第32話
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――三十万円分。
寿司、焼肉、ラーメン、ケーキ。
普通の人間なら、月の食費として見ても二度見するような金額でしょうね。
でも、今の私にとっては違う。これは浪費ではない。贅沢でもない。ましてや娯楽ですらないわ。
生存のための、極めて合理的な補給行動である。
「よし」
私は小さく頷いた。
食う。
ただひたすらに、食う。
この三十万円を、可能な限り効率よく、無駄なく、栄養へ変換するのだわ。
意識を少しだけ集中すると、【嗅覚増強】が街の匂いを解像度高く拾い上げ始める。
醤油。豚骨。炙った脂。焼き魚。揚げ油。バター。砂糖。果物。肉汁。
そこらじゅうが、もう食べ物の気配だらけだった。
「うっっっまそ……!」
喉が鳴った。
胃袋がきゅうと痛む。
さっきまで“人間っぽい将来”だの“収支”だの考えていた脳味噌が、一瞬で全部どうでもよくなった。
最初はラーメン屋だった。
◇
結果として、醤油十。塩十。味噌十。豚骨十。全部大盛り。
替え玉は券売機連打の末に四十。餃子八。炒飯大盛り六。炙りチャーシュー盛り六。味玉二十。黒烏龍茶四。
最初に食券を置いた時、店員さんは「……はい?」という顔を一瞬だけした。
でも、そこはプロだったわね。
すぐに「かしこまりました」と言って、何事もない顔で厨房へ引っ込んだ。
心の中で何が壊れたのかは、たぶん聞かない方がお互いのためでしょう。
「いただきます」
私はまず醤油からいった。
ずるるるるるっ。
ごくん。
ああ、うまい。
魚介の輪郭と油の丸み。表面は上品なのに、胃袋へ落ちた瞬間にちゃんと“飯”として殴ってくる感じがある。偉いわ。
すぐに塩へ移る。
塩はきれい。麺の甘みが出る。
そのまま味噌。濃い。重い。たまらない。
豚骨で脂の天井を押し広げて、また醤油へ戻る。
「うふふっ……ローテーションって、大事よねぇ」
同じ味ばかりだと、さすがに胃袋にも礼儀というものがある。
でも、味を回せば話は別だわ。
醤油で舌を起こして。
塩で整えて。
味噌で腹へ重さを入れて。
豚骨で脂の幸福を追加する。
そこへ替え玉。味玉。餃子。炒飯。炙りチャーシュー。
完璧じゃない。
替え玉の皿が来るたびに、私はそれを片っ端から各スープへ割り振った。
数字だけ見れば気が狂っているけれど、四十杯分のスープへ均等に散らせば、まあ、かなり上品な追加量とも言えるでしょう。たぶん。
もぐ、もぐ、ずるっ、ごくん。
餃子で油を足し、炒飯で米の重みを入れ直し、チャーシューで肉の説得力を補強する。
味玉なんて二十個あっても、途中からただの呼吸みたいなものよね。
店内の空気は、途中から妙に静かになっていた。
たぶん私が静かなのがいけないのだわ。
これでも「うまい!」とか「最高!」とか大声で騒ぎながら食べていれば、まだバラエティだったのかもしれない。
でも、私はただ黙々と、正気の顔で、四十杯分のラーメンと替え玉を処理しているのだから、そりゃあホラーでしょう。
途中から、店員さんがもう私を見なくなった。
視線を合わせると色々と揺らぐのだと判断したのでしょうね。
賢明だわ。
最後の豚骨を飲み干した頃には、テーブルの上へ空丼が城壁みたいに積み上がっていた。
黒烏龍茶をぐっと流し込んで大きく伸びをし、私は静かに息を吐いた。
「……ふぅ。前菜としては悪くなかったわね」
その瞬間、店内の空気が一度だけ完全に止まった。
気のせいじゃないでしょうね。
◇
次は回転寿司。
本まぐろ大とろ二十。中とろ十八。
うに十六。いくら十四。炙りえんがわ十二。
サーモン二十。はまち十四。赤えび十二。炙りチーズサーモン十。
ハンバーグ寿司、えびアボカド、カルビ寿司、ネギトロ各十。
穴子一本握り八。えび天ロール十。茶碗蒸し八。あら汁六。うどん六。
プリン八。チーズケーキ六。特選三昧皿四。
タッチパネルが、途中から明らかに私を拒絶し始めていた。
注文確認の画面が一瞬遅れるのよね。
無言のくせに、妙に失礼なのだわ。
“本当に押し間違いではありませんか?”とでも言いたげな、あのワンテンポ。
「……押し間違いなわけないでしょう。私はいつだって本気よ」
少しだけ腹が立ったので、大とろを追加で二皿入れておいた。
こういう時、機械へ舐められてはいけないのだわ。
流れてくる。
大とろが来る。
中とろが来る。
うにが来る。
いくらが来る。
皿の色が金、黒、銀、赤と重なっていって、レーンの上がだんだん景気の良い惨状になっていく。
私はまず大とろをまとめていった。
はむっ。
んんっ……。
舌へ乗せた瞬間にほどける脂。
ああ、これよ。
人間文明の到達点の一つって、たぶんこういう瞬間に使う言葉なのよね。
そこへ中とろを重ねて赤身の密度を挟み、うにで海の濃さを足して、いくらで塩気を弾ませる。
えんがわの脂、サーモンの安定感、はまちの青っぽい旨味、赤えびの甘み。
ネギトロでなめらかに繋いで、カルビ寿司みたいな邪道で腹の向きを変える。
「んむっ……! んんーっ……!」
幸せすぎて、私は椅子の下で足をばたばたさせていた。
お行儀が悪いのは分かっている。
でも、仕方ないじゃない。幸せというのは、たまに身体の先から漏れるものなのよ。
途中で茶碗蒸しを吸う。
あら汁で温度を入れ直す。
うどんで少し腹の角度を変える。
プリンとチーズケーキで一瞬だけ甘味へ逃げて、それからまた寿司へ戻る。
「戻れるの、偉いわよねぇ……」
店員さんが何度か無言で皿の回収を試みたけれど、回収速度より私の摂取速度の方が上だった。
最終的には、私の前だけ皿の塔が左右へ分岐して、ちょっとした建築物みたいになっていたわ。
しかも問題はそこではない。
私があまりにも食べるせいで、レーン上の自分の後ろに皿が流れなくなったのだ。
……非常に不本意だけれど。
その時だけは、渋々、ほんの少しだけ食べるペースを落とした。
独占してよい幸福と、物流の流れを止めてはいけない局面は、分けて考えるべきでしょう。
私はそこまで理性を失ってはいないのだわ。まだ。
◇
焼肉は、さすがに別格だった。
特上カルビ八。上ロース八。ハラミ八。厚切りタン塩六。
壺漬け一本カルビ四。ホルモン盛り六。
白米特盛四十。石焼ビビンバ三。盛岡冷麺四。ユッケジャンスープ四。
キムチ盛り四。サンチュ三。烏龍茶六。デザートアイス四。
にんにくホイル焼き五。玉子スープ三。ナムル盛り三。
そして、例によって網交換は食事に追いついていなかった。
勝ったわね
「焼肉は米が本体なのよね……」
私は机を埋め尽くすどんぶり飯を見据え、トングを握りながら、真剣に呟いた。
肉はもちろん偉い。
でも、その肉の脂とタレを真正面から受け止めてくれる白米がいなければ、焼肉という文化はここまで完成しなかったでしょう。
無料のキムチをおかずにしても、白米って相当食べられるのよね。恐ろしいほど偉い炭水化物だわ。
肉を乗せる。
焼ける。
裏返す。
その間に白米特盛を掻き込む。
焼けた肉を取る。
タレへ浸ける。
ご飯へバウンドさせる。
口へ放り込む。
「うっっっっま……!」
脂。
米。
肉汁。
塩気。
甘辛いタレ。
にんにく。
暴力のフルコースじゃない。
特上カルビは幸福。
上ロースは綺麗。
ハラミは力強い。
タン塩は噛み応えが気持ちいい。
ホルモンは脂の弾け方がいっそ下品で、そこがいい。
壺漬け一本カルビなんて、一本丸ごと“私は今、焼肉をしている”という実感の塊だったわ。
「米うまっ!肉うまっ!これならいくらでも食えるわ!」
私はほとんど感動していた。
白米特盛が四十杯。数字にすると気が狂っているけれど、肉の暴力を受け止めるには、それくらい要るのよ。
むしろ控えめでしょう。
網はどんどん焦げる。
店員さんの交換が追いつかない。
なのに私の方は食べる手を止めないものだから、卓上は常に焼き途中、食べ途中、注文途中の全てが並列して進行していた。
途中で石焼ビビンバを差し込み、冷麺で温度を落とし、ユッケジャンスープでまた火をつけ直す。
にんにくホイル焼きは途中で吸うと偉い。
ナムルは誤差みたいな顔をしているくせに、口の疲れをリセットしてくれるからやっぱり偉い。
最後の方になると、店員さんの声が妙に丁寧になっていた。
「お、お下げしてよろしいでしょうか……?」 「ええ、どうぞ」
ご馳走様でした。量以外は完璧だったわ。
◇
それで終わりではないのよね。
当然だけれど。
ケーキ屋。
苺のショート八。和栗モンブラン六。ガトーショコラ六。フルーツタルト六。
シュークリーム十。プリン八。焼き菓子詰め合わせ三。
ロールケーキ六。フィナンシェ四。
焼肉のあとに甘味。
この順番、最高だわ。
胃袋の中身が一度きれいに“締まって”から、そこへ別腹という名の新しい空間が開くのよね。
「人間の身体って、ほんとうまく出来てるわぁ……」
私はショートケーキから入った。
苺の酸味。生クリームの軽さ。スポンジの甘さ。
さっきまでカルビとタン塩で殴ってきた世界が、急に頬を撫でるみたいな顔をしてくる。
そこへモンブラン。
栗の密度。ねっとりした甘み。
ガトーショコラでさらに重量を足し、フルーツタルトで酸味を戻す。
シュークリームは数が多いから偉い。
プリンはほとんど飲み物だからもっと偉い。
焼き菓子詰め合わせは途中でつまむのにちょうどよく、ロールケーキは一切れごとの幸福がはっきりしていた。
フィナンシェなんて、もはや口へ入れた瞬間にバターの勝利宣言が聞こえるくらいだったわ。
◇
「ご馳走様でした!」
合計三十万円。
私はきちんと両手を合わせて頭を下げた。
だいたい百キロ前後。
食屍姫化する前の私じゃ、ここまでは食べられなかったわね。
成長期の頃なら――どうかしら。あの頃の私は常に狂っていたから、比較基準としてだいぶ怪しいのだけれど。それでも、ここまで食べれば一応満腹にはなっていた……気がする。
なってたっけ。
ううん、たぶん、なっていたことにしておきましょう。そうしないと昔の自分まで怖くなってくるもの。
さらに今は前と違うところがある。
胃袋へ落ちた栄養が、ただの満腹感として消えていくんじゃない。
【存在捕食】によって、確かに血肉へ、骨へ、芯の方へ積み上がっていく感覚がある。
食べたぶんだけ、私が私のものになる。
そういう感じだわ。
正直、食おうと思えばまだまだいける。
いけるのだけれど、ひとまず今回は満足と呼んでいい範囲だった。
……ただし問題が一つある。
私はレシートの束を見下ろしながら、ため息みたいに笑った。
「どうしよう…副業増やさないと…」
パワーで社会の役に立てるなら、それは良かった。
ただし、それはまともな燃費の場合の話だわ。
今日の食事量を見る限り、パワーのみで社会へ食い込むのであれば、遅かれ早かれ食費で破産する。
つまり、力仕事だけで生きるのは、構造的に詰んでいるのよね。
……やりたくないけれど。
配信は、ほぼ必須だわ。
ネットのおもちゃになりそうだし、なるべくなら避けたい。
でも、自分のスペックを冷静に棚卸しすると、それ以外でこの食費を補える未来があまり見えないのだもの。
犯罪方面なら、わりと色々思いついてしまうのが自分でも嫌なのだけれど。
それはさすがに、ね。
「暴食さんとしての経験と、【偽装経典】で誤魔化す……しかないかしら」
私はレシートを揃えながら、小さく呟いた。
こうやって一歩踏み出せるようになったのは、間違いなく【エリュシオンオンライン】のおかげだった。
踏み出した先が地獄だったとしても、詰んだまま朽ち果てるよりはマシ。
少なくとも、じっと腐るよりは、喰って腐りたいわ。
◇
というわけで。
私は黒いパーカーのフードを深く被り、髪で顔をなるべく隠した。
まずは試しに、大食い配信から始めてみることにしたのだ。
感想いただけなかった場合紬を読者様の嫁にします(脅迫)




