殻渡りの人喰(1)
夜は、音が遠のく。
遠くの車の走行音も、どこかの室外機の唸りも、薄い膜の向こうへ押しやられて――残るのは、自分の呼吸と、血の匂いだけだ。
「……ここやなぁ」
路地の奥。街灯が一つ切れている場所。
湿ったアスファルトに、黒い筋が引かれていた。引きずったみたいな跡。焦げたような臭いが、鼻の奥に刺さる。
人喰ひとばみ。異名――殻渡りの人喰。
宿主を捨てて次へ飛ぶ。捨てられた“殻”は空っぽになり、まだ動くこともあるが、もう人には戻らない。
つまり、対処が遅れた時点でその人間は詰みだ。
レイは短刀の鞘を押さえ、護符糸の束を指に巻いた。
糸は細い。けれど、空気に馴染ませた瞬間、刃より鋭くなる。
――怪異を逃がさないための檻だ。
「レイちゃん、相変わらず陰気な準備しとるなぁ」
背後からは、ふざけた声。
カナメが、壁にもたれたまま笑っていた。赤い瞳がゆっくり瞬く。
「……来たなら立て。邪魔すんな」
「つれなぁ。俺ら、チームやんかぁ。ニコイチやん」
チーム。都合のいい言葉で誤魔化しているつもりだろうが、実際にはカナメはレイの監視兼、教育係だ。隙を見せれば途端に牙を剥く。
レイは返事をしないまま、糸を一本、路地の入口に張った。次にもう一本。足元に、斜めに、低く。
人間の足首に引っかかる高さ。殻が突っ込んできた時に絡ませる。
突然、気配が背中の皮膚を引っ掻いた。
――来る。
路地の闇が、ひとつ濃くなる。
次の瞬間、男が飛び出してきた。刃物を握っている。
目が焦点を結んでいない。顔は汗で光っているのに、表情だけが抜け落ちている。
「……っ」
レイは踏み込まず、糸を弾いた。
ぴん、と張り詰めた音。護符糸が男の足首に絡み、体が前に崩れる。
倒れた体が地面に叩きつけられても、呻きが出ない。
痛みの反応が薄い。殻だ。中身が薄い。
「おいおい、可哀想やなぁ。もう空っぽやん」
カナメが軽く言う。軽いまま、足を動かす。
殻が起き上がる前に、カナメが靴先で刃物を蹴り飛ばした。金属が転がる音が、やけに大きく響く。
「右やっ!レイちゃん」
カナメの声が鋭くなる。
レイは反射で身を捻った。
別の殻が、横から突っ込んできていた。細身の女。制服の上着のまま、刃物を握っている。
顔は泣きそうなのに、腕だけが機械みたいに正確だ。
――殻が増えてる。
人喰が操るのは、目の前の“殻”だけじゃない。
複数の殻を手足みたいに使い、隙ができれば本体は別の器へ飛ぶ。寄生先を変える。その時、捨てられた宿主は廃人になる。
時間をかけるほど、被害者が増える。
レイは短刀を抜いた。黒い刃が街灯の薄い光を吸う。
刃を振るうのは人喰の本体にだけ。殻は止めるだけでいい。
「――縛れ」
護符糸を放つ。
糸が女の手首に絡み、刃物が落ちた。次に足。首。
致命傷になる締め方はしない。殻でも、そこに“人”の形が残ってる以上、レイには勝手に殺す権利はない。
……久世なら、笑って切るだろうが。
「ええ子ちゃんやなぁ」
カナメが笑う。けれど、動きは早い。
カナメは懐から短い札を二枚抜き、殻の額と胸に叩きつけた。
紙が貼りついた瞬間、殻の動きが鈍る。糸で止めた関節が、重く沈む。
「止まるで。今や」
「分かってる」
レイは息を詰めた。
次が来る。来る前に、本体の位置を炙り出す。
殻の足元――黒い影が、煙みたいにまとわりついている。殻の輪郭からはみ出して、路地の壁にまで薄く染みる。
……飛ぶ気だ。
レイは糸をもう一本、空中に張った。
見えない高さ。首の位置。飛んだ瞬間に絡め取るため。
糸を握る手に力を込めた瞬間――胸が熱を持った。
制服の胸元を押さえた指に、ぬるりとした感触が触れた。
汗じゃない。血だ。
人喰の“刃”は、実体の刃物だけではない。意思そのものが刃になる。殻の腕に乗って、皮膚を裂く。
「……ちっ」
全く見えなかった。
呼吸が浅くなる。
それでも、視線は外せない。
本体が飛ぶ瞬間を逃したら、次はもっと酷い状況を作るだろう。
「レイちゃん、血ぃ出とるで」
カナメが楽しそうに言う。
「黙れ。見えてる」
血は足元まで赤く染めていた。
「見えとるんやったら、倒れとったら?」
「……カナメ!集中しろ!」
口にした瞬間、殻がまた動いた。
札を貼られたはずの殻が、ぎくり、と首を上げる。
糸を張って縛っているのに、関節が無理やり軋む。
……本体がもう一段階、力を入れた。
殻の口が開き、そこから声が出た。殻の喉を借りた声だ。
「――灯」
その言葉が、妙に甘い。
怖気が背を撫でる。
(…狙いは灯郷家か?)
「なぁなぁ……レイちゃん。そいつ、やばめやで」
珍しく、カナメの声から軽さが抜けた。
「分かってる。だから――」
レイは踏み込んだ。
糸を引き絞り、殻の動きを一瞬止める。
その“止まった”瞬間だけが、刃を通す隙になる。
黒い刃が、影を裂く。
湿った布を裂く感触。
影が薄くなり、焦げた匂いが立つ。
今なら、捕まえられる。
「カナメ、左!逃げ道塞げ」
「了解……っと」
カナメが動いた。
レイの糸と、カナメの札。
殻を止め、影を削り、飛ぶ瞬間を縛る。
ここまでは、噛み合っていた。
殻が崩れ落ちる。
その背中から、黒い影が“抜ける”。
抜けた影は、蛇みたいにうねりながら路地の上へ跳ねた。
――飛ぶ。
レイは張っていた糸を弾いた。
空中の見えない線が、影を絡め取るはずだった。
……ぷつり。
音がした。
いや、音じゃない。感覚だ。
レイの指先から、一本の糸が途切れた感覚。
「……っ、カナメ!何した!」
視線を向けるより早く、足元が崩れた。
糸は罠じゃない。レイの“踏み込み”を支える支点でもある。
その一本が切れたせいで、体勢がわずかにずれる。
そのわずかなずれを、人喰は逃さない。
殻の腕が跳ねた。
刃物じゃない。影そのものが刃になっている。
横薙ぎ。肋のあたりに、冷たい線が走る。
「――っ!」
避けた。避けたはずなのに、遅かった。
制服の布が裂け、皮膚が裂ける。
熱が遅れて噴き上がり、次の瞬間、生ぬるいものが腹を伝った。
息を吸うと、痛みが深くなる。吐くと、血の匂いが喉に上がる。
レイは歯を食いしばり、倒れないまま、短刀で影を叩いた。
叩くというより、押し返す。
影がひるみ、ようやく体勢が戻る。
「……殺す気か?」
レイの声は低く出た。
怒鳴る余裕がない。
これまでにもカナメに裏切られたことはある。それでも、ここまで明確な殺意を向けられたのは初めてだった。
カナメは、路地の端で手を振っていた。
さっきまで共闘していたとは思えない距離で、見物している。
「えー? ちゃうちゃう。ちょっと糸、切れただけやん」
軽い。軽すぎる。
その隙に、人喰が“飛ぶ”。
影が、路地の外へ跳ねた。
ちょうど通りがかった男の背に吸い込まれるように溶ける。
男の肩がびくりと跳ね、歩幅が変わる。目が据わる。
捨てられた殻が、地面に倒れたまま動かなくなった。
そこには、もう“誰も”いない。
「……くそ……」
追う。追わなきゃいけない。
けど、足に力が入らない。呼吸が痛みで途切れる。
血が、制服の中で熱く広がっていく。
「追わへんの?」
背後で、カナメが楽しそうに言う。
「あ〜あ残念やなぁ。死ねへんかったんや?あとちょっとやったのになぁ?」
人喰に対してか。レイに対してか。
レイは振り返り、短刀を構えたまま睨んだ。
「……わざとだろ」
カナメは肩をすくめる。
「構ってくれへんから、ちょっといたずらしただけやん〜」
「……」
「死ぬか思た? あは、ええ顔してたで」
喉の奥が冷える。
こういうやつだと分かっているのに、何度でも腹が立つ。
「でも安心し。久世さんに怒られるん、レイちゃんだけやし」
人喰は逃げた。殻を捨てて、別の器へ渡った。
今この瞬間も、どこかで“殻”が増えていく。
レイは制服の胸元を押さえ直した。指が赤く染まる。
痛みが、ようやく現実になる。
追えない。追わないんじゃない。追えない。
その事実が、一番腹立たしい。
カナメが後ろで笑った。
「ほな、帰ろか。レイちゃん、血ぃ垂れてるで。校則違反やなぁ?」
カナメを無視して歩いた。相手にする気力も残ってはいなかった。
夜の空気がやけに冷たくて、傷口だけが熱い。
――殻渡りの人喰。
仕留め損ねた。
次に会う時は、もっと手遅れになっているかもしれない。
それでもレイは、熱い血を抱えたまま歩くしかなかった。




