おまけ ツムニー
ここまで読んでいただけて嬉しいです。
その日の私は、非常に追い詰められていた。
何に追い詰められていたのかと言えば、色々ある。
将来。
社会性。
食費。
妹。
現実。
そして、そういう全てのクソみたいな要素が積み重なった結果として発生する、どうしようもなく、やり場のない、劣情である。
いや、しょうがないでしょう。
二十六歳にもなれば、そりゃあそういう日もあるわよ。
むしろ何も無い方が怖いじゃない。生き物として終わっている感じがして。
だから私は、自室のベッドへ転がりながら、極めて個人的かつ極めて平和的な日課のストレス発散――通称、ツムニーへ入ることにしたのだわ。
平和的。
そう、平和的だったはずなのよね。
少なくとも、その時点では。
「……よし」
私は誰に聞かせるでもなく、小さく頷いた。
部屋の鍵は閉めた。
カーテンも閉めた。
ママも一階。
朔は大学。
兄姉は知らない。
完璧な布陣である。
ついでに、若干ムードが欲しくなったので、机の上へ置いてあったアロマキャンドルにも火をつけた。
いや、今思えば、あれが駄目だったのよ。
ああいう“小洒落たこと”は、社会性と注意力がある人間だけに許される文明なのだわ。
私みたいな、空腹と欲望と怠惰でできた珍獣が手を出していい分野ではなかった。
でも、その時の私は、少し浮かれていた。
「うふふっ……今日の私は、ちゃんとしてるわね……」
ちゃんとしてない。
全然してない。
むしろ、その自己評価が出た時点でだいぶ危ないのだけれど、当時の私はまだ気づいていなかった。
布団へ潜る。
もぞもぞする。
幸い、そこから先は非常に個人的な領域なので詳細は省くけれど、とにかく私はかなり真剣だった。
現実のクソさを一時的に忘れるため、全力だった。
そこに偽りはない。
そして、人間というのは、何か一つに集中すると他が見えなくなる生き物なのよね。
私はもともと一つに集中しなくても周囲が見えない側の人間だったから、当然、もっと見えなくなった。
焦げ臭い匂いがし始めた時も、最初は脳が理解しなかった。
「……ん?」
私はぼんやりと顔を上げた。
視界の端が、妙に赤い。
いや、待ちなさい。
赤い?
「…………は?」
机の上で、カーテンが燃えていた。
ありえない速度で、めらめらと。
嘘みたいに、景気よく。
私の“極めて平和的な個人活動”を嘲笑うみたいに、実家のカーテンが炎へ包まれていたのだ。
「えっ、ちょ、待っ、は!? いやいやいやいや!!」
私は半裸に近いひどい格好のまま飛び起きた。
パニックで脳味噌が真っ白になる。
とりあえず叩く。
近くにあったクッションで叩く。
でも、余計に燃え広がる。
「何でよ!? 何で!? 私、今すごく個人的なことしかしてなかったでしょうが!!」
火事に対する抗議としてだいぶ意味が分からなかったけれど、その時の私は本気だった。
理不尽じゃない。
実家が燃えるほどの罪かしら、これ。
いや、まあ、キャンドルをつけたのは私だけれど。
でも、ほら。
情状酌量という言葉があるでしょう。
「水! 水、水水水水!!」
私は部屋を飛び出し、廊下を走った。
その時点で、だいぶ終わっていた。
なにしろ、私の格好が終わっていた。
顔は焦っている。
髪は乱れている。
服は雑。
そして背後からは、わりと洒落にならない煙が上がっている。
一階にいたママが、顔を上げた。
「……何その格好」 「それどころじゃないわよ!! 燃えてるの! 私の部屋が!」 「は?」 「火! 火事! でも原因の追及は後にして! 今は消火を優先しましょう!?」
ママの顔色が変わった。
その瞬間にはもう、家の中へ怒号が響いていた。
「バケツ!! 早く!!」 「はいっ!」
私は反射で返事をした。
こういう時だけ、コミュニケーションが明快なのが腹立たしいわよね。
“燃えてる”“消せ”“走れ”みたいな、単純な命令だけで成立する世界、嫌いじゃないわ。
でも、その直後。
「……待ちなさい」
ママが、私を見た。
頭から爪先まで。
すごく嫌な静けさで。
「紬」 「な、何かしら」 「お前、何してたの」 「火事の話をしているのよ、今は」 「何をしてたの」 「だから、その、ええと……非常に個人的で、他者へ迷惑をかけない、平和的な」 「死ね」
ひどいでしょう。
娘が半泣きで消火活動してる最中に、第一声がそれなのよ。
いや、まあ、完全に私が悪いのだけれど。
結局、火はどうにか消えた。
私の部屋のカーテンと、机の端と、置いてあった雑誌の山と、ついでに私の社会的信用が焼けた。
その日の夜、帰宅した朔は、焼け焦げた私の部屋を見て、しばらく黙っていた。
私は正座していた。
ママは腕を組んでいた。
沈黙。
重い沈黙。
そして、朔がゆっくり口を開く。
「……原因、何?」
私は小さく息を吸った。
ここで嘘をつくか。
いや、無理ね。
どうせバレる。
何ならもう全員薄々分かってる顔をしている。
「……ツムニー中に、キャンドルが……」
ぱあんっ!!
言い終わる前に、ママの平手が飛んだ。
すごい音だった。
消火後だというのに、二次災害みたいな勢いだったわ。
「っっっったぁぁぁ!!」 「この大馬鹿が!! 何でそんな最悪な理由で実家を燃やすのよ!!」 「いや私だって燃やすつもりは一ミリも無かったのよ!?」 「当たり前でしょうが!! あったらもっと怖いわ!!」
朔は額へ手を当てていた。
本気で頭痛がしている時の顔だった。
「……何でこの女、欲情と放火をワンセットで発生させてんの……?」 「私に聞かないでちょうだいよ! 私が一番困惑してるわよ!」 「ねえママ、これもう実家へ住まわせちゃ駄目なライン超えてない?」 「超えてるわよ。でも野に放つ方が怖いでしょうが」
すごい言われようだった。
でも否定できないのが悲しい。
その後、私は当然のように正座で説教を食らった。
延々と。
火の取り扱い。
文明への適性。
欲情と安全管理の両立について。
あと、なぜツムニーへムードを持ち込もうとしたのか、という人格批判まで含めて、わりと満遍なく殴られた。
言葉で。
最後に朔が、氷みたいな目で言った。
「次やったら、燃える前にお前を消火器で■■■■するから」 「物理的な解決が早すぎるのよねぇ……」 「火元が喋んな」
ごもっともだった。
その夜、私は焼け跡みたいな匂いのする自室で、半泣きになりながら布団へ潜った。
実家を燃やした。
原因はツムニー。
どう考えても最低だわ。
でも、毛布を被って目を閉じた時、私は思ってしまったのよね。
「……まあ、一人で燃えずに済んだだけ、偉いかしら……」
偉くない。
直後、隣の部屋から朔の怒声が飛んできた。
「全然偉くねえよ寝ろクソ害獣!!」
聞こえていたらしい。
ほんとうに、我が家は壁が薄いのか、私の人生が薄いのか、どちらかにしてほしいところだわ。
感想いただけなければ読者様に紬と籍を強制で入れます。(脅迫)




