第10話
視界を覆っていた現実の自室の天井が、ゆっくりとフェードアウトしていく。代わりに、【エリュシオンオンライン】の鬱蒼とした木々の天蓋が、頭上いっぱいへ広がっていった。
フルダイブ特有の、身体ごと深い水の底へ沈み込んでいくような感覚。その心地よい没入感へ全身を包まれるなか、私の口元は自然と緩み、だらしのない笑みを形作っていた。
「さて、と。現実でも少しは満たされたことだし、仮想現実のお食事ライフを再開しましょうか」
そう呟いたところで、ふと視界の端でシステムアイコンがちかちか自己主張しているのに気づいた。指先でそれを開いてみると、昨日ログアウトする直前に届いていたらしい通知メッセージが表示される。どうやら、スキルの合計レベルが十五を超えたことで、『存在進化』の条件を満たしていたらしいわ。放置していたけれど、こういう大事なものはさっさと確認しておくべきだったわね。
提示されていた進化先は二つ。
【吸血鬼】と【ハイグール】。
【吸血鬼】の解説を読んでみると、吸血系統の固有スキルに、コウモリへの変身能力、他者を操る【魅了】まで得られるらしい。いかにも花形、といった感じで、能力としての見栄えはかなりいい。正直、ちょっと惹かれるわ。そういう、いかにも強キャラです、みたいな派手な能力、嫌いではないもの。
対して【ハイグール】は、見た目が人間へかなり近づき、これまで通り【捕食】へ特化したまま純粋なステータス強化を得られるという、極めて堅実で、極めて実利的な正統進化だった。
私は、穀潰しの無職である私を除き、一族全員が旧帝大以上の学歴を持つという優秀な血筋から受け継いだ――はずの頭脳をフル回転させ、論理的かつ冷静に最適解を導き出した。
答えは当然、【ハイグール】一択である。
私はこの世界でのロールプレイもそれなりには楽しんでいるけれど、何より最優先すべき絶対目標は「美味い飯」なのだ。コウモリへ変身して空を飛べようが、【魅了】でイケメンのNPCを侍らせられようが、人間の街の定食屋で熱々のカツ丼を注文する役には一切立たない。それどころか、吸血鬼へ種族が変わってしまえば、ゲームの仕様上、主食が「血液」寄りへ固定されてしまう可能性すらある。人間の食べ物が満足に食えなくなるなんて、本末転倒にも程があるじゃない。
労働せずに美味い飯をしこたま食いたい。
人間の見た目を取り戻して、人間の街へ堂々と入り込み、定食屋の隅で湯気の立つ料理を前に、何を頼もうか真剣に悩みたい。
その野望を叶えるための進化なのだから、ここで選ぶべきは華やかさではない。食事効率と人間社会への潜入適性である。
……まあ、【吸血鬼】も、見た目だけなら相当映えそうだったのだけれど。そこは仕方ないわね。コウモリよりカツ丼。魅了より定食。そういうことよ。
私は迷うことなく、システムウィンドウの【ハイグール】の項目をタップした。
『――存在進化:【ハイグール】を選択しました。これより、個体の再構築を開始します』
その瞬間、私の身体を淡く、それでいて力強い光が包み込んだ。
内側から骨格が軋み、筋肉の繊維が一本一本、より強靭なものへ組み替えられていくような、くすぐったくも奇妙な感覚。痛みはない。けれど、確かに「作り替えられている」という実感だけはあった。体の芯へ熱が通っていく。四肢の先まで、いままでより滑らかに力が行き届く。関節も少し軽い。呼吸も深い。前の身体より、明らかに出来がいいわね、これ。
グール特有の、死人みたいに青白く淀んでいた肌へ、内側から微かな血色が戻っていく。長年の引きこもり生活とゲーム三昧でひん曲がっていた猫背が、見えない糸で引っ張られるみたいに自然と伸びた。手入れをサボってぱさついていた黒髪にも、ほんの少しだけ水分と艶が戻り、背中で静かに揺れる。
やがて光が収まり、私は自分の両手を顔の前へかざして見つめた。
野獣みたいに鋭く尖っていた爪は少し丸みを帯び、一見しただけなら、もはやただの人間とほとんど変わらない容姿になっている。もちろん、キャラメイクの時に欲望のまま限界まで盛った胸のサイズは、一ミリの妥協もなくそのまま維持されていた。
「素晴らしいわね。これなら街に入っても、衛兵に即座に槍で串刺しにされることはなさそうじゃない」
この「人間に近づいた」という事実に、私は素直に胸が躍った。
見た目が整ったとか、擬態しやすいとか、そういうことももちろん大きい。けれど何より大事なのは、これで人間の街の飯へ一歩近づいたということだ。揚げ物、煮物、焼き魚、丼物、麺類。文明の食卓が、ようやく射程へ入ってきたのである。
目の前に、今回の進化による恩恵を示すシステムウィンドウが展開された。
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【存在進化完了:ハイグール】
基礎ステータス上昇: 全体的なステータスが大幅に向上しました。
通常装備システム解放: 人間種と同様に、武器や防具の装備枠が解放されました。
容姿変更: 人間種に極めて近い外見を獲得しました。
新規スキル習得: 【過剰代謝 LV1】【嗅覚増強 LV1】
私は新たに得た能力の詳細を確認していった。
【過剰代謝】は、胃袋へ蓄えたSP(空腹度)を急速に消費する代わりに、一時的に身体能力を爆発的へ引き上げ、同時に持続的なHP回復効果まで得られるアクティブスキルらしい。
……強い。間違いなく強いわ。
けれど同時に、かなり嫌なスキルでもあるのよね。
要するに、これは「空腹を燃やして戦え」ということなのでしょう?
ただでさえ放っておいても減り続けて私を苦しめているSPを、今度は自分の意思で一気に焚べろと言うのだ。ボス戦や緊急時には心強い。けれど、使いどころを間違えたら、そのまま餓死へ一直線でもある。便利で、実に私向きで、そしてとても危険。なんだかんだ言って、よくできたスキルだわ。
【嗅覚増強】は、文字通り、匂いによって周囲の環境や獲物をサーチする索敵スキル。
こちらは単純にありがたい。ソロプレイヤーにとって、索敵能力は命綱だもの。
……ただし、実際に発動してみると、そのありがたさにはだいぶ怪物寄りの気味悪さが混ざっていた。
私は試しに【嗅覚増強】をオンにしてみた。
――ズンッ、と。
世界の情報が、鼻腔を通して脳へ直接流し込まれてくるような感覚。
湿った土の匂い。腐葉土の発酵臭。遠くにいる腐肉の群れから立ち上る死臭。木の樹液。小動物の体温を含んだ毛皮の匂い。古い血。新しい血。水気を含んだ苔。獣道。そういうものが、一気に輪郭を持って私の頭へ雪崩れ込んできた。
便利ではある。
でも、正直かなり気持ち悪い。
鼻が利く、なんて生易しいものではなかった。普通の人間なら拾わないはずの情報まで、全部まとめて嗅ぎ取ってしまう。匂い、というより、もはや空間そのものを味見している感じだわ。こんな感覚へ慣れてしまったら、たぶんもう、普通の人間の鼻では満足できなくなるのでしょうね。
……なのに、私はそれを少しだけ心地よいと感じてしまっていた。
「ステータスも上がったし、新スキルも手に入った。それなら……イケるわね」
私は薄暗い森のさらに奥深くへ視線を向けた。
標的は、昨日この大樹海を徘徊している最中に偶然遭遇し、圧倒的な格の違いを感じて涙を呑んで逃げ出したエリアボス。
【森光鹿アルフォード】。レベル25。
あの時のことは、まだはっきり覚えている。
最初に見えたのは、木々の隙間から差し込む光を背負った、あまりにも立派な角だった。次に、その下へある巨大な体躯。そして、静かにこちらを見た目。たったそれだけで分かったのだ。あ、これは無理だ、と。もしあの場でうかつに近づいていたら、私は食事どころか、前菜にすらなれずに終わっていたでしょうね。だからあの時は、情けないくらい素直に逃げたのよ。
けれど、今は違う。
しかも相手は、鹿。
その単語を思い浮かべただけで、私の脳裏へ狂気じみた情熱と、血生臭い家族の記憶がいっせいに蘇ってきた。
我が家の兄弟姉妹は全員優秀で、すでに独立して実家を離れているけれど、全員が揃っていた中学時代のことだ。家族旅行のついでに立ち寄った店で、私は初めてジビエ料理の鹿肉を食べた。あの、野性味のある赤身の濃厚な旨味。ほどよい弾力。噛むたびに滲む肉の力強さ。それは私の狂った食欲へ決定的な火をつけるには十分すぎる体験だった。
私は鹿肉の虜になった。
どうしてもあの味が忘れられず、妹の給食費をパクって一人で高級ジビエ店へ出向き、豪遊しているところを運悪く見つかった。激怒した妹によって、私は食事中にもかかわらずレストランの二階の窓から物理的に叩き落とされるという凄惨な事件へ見舞われた。結果、満足に鹿肉を味わえなかったばかりか、親へきっちりチンコロされておやつを完全に抜きにされたのである。
妹に二階から落とされた時の骨折で入院した際には、七股がバレて女たちからメッタ刺しにされた優秀な兄さんと同じ病室へ放り込まれ、面会へ来たパパが「我が家の教育はどうなっているんだ……」と絶望のあまり頭を抱えていたっけ。
だが、それでも私の鹿への執念は癒えなかった。
空腹のあまり理性を失った私は、「鹿飛び出し注意」の標識がある山道へ何日も張り込み、轢かれた鹿の死体が手に入らないかと血眼で待ち伏せした。図書館で本を借りて違法な罠の作り方を調べようとしたし、猟友会へ直接乗り込んで猟銃の撃ち方を教えろと迫ったことすらある。そのたびに親へ首根っこを掴まれて引きずり戻され、物理的な折檻を受けた。
「……当然、何度も自腹でジビエ店へは通ったけれど、私の底辺日雇い収入じゃ、とても満足に食える量ではなかったのよねぇ」
私は小さくため息をつきながらも、口元だけはゆるんでいた。
だからこそ、このゲームのなかで、あの神々しいまでに立派な角を生やした巨大な鹿のボスを見つけた瞬間、私の魂は震えたのだ。あれを狩れば、あの極上の鹿肉を、誰にも邪魔されず、腹がはち切れるまで食べられる。
それだけで、挑む理由としては十分すぎるじゃない。
「そのためには、下準備が必要ね」
ボスのアルフォードはレベル25。今の私より、まだかなり格上だ。いくら進化したとはいえ、真正面から殴り合って勝てる相手ではない。
だからこそ、新スキル【過剰代謝】で身体能力を極限まで引き上げるための「大量のSP」と、【濃縮食毒】で攻撃へ乗せて相手を蝕むための「強烈な毒」を、限界まで腹のなかへ仕込んでおかなければならない。
角は受けたくない。
脚は止めたい。
できれば走らせたくもない。
毒でじわじわ弱らせて、動きを鈍らせて、最後に安全な形で仕留めて、そのまま新鮮なうちにいただく。
うん、完璧だわ。
攻略としても、食事としても、実に美しい流れじゃない。
私は改めて【嗅覚増強】を強めに効かせた。
たちまち、森の奥深くから漂ってくる淀んだ腐臭、湿った土の匂い、古い血の匂いが、手に取るみたいに鮮明へ感知できる。以前の私なら顔をしかめて吐きそうになっていたであろうその強烈な死臭も、【悪食 LV10】へ慣れきった今の私には、高級レストランの厨房から漂ってくる前菜の香りにしか感じられなかった。
腐っている。
毒もある。
量もたっぷり。
実に都合がいいわね。
「ふふっ、あっちだわ」
私は、進化によって少し艶を取り戻した黒髪を揺らし、舌なめずりした。
まずは毒の補充とSPの回復。
愛すべき歩く栄養タンク――ゾンビの群れを食い尽くし、それから鹿肉の本番へ向かう。
その青写真を頭のなかでなぞるだけで、妙に気分が落ち着いてくるのだから、我ながらだいぶ駄目だと思う。
でも、まあ、仕方ないわよね。
好きなものは好きなのだから。
私は迷うことなく、深い森の闇へ足を踏み出した。




