に見つかって、君ごと東京湾へ沈められたね』


「そうよ。何で私まで沈められたのよ」


『一緒に恥を晒したからだろうね』


「私、食欲に負けただけなのだけれど」


『十分恥だよ』


「柚姉なんて、幼稚園児相手に“サンタは税金で動く公務員だけど予算削減で今年から抽選制になった”とかいうカスの嘘を吹き込んで泣かせてたのに」


『俊は普通に爬虫類を愛でていたね』


「俊くんだけが良心なのよねぇ」


『本当にね』


 そこで、私たちは少しだけ笑った。


 かなりどうしようもない笑いだった。  玉織家という地獄の中で育った人間だけが共有できる、ろくでもない懐かしさの笑い。


 次の瞬間。


 隣の部屋から、ドン、と壁を蹴る音がした。


 無言。  ただの壁蹴り。


 でも、それだけで十分だった。


「……」


『……』


 私と龍兄は、同時に黙った。


 朔だ。  あの女、絶対に聞いている。


「……じゃあ、詳しい時間を送ってちょうだい」


『うん。迎えに行くよ、紬』


「来なくていい、とは言わないわ。言わないけど、サキュバス姿では来ないで」


『分かった。現実では普通に行く』


「現実では、という注釈が怖いのよ」


 私は通話を切った。


 そして布団へ顔を埋め、小さく呻いた。


「……政府会議かぁ」


 胃が痛い。  もう痛い。


 でも、受けると言ってしまった。


 恩がある。  役に立てるかもしれない。  歯車になれるかもしれない。


 そして何より。


 ご飯が出る。


     ◇


 総理大臣官邸、地下深く。


 特別防空壕を改修した対接続現象対策会議室には、重い空気が満ちていた。  分厚い防音扉の向こう側では、まだ日常が日常の顔をしている。だが、この部屋にいる人間たちは、もうその日常が薄い膜にすぎないことを知っている。


 日本国内ダンジョン数、百。  他国平均の約二倍。  特別テスター由来の探索者、約六万人。  初回踏破報酬の魔石は、国家資源であり、医療であり、エネルギーであり、外交カードであり、同時に戦争の火種でもある。


 そして高位ダンジョンには、現行兵器が効きづらい。


 渋谷事変から三日。


 ダンジョンと神秘の隠蔽は、事実上破綻した。  政府は、認めざるを得なかった。世界は変わったのだと。


 その中でも、渋谷ダンジョンは後の解析でS級相当と判断された。


 近代火器の弾道が逸れ、爆炎が削がれ、衝撃が届く前に意味を失う。  戦車も、航空支援も、重火器も、“ある程度の低位怪異”には通用しても、高位ダンジョンの中心部には決定打にならない。


 そんな場所を、玉織紬は食い荒らした。


 報告書には、できる限り冷静な文体で記されている。


 民間協力者、玉織紬。  推定種別、食屍姫。  戦闘スタイル、捕食・再生・身体変性・汚染耐性・対怪異制圧。  渋谷ダンジョンにおいて、迷宮より流出した多数の怪異を捕食し、被害拡大を抑制。  魔石回収に貢献。  なお、行動中に自衛隊装備および戦車車両を捕食しようとした疑いあり。


 その最後の一文が、会議室の空気をさらに重くしていた。


「……来るのか、本当に」


 防衛大臣が、資料から顔を上げた。


「はい」


 警察庁警備局長が答えた。


「玉織龍経由で承諾を得ています。本人は強い抵抗感を示していましたが、協力意思あり。ただし、社会的圧力に対する耐性は低いとのことです」


「社会的圧力?」


「要するに、偉い人間が並ぶ会議が苦手だそうです」


「……そうか」


 防衛大臣は、それ以上追及しなかった。  この案件では、変なところを深掘りすると、だいたいもっと変なものが出てくる。


 会議室には、総理、防衛大臣、警察庁警備局長、内閣情報調査室長、自衛隊統合幕僚監部の将官、公安関係者、医療・研究部門の責任者が揃っている。


 そして、部屋の端には村山玲が控えていた。


 村山は、あの女を知っている。


 ゲーム内で、食屍姫ノアとしての彼女を見た。  人を食い、魔物を食い、鎧も魔法も食う、常識の外側へ踏み出した存在。


 だが同時に、村山は知っている。


 彼女は、食べ物の話をしている時だけ言葉が綺麗になる。  褒められると妙に嬉しそうになる。  社会の歯車になりたいという願望を、ひどく不器用に抱えている。  そして、自分を雑に扱われることには慣れすぎている。


 同時に、普通に自己中心的な人間のクズでもある。  そこを美談で覆ってはいけない。


 だからこそ、村山はこの会議を恐れていた。


 国家は、善意で人を壊すことがある。  必要性という言葉で、相手の尊厳を削ることがある。  まして相手が、強く、便利で、異常で、替えが利かないとなれば、なおさらだ。


 会議室の隅には、玉織龍の事前進言に従って、妙なものが山ほど積まれていた。


 業務用のおにぎりケース。  高カロリーゼリーの箱。  肉料理の弁当。  経口補水液。  非常用羊羹。  なぜか巨大なタッパーに詰められた唐揚げ。


 国家安全保障の中枢に置かれているには、あまりにも生活感のある物資だった。


「……本当に必要なのか、これは」


 誰かが小声で呟いた。


 村山は答えなかった。


 必要だ。  たぶん、かなり。


 やがて、扉が開いた。


 最初に入ってきたのは玉織龍だった。


 黒いスーツ。  落ち着いた所作。  どこからどう見ても、超一流の公安職員にしか見えない。  中身を知らなければ、誰もが信頼するだろう。


 その後ろから、玉織紬が入ってきた。


 黒いパーカー。  黒髪。  青みがかった目。  色白の顔。  少し気だるげで、けれど異様に整った外見。


 その瞬間、会議室の何人かが、ほんのわずかに息を呑んだ。


 想像より、ずっと人間に見えたからだ。


 いや、人間どころか、よく訓練された協力者にすら見えた。


 怪異映像の中で血まみれに笑う女とは違う。  目の前の玉織紬は、少なくとも第一印象だけなら、物静かで、少し陰のある、儚げな外見の女に見えた。


「玉織紬です。本日は、お招きいただきありがとうございます」


 声も綺麗だった。


 澄んでいて、落ち着いていて、耳当たりがよい。  【偽装経典】による補正だと事前に聞かされていなければ、誰もそれを異能とは思わなかっただろう。


 紬は椅子へ座り、背筋を伸ばし、穏やかな表情で会釈した。  視線の置き方も、間の取り方も、完璧に近い。


 会議室の空気が、一瞬だけ緩んだ。


 これなら話せる。  そう思いかけた者が、複数いた。


 村山だけは、内心で秒数を数えていた。


 一分。  二分。  三分。


 最初の説明は、驚くほど円滑に進んだ。


 政府側は、渋谷事変における紬の行動へ謝意を示した。  紬は丁寧に頷き、「結果的にお役に立てたなら何よりです」と返した。  防衛省側が、高位ダンジョン対策における協力の必要性を説明した。  紬は「私にできる範囲でしたら」と答えた。


 完璧だった。


 だからこそ、五分を過ぎたあたりで、その完璧さが壊れ始めた時、会議室の人間たちは余計に動揺した。


 紬の目が泳いだ。  指先が震えた。  口元の笑みが、ほんの少しだけ固まった。


「……ええと」


 声が湿った。


「すみません。社会性の残量が、だいぶ」


 次の瞬間、紬は口元を押さえた。


 龍が即座に立った。


「紬、横を向いて」


「む、無理」


 吐いた。


 ただの嘔吐ではなかった。  どろりとした胃液が床へ落ちた瞬間、耐酸処理されていた床材が、じゅう、と嫌な音を立てて溶け始めた。


 会議室が凍った。


 警備の一人が反射的に動こうとしたが、村山が手で制した。  龍は何事もなかったように紬の背へ手を添え、用意していた容器とタオルを差し出した。


「大丈夫。よく五分耐えたね」


「褒めるところかしら、これ……」


「君にとっては十分誇るべきところだよ」


 紬は涙目で口元を拭った。


「すみません……政府、怖い……偉い人多い……社会性が濃い……」


 総理は、しばらく言葉を失っていた。  だが、怒りはなかった。  むしろ、何かを理解した顔だった。


 これが玉織紬か。


 渋谷で怪異を食い荒らし、戦車砲を飲み込み、迷宮の入り口を噛み砕いた女。  そして、政府会議の空気に五分で胃を壊す女。


 怪物か、人間か。  その二択では処理できない存在だった。


 村山は、紬が吐いたことよりも、吐いたあと真っ先に謝ろうとしたことの方が気になった。


 あの女は、怪物じみた胃液で床を溶かしながら、それでもまず「すみません」と言おうとする。  その歪さを、政府は見落としてはいけない。


 その時、医療研究部門の責任者が、資料を確認しながら慎重に口を開いた。


「玉織紬氏については、現状、戦術級怪物相当の能力を有する個体として――」


「撤回してください」


 龍の声が、会議室を切った。


 静かだった。  怒鳴ってはいない。


 だが、その場の全員が分かった。  玉織龍が怒っている。


 紬は、きょとんとした顔で兄を見上げた。


「いや、龍兄。まあ、怪物ではあるでしょう。私もそう思うし」


「紬は黙ってて」


「はい」


 紬は即座に黙った。


 龍は、医療研究部門の責任者を見たまま、穏やかな声で続けた。


「彼女は民間人です。能力が異常であることと、怪物と呼んでよいことは同義ではありません。報告書上の分類語として必要なら、対怪異高適性協力者、特殊接続適応者、あるいは食屍姫系特別テスターとでも呼んでください」


「しかし、実態としては――」


「撤回してください」


 二度目。


 誰も、三度目を待とうとは思わなかった。


 責任者は、喉を鳴らして頷いた。


「……失礼しました。表現を撤回します」


 紬は、少しだけ困ったような顔をしていた。


 怪物と呼ばれたこと自体は、たぶん本当に気にしていない。  だが、兄が怒ったことには戸惑っている。  そして、その戸惑いの奥に、ごく薄い感謝の色があった。


 村山は、それを見逃さなかった。


 玉織紬は、自分の尊厳を守るのが下手だ。  だから周囲が守る必要がある。  そして玉織龍は、その役割を当然のように引き受けている。


 それは、政府が最も軽視してはいけない点だった。


 会議は、そこから本題へ入った。


 政府側が提示したのは、正式な雇用ではない。


 特別協力探索者としての登録。  高位ダンジョン攻略時の協力要請。  魔石回収への成果報酬。  専用の食料補給契約。  活動時の連絡役として村山玲を置くこと。  玉織龍の同席権。  空腹時の交渉禁止。  呼び出し時の食事準備義務。


 最後の項目に、紬の目が少しだけ光った。


「食事準備義務」


 小さく復唱した。


「そこ、もう少し詳しく」


 防衛大臣が、なぜか戦略級兵器の配備計画より緊張した顔で説明を始めた。


「現場投入前に、高カロリー食を一定量準備する。活動後には、捕食対象と安全性確認済み食材を含む補給を行う。必要に応じて、専用の食費補助も検討する」


「……うへへ……」


 紬が、ぽつりと呟いた。


「魔物を食べて、魔石を渡して、ご飯代が出て、感謝される……」


 その声は、さっきまでの偽装された美しい声ではなかった。  湿っていて、少し卑屈で、それでも妙に切実だった。


「それ、かなり良い話では?」


 龍が横で静かに頷いた。


「君に向いていると思うよ」


「言い方」


 それでも、紬の表情は少しだけ緩んでいた。


 会議室の人間たちは、その瞬間、ようやく理解し始めていた。


 玉織紬は、国家理念や大義では動かない。  だが、役割と報酬と食事と、ほんの少しの承認で動く。  それは不安定だが、同時に、かなり人間的な動機でもあった。


 総理が、静かに口を開いた。


「玉織さん。政府として、改めてお願いします。今後発生する高位ダンジョンおよび怪異災害に対し、民間協力者として力を貸していただきたい」


 紬はしばらく黙った。


 龍は何も言わなかった。  村山も口を挟まなかった。


 紬は、自分の手元を見ていた。  少し震える指。  社会性の残量を使い切った、どうしようもなく不器用な女の手。


 怖い。  たぶん、利用される。  便利な怪物として、都合よく呼ばれる未来も見える。


 だが、それでも。


 呼ばれないよりは、少しだけマシだと思ってしまった。


 やがて、紬は小さく頷いた。


「……受けます」


 会議室の空気が、わずかに変わった。


「私は、別に立派な人間じゃありません。善人でもないし、社会性もないし、たぶん、かなりクソです」


 誰も否定しなかった。  否定できなかった。


「でも、食べることならできます。食べて、強くなって、魔石を持って帰ることなら、たぶんできます。それで少しでも社会の役に立つなら……まあ、やります」


 少し間を置いて、紬は付け加えた。


「ただし、ご飯は出してください。かなり」


 総理は、重々しく頷いた。


「約束します」


 その約束が、国家の安全保障会議で交わされるにはあまりにも奇妙で、しかしあまりにも重要なものだったことを、その場の全員が理解していた。


 会議の終盤、医療研究部門の責任者が、慎重に資料を閉じた。


「では、協力関係の第一段階として、玉織さんご本人の安全確保と今後の活動負荷の把握のため、身体状態を確認させていただきたい」


 紬が首を傾げた。


「つまり?」


 健康診断。


 その単語の気配を察した瞬間、紬はなぜか、採血と体重計と胃カメラと朔の笑顔を同時に思い浮かべた。


 どれも嫌だった。  とても嫌だった。


 責任者は、今度こそ言葉を選んだ。


「――まずは、健康診断から始めさせていただきたい。」

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― 新着の感想 ―
玉織家やべーのしかいなくて草 加点方式なら満点で減点方式なら0点……
あれ、そういえばMMOが現実にリンクしてから子紬達見かけてないような…? レントゲン撮影、胃カメラ…ヤバい予感しかしない!?
「魔石持ち帰ってくれるなら、ダンジョン内の魔物いくらでも食っていい」と言うだけで良いような気もする(笑)
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