揺籠石(ゆりかごいし)
ハルはレジ台に肘をつき、店の奥で時を刻む振り子時計の音をぼんやりと追っていた。
奥の茶の間では祖母が小さく咳をし、祖父が帳面に丸をつける鉛筆の音が響く。客足の途切れるこの時間は、ひどく静かだ。
古びた引き戸が、きい、と乾いた悲鳴を上げた。
「いらっしゃい」
入ってきたのは、学校帰りの制服姿の少女だった。
耳の縁に並ぶいくつものピアスが、街灯の光を跳ね返して光る。目つきは強いが、足取りはどこか頼りなく、浮き足立っていた。
「……ここ、まだやってんだ」
声は低く、喉の奥が砂を噛んだように乾いている。
「やってるよ。好きなのを見ていくといい」
ハルがそう言うと、少女――エマは店内を一周するように見回した。色褪せた玩具、埃を被ったラムネ瓶。それらを、失われた記憶の断片を拾い集めるように眺めている。
「なんかさ、ここ……変に落ち着くな」
「それはよかった」
エマは棚の前でしゃがみこんだ。だが菓子を選ぶわけでもなく、指先が宙を彷徨っている。
ふいっと、彼女が上着のポケットを強く握りしめた。
一瞬、店内の影がほどけるように、ポケットの奥で淡い光が瞬いた。
ハルは息を殺して、その様子を伺う。エマの瞳は僅かに充血し、ひどく潤んでいた。
「眠いのか?」
「……わかる?」
エマは深く欠伸をし、眠気を追い払うように目を擦った。
「昼も夜もさ。毎日、同じ夢を見るんだ。見たこともない家で、知らない家族と一緒に過ごす……変に温かい夢」
ハルはレジの下から紙コップを取り出し、冷えた麦茶を注いで差し出した。
「どうぞ」
「……ありがと」
エマは一気に半分飲み、コップを見つめた。
「最初は不気味だった。なのに回数が増えるほど、変に情が湧いてきちゃって……。夢の中の家が、本当の居場所みたいに思えてくるんだよ」
ハルは、エマのポケットの不自然な膨らみに視線を落とす。
「それ、いつから持ってる?」
エマは僅かに躊躇い、やがて手のひらの上で小さな石を転がした。
乳白色の石。その奥に細かな粒が閉じ込められ、呼吸をするように淡く脈打っている。
「気づいたら入ってた。拾った覚えもねぇんだけどさ」
「綺麗だな」
「だろ。だから捨てなかった」
ハルは石に触れず、指先だけを近づけた。冷たい石であるはずなのに、そこからは陽だまりのような微かな温もりが伝わってくる。
——揺籠石。
「この石が見せている夢だね。でも、このままだと君、夢から戻ってこれなくなるよ」
「……は?」
「眠気が増えたのは、無意識に夢の世界を選び始めてるからだ。そっちの方が、幸せだって」
エマは眉をひそめた。見たくない現実を突きつけられたような、拒絶の顔だ。
「……何それ。お兄さん、霊感でもあるわけ?」
「ただ少し、人より余計なものが視えるだけだ」
エマは笑い飛ばそうとしたが、引き攣った口角はすぐに落ちた。ハルの眼差しがあまりに静かで、真剣だったからだ。
「夢のこと、覚えている範囲でいい。景色や音を教えてくれるか」
エマは重い瞼を閉じ、記憶の糸を手繰り寄せた。
「踏切の音。カンカン鳴ってる。あとは……水の流れる音」
「景色は?」
「坂道。手すりが赤くて、藤の花が咲いてる。……あと、寺。その裏に小さい墓地があって、でっかい木が一本。根元には、色あせた風車が置いてあった」
ハルは短く息を吐いた。手がかりが揃いすぎている。
「……行こう」
「は? 今から?」
「急いだ方がいい。君が向こう側へ落ちたら、取り返しがつかなくなる」
エマは一瞬固まり、それから無理に口角を上げて強がった。
「ま、どうせ暇だし。……でもさ、なんでそこまでしてくれんの」
ハルは笑わなかった。
「困っている子どもを、放っておけないだけだよ」
「……ガキじゃねぇし」
エマは鼻で短く笑い、石を強く握りしめた。
看板灯を落とし、ハルは店の戸を引いた。
夜風がひやりと頬を撫でる。踏切の音は町のあちこちで鳴っているが、川の水音と重なる場所はそう多くない。
二人は黙って歩いた。エマの足取りは軽く装っているが、時折、強烈な眠気に襲われるのか大きくふらつく。
「家、連絡しなくて大丈夫か?」
ハルがぽつりと問うと、エマは視線を前に向けたまま答えた。
「どうせ誰も探さないから、大丈夫だよ」
それだけだった。言い切る声が、妙に淡々としていて痛い。
やがて、踏切の警報機が近づいた。カン、カン、カン。
遮断機の向こう、街灯を反射して黒く流れる川が見える。
「……ここだ」
夢に案内されるように、エマの歩調が速まる。
川沿いを進むと、赤い手すりの坂が現れた。街灯に照らされた藤の花房が、薄紫の霧のように滲んでいる。
「うわ……マジじゃん」
エマの声が震えた。
坂を上った先に、小さな寺が佇んでいた。門を潜り、砂利を踏んで裏へ回る。
そこには、夢で見た通りの墓地があった。中央にそびえる楠が空を覆い、その根元に色褪せた風車が置かれている。
風が吹き、風車がぎい、と回った。
「……ここ、なの?」
エマは立ち尽くした。石が掌の中であたたかく脈打っている。
「“帰りたい”という未練が溜まった場所だ。たぶん、家族を置いていった側じゃなくて、置いていかれた側のね」
「………本当に、返さなきゃダメかな。例え夢だってわかってても、あそこなら、ちょっとは幸せだって思えたんだよ」
ハルが今日見てきたエマとは思えないほど、弱々しい声だった。
「夢の世界を選ぶのは簡単だ。……でも、この世界に、何一つ心残りはないと言えるか?」
「………」
ハルは墓石の列に視線を向けた。
そこには、幼い名前がひとつだけ彫られた小さな墓があった。供花も線香の匂いもない。長い間、誰も訪れなかったのだろう。
けれど――石が呼んだ。夢が呼んだ。
エマは膝をつきそうになり、踏ん張った。強がりで立ち続けなければ、崩れてしまうことを知っているのだ。
「……やっぱりこれ、返すよ。最近さ、大事な友達ができたんだ。悲しませたら、寝覚めが悪いし」
「そうだね。友達もそれを望むだろう」
ハルは鞄から布を取り出し、石を包んだ。
「ここに置いていこう。置き去りにするんじゃない。帰るべき場所へ戻すだけだ」
エマは唇を噛み、墓前の砂利を強く握りしめた。砂が掌に食い込む痛みだけが、彼女を現実に繋ぎ止めていた。
「あたし、家族じゃねえのに……」
夢の中の感情は現実に強く残る。悲しみも、恐怖も…恋しさも。
「夢の中では、家族だったんだろ」
ハルの言葉に、エマの肩が小さく震えた。
「……うるせぇよ」
石を墓前に供えると、風が一度だけ強く吹き抜けた。
布がふわりと持ち上がり、薄青い光がほどけていく。誰かの姿が見えるわけではない。ただ、空気の厚みが一枚剥がれ、代わりに夕飯の湯気のような温かな匂いが残った。
「……また、暇なときは来てやるよ」
エマは目元を乱暴にこすり、立ち上がった。
帰り道、彼女の足取りは確かなものになっていた。眠気は引いたが、代わりに胸の奥にぽっかりと空洞が広がっている。
けれど、それは紛い物の幸福で埋めるより、ずっと健全な「痛み」だった。
「お兄さん」
「ん?」
「……あたしさ。これからもここ、来るわ。線香とかよく分かんねえけど、話し相手くらいにはなれるだろ」
ハルは返事の代わりに、エマの頭をぽんと撫でた。
踏切の音が遠くで鳴り、川の水音が静かに続く。
エマは歩きながら、ぽつりと吐き捨てた。
「家族ってさ……めんどくせえな」
――揺籠石は、帰った。
でも、エマの夜がすぐに明るくなるわけじゃない。
明日を明るくするのは、石ではなく、これからの彼女自身の選び方だ。
ハルは駄菓子屋の灯りが見える角まで戻ってきた。
その灯りは、あまりに小さい。
けれど、誰かが「帰ってきてもいい」と思えるには、十分な温かさを持っていた。




