第2話 「昼行灯の算術」
城の外に出ると、夜気が頬を刺した。
三郎は城門を抜け、大内村へ向かう道を一人で歩いた。背後から左近の怒鳴り声が聞こえた。家臣たちを叩き起こし、農具を探し出し、何かを慌ただしく手配している声だった。
あの老武士は、口では文句を言いながら必ず動く。それは三郎がこの十年で学んだことのひとつだった。
星が出ていた。
雨の前の夜はいつも星が多い、と三郎は思った。前の世界でも、そうだった。
前の世界。
深夜の仕事場、白々と灯る明かり、何十冊と積み上げられた書類の山。三十五年間生きて、最後に見たのは机の木目だった。次に目を開けたときには播磨の農家の赤子になっていた。あれから十八年が経った。
感傷には意味がない、と三郎は思った。
今夜できることと、今夜できないことを仕分けする。それだけだ。
◆
大内村は、混乱の渦中にあった。
「赤松が来るぞ! 荷物をまとめろ!」
「どこへ逃げるんだ! 山へ行っても野盗に殺されるだけだ!」
篝火の灯りの下で、老若男女が鍋や籠を抱えて右往左往していた。叫ぶ者、泣く者、地面に座り込んで動けなくなっている者。それぞれの恐怖がばらばらの方向を向いて、村全体が溺れているような騒ぎだった。
その中心に、一人だけ動じていない人間がいた。
黒髪のおかっぱ頭。細い体に、しかし意志の強そうな目。手に算盤を持った、十六かそこらの少女だった。
「皆、落ち着いて! 籾種だけは絶対に離すな! これさえあればどこでもやり直せる。逃げるにしても、まず籾種を守れ!」
よく通る声だった。場慣れした、迷いのない声だった。
村人たちが少しずつ少女の言葉に引き寄せられ、動きが落ち着き始める。
三郎はその様子を少しの間、遠くから見ていた。
誰だ、と思った。
村の名主の娘か。名主は確か、大内村では「岸本」という家だった記憶がある。しかし、あれほど算盤を使いこなしているのは聞いたことがなかった。
三郎が歩み出た。
少女が振り返った。目が合った瞬間、少女は一瞬だけ何かを測るような表情をした。それから、軽く頭を下げた。
「三郎様。父から話は聞いております。岸本雪乃と申します」
「村のまとめ役か」
「父が先月から床に伏せておりまして、その間は私が代わりに」
「話が早くて助かる」
三郎は地面に膝をつき、懐から小さく折りたたんだ紙を取り出した。広げると、複雑な形の溝の図面と、木の柵の組み方の略図が描かれていた。
「蛇抜の谷の入り口に、これを作る。今夜から朝までに」
雪乃が図面を受け取り、篝火に近づけて見た。
一言も発しなかった。しばらく、細かく視線を動かしていた。
やがて顔を上げた。
「稲妻のように折れ曲がった溝ならば、板を渡しても一直線に越えられない。大勢で来れば来るほど、互いが邪魔になる。しかも今夜は……」
雪乃が空を見上げた。
「明け方に雨の匂いがします。この土は水を含むと柔らかくなる」
「そうだ」
「重い甲冑の武者が踏み込めば、底なし沼になる」
「そこまでわかるなら話が早い」
三郎は立ち上がり、銭袋を雪乃に渡した。ずしりとした重さだった。
「日当を払う。飯も出す。今夜動いてくれた者には、三年間年貢を半分にすると約束する」
雪乃が銭袋を見つめた。
「……三郎様は本当に三郎様ですか」
「何が言いたい」
「書物の虫の三男坊が、こんな算段をするとは思っていませんでした」
「書物から学んだ。問題ないだろう」
雪乃が少し口元を動かした。笑ったのかもしれなかった。
「村の衆!」
踵を返した雪乃が、夜の空気を割るような声で叫んだ。
「三郎様のご指示で、今から蛇抜の谷に工事を行います! 鍬と鋸を持てる者は全員集まれ! 日当が出ます、飯が出ます、年貢が三年間半分になります!」
動揺していた村人たちが、一斉に顔を上げた。
「ほ、本当か?」
「嘘はつきません。三郎様が直接約束なさっています」
どよめきが広がった。しかし今度は恐怖のどよめきではなかった。
「わかった、やろうじゃないか」
「年貢が半分なら、やらない手はない」
「俺も行く!」
三郎の傍らに戻ってきた左近が、その光景を口を開けて見ていた。
「……動いた」
「当然だ。銭と飯と利益を出したんだ」
「しかし三郎様、農民に日当を払うなど……武士の沽券に」
「左近」
「は」
「農民が腹を空かせて戦うと思うか」
左近が答えなかった。
「気合いで腹は膨れない。誇りで矢は防げない。明国の書物にはこう書いてある。『兵は食を以って勝つ』」
三郎は絵図を広げ、作業の段取りを始めた。谷の入り口から何間の地点に最初の溝を掘るか。柵の間隔をどう取るか。雨水の流れを計算に入れた排水の向き。
雪乃が隣に並び、三郎の言葉を聞きながら、村人たちへの指示に落とし込んでいった。
「西の斜面の木を切り出して! 節があっても構わない、先を尖らせるだけでいい!」
「藤吉の叔父貴、縄の結び方は任せる! 強く縛れ、一晩で外れたら困る!」
「掘る班と組む班に分けて! 掘る班は三郎様の図面通りに! 深さは大人の腰まで!」
三郎は、雪乃が一度見ただけの図面を完全に記憶して指示を出していることに、密かに気がついた。
当時の農村に、これほどの処理能力を持つ人間がいるとは想定していなかった。
「雪乃」
「はい」
「お前は算術ができるか」
「父に教わりました。帳簿の管理も、田の面積の計算も」
「この村の者で、木工が得意な者は何人いる」
「五人います。藤吉の叔父貴と、その弟子たちが」
「鍛冶場は」
「隣の川向こうに一軒。孫七というじいさんが一人でやっています」
「明日以降、その孫七に頼みたいものがある。後で話す」
雪乃が三郎を見た。
「三郎様は、先のことまで考えておられるのですか」
「今夜の工事が終わっても、戦は終わらない。二手、三手先を同時に動かす」
雪乃がしばらく黙っていた。それから、また前を向いた。
「わかりました。私でできることは何でもします」
◆
工事が始まった。
松明の明かりの下で、鍬が土を割る音が続いた。村の男たちが汗を流し、女たちが飯を炊いて運んだ。子供たちが切り出した木の枝を運ぶ。
左近が腕を組んで、その光景を眺めていた。
これが……戦の準備か。
甲冑を着た武者が弓を引くのが戦だと、左近は五十五年間思ってきた。刀を抜いて名乗りを上げ、正面からぶつかり合うのが武士の本分だと。
しかし目の前では、農民の爺さんが鍬を振るい、若い娘が木の棒を縄で縛り、子供が土を運んでいた。
(前代未聞だ)
左近はひとりそう思ったが、その言葉を口に出す気には、なぜかなれなかった。
三郎が傍らに立った。
「左近。一つ聞く」
「はい」
「荒木は信用できるか」
左近が少し考えた。
「気性は荒い。口が先に出る。しかし戦場では臆したことがない。嘘はつかない男です」
「使える」
三郎はそれだけ言って、絵図に目を戻した。
「もう一つ聞く」
「……また何ですか」
「この城に弓が何張ある」
「城の蔵に、二十張ほどかと」
「矢は」
「各一筒、二十本ほど。合わせて四百本前後かと」
「足りない」
三郎が初めて、わずかに眉を動かした。
「弓師か矢師が近隣にいるか」
「二里ほど先の宿場町に、弓師の老人がいると聞きます。ただ今の時刻では」
「今夜中に使いを出せ。銭を持って行け。明朝までに何本でも持ってこさせろ」
「は……はい」
左近が走り出した。
三郎は再び一人になった。
谷の底から、鍬の音が響いてくる。村人たちの掛け声が、夜の山肌に吸い込まれていく。
夜空を見上げた。
星が消え始めていた。雲が出てきた。雨の前の空だった。
(明朝には雨が来る。計算は合っている)
それだけを確認して、三郎は次の手を頭の中で組み立て始めた。
谷の工事が終わった後のこと。赤松の先鋒を退けた後のこと。道空の本軍が来たときのこと。
今夜の勝負は始まりに過ぎない。
荒木が駆け寄ってきた。
「三郎様。工事の進み具合を見てまいりました。雪乃殿の指示が見事で、予定より早く進んでおります」
「そうか」
「あの……三郎様。先ほどは失礼なことを申しました」
荒木が頭を下げた。
「弓の腕をご披露いただいていないなど、と」
三郎は荒木を見た。
「謝らなくていい。お前の言ったことは正しい」
「は」
「俺がここで弓を射ても、誰も信用しない。信用は言葉ではなく、結果でしか作れない」
荒木が黙った。
「明朝、見せてやる」
それだけ言って、三郎は絵図に視線を戻した。
荒木は少しの間、その横顔を見ていた。松明の灯りに照らされた三郎の顔は、年より遥かに静かだった。
何を見ているのか、荒木には見当もつかなかった。ただ、自分の見ている景色とは違う何かを、この主が見ていることだけは、はっきりとわかった。
◆
夜明けが近づく頃、空から最初の雨粒が落ちてきた。
雪乃が顔を上げ、三郎を見た。
「三郎様」
「わかってる」
三郎はすでに弓を手にしていた。
城の蔵から出してきた、黒漆塗りの大弓だった。七尺を超える、重厚な長弓だった。
雪乃が、その弓を持つ三郎の姿勢を一瞬だけ見て、目を細めた。
何かが、違う、と思った。何が違うのか、うまく言葉にできなかった。ただ、弓を持った三郎の体が、その瞬間だけ、いつもの細身の若者ではなくなったような気がした。
「工事は終わったか」
「主要な箇所は完成しています。あとは枝の補強が残っていますが、敵を止めるには十分です」
「よし」
三郎は谷の崖上に向かって歩き出した。
「三郎様」
雪乃が後ろから声をかけた。
「はい」
「……気をつけてください」
三郎は振り返らなかった。
「算段が合っている。心配するな」
雨が、本降りになり始めていた。
第2話 了
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