第39話
通路の先、淡い光の向こうへ立っていた影を見た瞬間、私は心の底から嫌そうな声を漏らした。
「げえっ……河村澪!」
その名を口にしたのとほとんど同時に、隣を歩いていた侍──レイの気配が、ほんの一瞬だけピクリと変わった。
目線が止まった。息が止まった。でも次の瞬間には、もう何でもない平常の顔へと戻っている。
……本当に、ほんの一瞬のことだった。
しかも、向こうに立つ金髪の女──河村澪の方も、ごく小さな、けれど確かな仕草をした。レイへ向かって唇の前へ人差し指をすっと立てて、しぃ、とでも言うみたいに、軽く小悪魔的に笑ってみせたのだ。
何よ今の。ひどく気持ち悪いわね。そしてこいつ、無駄に顔の造形がいいわね。
つくづく腹立たしいことに、河村澪という女は、そういう“人類が無条件で好ましいと判定しやすい要素”を神様から雑に盛られて生まれてきたみたいな、暴力的なまでの見た目をしているのよね。
艶やかな金髪。黄金比を体現したかのように整いすぎた顔立ち。作りものみたいに長い睫毛。光の加減ひとつで印象を柔らかく変える、妙に澄み切った瞳。ただそこに立っているだけで、「この人は間違いなく綺麗です」と周囲の空間ごと納得させてしまうような、絶妙に優しくて柔らかい輪郭。
しかも、ただ見た目が綺麗なだけじゃないのだわ。
妙に親しげで、妙に安心感があって、妙に“絶対に害がなさそう”に見える。
だからこそ、余計に怖い。
あの手のキラキラした女は、普通なら私みたいな薄暗い珍獣へは自分から近づいてこない。もし万が一近づくとしても、相応に安全な距離を測って、相応に警戒心を持って、良くて“保護施設の可哀想な動物を見るような目”を向けてくるくらいが関の山でしょうに。
なのに、こいつはまったく違う。
ナチュラルに距離感がバグっているくらい近い。気味が悪いくらいに初手から友好的。しかも、その底知れない善意がどんなに拒絶しても全然ぶれないのだ。
怖い。本当に、本能レベルで怖い。
「……ええと」
隣でレイが、戸惑いを隠しきれない様子で控えめに声を出した。
「ノアさんのお知り合いにしては、その……わりとまともそうに見えるんですけど。どういう方なんですか?」
「異常者よ」
私は一秒の迷いもなく即答した。
「私みたいな手遅れの人間へべたべた絡んでくる時点で、すでにだいぶ人生終わっているのよ。百歩譲ってそこを差し引いたとしても、紛れもない立派な異常者だわ」
「えー、ひどいですよぉ、紬さん」
澪が、これ見よがしにふくれっ面を作ってみせた。腹立たしいことに、その不満げな顔すら無駄に可愛い。
「ちっともひどくないでしょう。事実しか言っていないわ。幼稚園の頃、犬の落とし物が付いた汚い棒をエクスカリバーだと言い張って私を追い回したでしょう。カブトムシになるんだとか言って、わけのわからないカブトムシの着ぐるみを着て本気で木の樹液を吸っていたし。『究極ご飯』とかほざいて、カレーとラーメンとハンバーグをぐっちゃぐちゃに混ぜた得体の知れないものを、目をきらきらさせながら食べていたじゃないの」
「むぅ……でもでも、紬さんだって大概でしたよぉ?」
澪は、まるでその反撃を待っていましたと言わんばかりに、嬉々として食いついてきた。
「幼稚園の運動会の徒競走で、ゴールテープをガン無視して、ご家族が広げていたお弁当へ向かって一直線に全力ダッシュしたのは誰でしたっけ? 遠足の最中、熊が出たって大騒ぎになってみんな泣きながら逃げているのに、『新鮮なジビエ!』って叫んで熊の方へよだれを垂らしながら走っていったのは誰でしたっけ? あと、海へ行った遠足では、先生がちょっと目を離した隙に、釣りをしてる見ず知らずのおじさんの餌箱へ顔を突っ込んでむしゃむしゃ食べてましたよね?」
「ちょっと待ちなさい! それは切り取り方が完全に悪意に満ちているわ! 私はあの時、極限状態の空腹だっただけで──」
「いくら空腹だからって、釣り用の餌箱へ直接顔を突っ込むのは、一般的な社会のルールから大きく外れているんですよぉ」
ぐっ。
正論を、やたら滑らかに、しかも笑顔のまま刺してくるのよね、この女。
本当にやめてほしい。私にだって、他人へ見せたくない最低限の見栄や矜持くらいはあるのだわ。
「……そうは言うけれどね、澪。あなた小学校の頃はぶっちぎりで成績最下位だったじゃない。モンシロチョウを追いかけて肥溜めにダイブして悪臭騒ぎを起こしたし、自己紹介で好きなタイプを聞かれた時も『カブトムシみたいな人です!』って即答して、担任の先生を本気で頭抱えさせていたじゃないの」
「えへへ」
「まったく褒めてないわよ」
「なんだかんだで、昔から仲が良かったんですね」
私と澪の応酬を聞いていたレイが、ぽつりとこぼした。
「良くないわ」
「めちゃくちゃ仲良しです☆」
私と澪の声が、恐ろしいほど綺麗に重なった。
こいつ、本当に腹立たしいわね。
「でもね、こいつはそのあと引っ越したのよ。中学へ上がるくらいの時期だったかしら。それで、お互い大学に入るくらいの年齢になった頃に、急にひょっこりこっちへ帰ってきたと思ったら──」
私は言葉を切って、澪の顔をまじまじと見た。
今もそうだけれど。あの帰ってきた時のこいつは、今以上に、笑顔が綺麗すぎたのだ。
不自然なくらい。まるで精巧な作りものみたいに。顔の筋肉がぴたりと正しい位置へ貼りついたような、微塵の隙もない完璧な笑み。
私はその時、なんとなく気味が悪いと思った。でも、その違和感の奥へ踏み込む気は起きなかったし、他人の心へ踏み込めるほど立派でできた人間でもなかった。
「今でこそ、平日の昼間からひとり焼肉へも余裕で突撃できる鋼の精神と胃袋を獲得している私だけれど、あの頃はまだ、お一人様で飲食店へ入るのに少しばかり抵抗があったのよね。だから、ちょうどよく帰ってきたこいつを捕まえて、駅前の居酒屋へ連れ込んだのよ。大人の階段を一つ登った気になって、普段は口にしないお酒なんかも頼んじゃって」
「それで、紬さんったら信じられないくらい大暴走したんですよねぇ」
澪が、当時のことを思い出したのか楽しそうに口を挟む。その声音はひどく軽いのに、なぜか聞いている私の背筋が寒くなるのよね。
「……ええ、したわよ。ベーシックインカム五百億円よこせ、ふかふかのお布団と山盛りのご飯とソシャゲの課金石をよこせ、こんなに可愛くて可哀想な私を無条件で甘やかさない世界が悪い、ご飯を食べたらお腹の中からなくなってしまう物理法則が悪い、みんな幸福で満たされてもいいはずなのに、不幸とか悪意とか……絶望的な空腹が存在している世界が根本的に間違っている、って。そのあたりの世の不条理について、一通り熱弁を振るった記憶があるわ」
「なんというか……スケールが壮大ですね……」
レイが、少し引いた顔で相槌を打つ。
「壮大というか、やけ酒の勢いで現実世界の基本仕様にキレ始めるの、控えめに言ってだいぶ終わってますよね」
「うるさいわね。人間、お酒が入るとたまにはそういう宇宙規模の不満を天に向かってぶちまけたくなる時だってあるのよ」
「でも、その時の紬さんは本当にすごかったんですよぉ」
澪が、にこにこと人の気も知らないで続ける。
「最初はただの酔っ払いの愉快な戯言かなって思って聞いていたんですけど、途中からどんどん本気になってきて。『みんな幸福で満たされててもいいのに、不幸とか悪意とか空腹がある世界が悪い』って、すごく真剣な、今にも泣きそうな顔で訴えるから──」
「そこで、あなたが突然、腹を抱えて大爆笑し始めたのよね」
私は恨みがましく、じとっと睨みつけた。
「あれは本気でちょっと怖かったわよ。普通の笑い方じゃなかったもの。何というか……見ているこっちが恐怖すら感じるほどの、悍ましいレベルの狂気的な大爆笑だったわ」
「えー? 私、そんなことしましたっけぇ?」
「間違いなくあったわよ」
澪は、相変わらず一点の曇りもない綺麗な笑顔のまま小首を傾げた。その表情が、また妙に底知れなくて怖い。
ま、私にとっては今さらどうでもいい過去のことだけれど。
「とにかく、昔はあんなアホみたいなクソバカだったくせに、しれっと医学部に入りやがって、今は立派な現役のお医者様よ。あのうちの冷酷無比な妹の朔でさえ、こいつのことだけは心底尊敬して慕っているの。本当に世の中のバグとしか思えないわ。腹立たしいことこの上ないでしょう?」
「紬さん、ジェラシーがすごいですねぇ」
澪が、わりと素直な感想をこぼした。
「紬さんってば、ひとりで七つの大罪の半分くらいは余裕でコンプリートしてません?」
私は無言で、さらにじとっと睨みつけた。
こいつ、底抜けに善良で常識があって社会性もある立派な大人のくせに、こういうところだけ妙に容赦がないのよね。
私のコンプレックスを的確につつくのが上手いというか。本当にいやらしい女だわ。
「……で。なんであなたがここにいるのよ」
私はため息をついて、澪へ正面から尋ねた。
「わざわざこんな大樹海の外れまで。私に何の用事があって来たのよ」
「だってぇ、紬さんと一緒にゲームがしたかったから来ちゃいました!」
澪は、嘘偽りのない真っ直ぐな笑顔でそう言い放った。
怖い。やっぱりこいつは怖い。
「……なんで私なんかとやりたいのよ」
理解不能な生き物を見る目で睨むと、澪はほんの少しだけ目を細めた。
「どーせ、紬さんは私の気持ちなんてちっとも理解してないんでしょうけれど」
その言い方だけが、ほんの少し静かで、妙な重さがあった。
「私はあの時、紬さんにちゃんと救われたんですよ。だから、大好きですよぉ、紬さん」
「私には誰かを救った覚えなんて一切ないわ」
私は本気で否定した。
「そもそもこの私の生涯において、自分から進んで利他的な善行をした記憶なんて、ほぼ皆無──ゲフンゲフンッ!」
ちょっとわざとらしく咳払いで誤魔化した。
いや、本当に、まったく覚えがないのだわ。少なくとも、私の認識の中では。
「でも大好きってのは、本当ね」
私はぶつぶつと文句を言いながら澪を指差し、隣のレイへ向かって説明した。
「聞いてレイ。こいつ、生きとし生けるものなら例外なく全部大好きなのよ。幼稚園の頃だって、誤って蟻を踏み潰しちゃっただけで三日三晩泣き続けていたし、山へ遠足に行った時なんてヒルに噛まれて血を吸われているのに、『この子も生きるのに必死なんです』とか慈愛に満ちた顔で言って、自分から喜んで血を提供していたほどの変態なのよ」
その「大好き」という広大すぎる博愛の範疇には、当然のように私のような出来の悪い珍獣も含まれているわけだ。
「それで? その広大な『生物全体』というカテゴリーの中で、私ってランキング何番目くらいに好きなのよ」
半ば自虐的な嫌味を込めて聞いてみた。
すると澪は、にっこりと完璧なアルカイックスマイルを浮かべたまま、沈黙した。
「……言わないのね」
「えへへ」
ああ、その沈黙で完全に分かったわ。
こいつの中での私の優先順位、ダニやミジンコと同じくらいだいぶ低いのね。絶対にそうに違いないわ。
「なるほど」
レイが、これまでのやり取りを見て妙に納得した顔で頷いた。
「納得しました。澪さんも、間違いなく紬さんのご友人なんですね」
「違うわ」
「そうですよぉ」
またしても、私たちの声が綺麗に重なった。
そして私は心底嫌そうな顔を作り、澪は心底嬉しそうに花が咲いたように笑い、レイはその真ん中で、どう反応していいか分からない何とも言えない顔をしていた。
……本当に、ひどく面倒くさいことになったわね。
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