普通のふり
見上げる空は、白々しいほどに澄み渡っていた。
――結局、入学式には出なかった。
屋上の乾いた空気の中へ足を踏み出す。欠席の報せはいずれ久世に届くだろうが、せいぜいカナメに一発殴られる程度のことだろう。
レイはフェンスに背を預け、制服越しに胸元の傷をそっと押さえた。
昨夜の「仕事」の残響が、鈍い痛みとなって指先に伝わる。
標的は、人の衝動を研ぎ澄ませて刃物を握らせる、『通り魔』の怪異。
傷口は塞がっているが、深く息を吸い込めば、夜の澱がまだ体の奥で燻っているのがわかった。
不意に、昨夜の光景が脳裏をかすめる。
灯郷 椿。
ネオンの下、誰かと笑いながら歩く無防備な背中。九尾の介入が遅れていれば、あの怪異は彼女の喉元を食い破っていただろう。
「……呑気なもんだ」
誰に言うでもなく吐き捨て、重い腰を上げる。階下から響く式を終えた拍手は、壁を隔てて届く薄っぺらな雑音にしか聞こえなかった。
教室の廊下には、春特有の浮ついた熱気がたまっていた。
扉を開けると、数人の視線が矢のように飛んでくる。レイはそれを無機質な沈黙で撥ね退け、自分の席へと向かった。
ふと、視界の端が歪む。
灯郷 椿だ。
彼女の周囲には、今にも消えそうな怪異が二、三匹、ぬるい霧のようにまとわりついていた。
時折、髪の影に潜り込もうとするそれらは、浄化を求めて「灯」の血筋に寄ってくる力のない小物たちだ。
椿は嫌そうな顔を隠しもせず、けれど乱暴に追い払うこともしない。髪を手でなびかせる仕草に紛れさせ、さりげなく、優雅に振り払う。
育ちの良さが透けて見えるその手つきが、どうにも鼻についた。
椿が、ふっとこちらを向いて目が合う。
レイは頬杖をついたまま、即座に窓の外へ視線を逃がした。
桜が舞っていた。
散るためだけに咲き誇る、誰かが喜ぶための景色。自分の人生には、これっぽっちも似つかわしくない。
(……くだらねぇ)
レイはただ、時間が泥のように過ぎ去るのを待った。
放課後。
校門の壁に背を預け、あからさまに異彩を放つ男がいた。
銀髪の隙間から、赤い瞳が楽しげに細められている。カナメだ。
平和な学園の風景に無理やり穿たれた「穴」のような不自然さ。レイは目も合わせず、その横を通り過ぎる。
「うわ、冷たぁ。せっかく迎えに来たったのに」
粘り気のある声が背中に絡みつく。
「学校どうやった? 青春しとった? 友だちできた?」
レイは歩幅を変えず、ただ前へ進む。
「ほんま一言も返さんのなぁ。レイちゃん、そんなんやから陰キャ言われんねんで」
ふわりと流れてくる安っぽいタバコの匂い。わざと距離を詰めてきている。
「……黙れ」
拒絶を愉悦に変えて笑うカナメを背に、レイは足を早めた。
「はいはい。ほな、今夜もやなぁ」
その言葉だけが、耳の奥に引っかかった。
今夜も任務がある。
清潔な制服を纏ったまま、どろりとした夜へ戻る。生徒の仮面を被ったまま、人を壊す怪異を狩る。
肩に一片の桜の花びらが乗っていることに気づき、無造作に指で払った。
風に攫われていくその軽薄さが、腹立たしいほどに眩しかった。




