第1話 「凶報」
「――申し上げますッ! 殿、ならびに太郎様、次郎様、討死にございますッ!!」
播磨国・笠野郡。大内家が治める平山城の大広間に、その叫びが叩きつけられた瞬間、居並ぶ家臣たちの時間が止まった。
伝令の若い足軽は、泥と血に塗れていた。兜の緒が切れ、鎧の胸板に矢じりが深々と刺さったまま、それでも足を引きずって走り続けてきたのだと、その姿が語っていた。
しばらく、誰も声を出せなかった。
やがて最初に動いたのは、上座に最も近い位置に座っていた大内家筆頭家老・柴田左近だった。白髪交じりの坊主頭に刻まれた古傷が、燭台の灯りの下で浮かび上がる。
「な……なんと申した」
「赤松様の御先手が、国境の峠にて奇襲を。殿と御兄君方は、三方を囲まれ……」
伝令がそこで膝を折った。支える者もなく、床に倒れ込む。
広間が、割れた。
「逃げろ! 城を捨てて山へ逃げるしかない!」
「馬鹿を言うな。赤松に降伏の使者を送れ。今ならまだ間に合う」
「降伏して命が助かると思うか。道空は見せしめに首を刎ねるぞ!」
怒号と悲鳴が飛び交い、家臣たちが立ち上がり、互いの袖を掴んで怒鳴り合う。その混乱の中で、左近だけが座ったまま、自分の両膝の上に拳を置き、奥歯を噛み締めていた。
大内義久公。太郎様。次郎様。
三人が同時に、一日で逝った。
残された戦力は、傷ついた老兵と農民兵を合わせて百に満たない。対する赤松道空の本軍は、二千を超えると聞く。今この瞬間も先鋒三百が国境を越え、この城へ向かっているという。
(終わりだ)
左近が、初めてその言葉を頭の中で認めたとき、広間の空気が変わった。
正確には、音が変わった。
喧噪の中に、一つだけ異質な静けさが生まれた。
廊下側の襖が、音もなく開いた。
「……やかましいな」
低い声だった。大きくはない。それでも不思議と、広間の隅々まで届いた。
大内三郎が、そこに立っていた。
月代を剃らず、後ろで無造作に束ねただけの黒髪。十八という年に似合わぬ細身の体。右手には、誰もが呆れ果てるほど見慣れた、唐綴じの書物が一冊。
家臣たちの怒鳴り声が、ひとつ、またひとつと止まっていった。
「外まで聞こえているぞ、左近」
三郎は広間を見渡した。驚愕、困惑、侮蔑、恐怖。様々な感情を乗せた視線が向けられたが、その目は何も映していないかのように平坦だった。
ゆっくりと歩み出る。家臣たちが左右に割れる。
三郎は、上座に腰を下ろした。
昨日まで父が座っていた場所だった。
「さ、三郎様……! 今は喪に服すより先に、逃げる算段を――」
左近が立ち上がりかけた。三郎が片手を上げ、それだけで止めた。
「父上と兄上たちの討死は聞いた」
淡々とした声だった。悲しみも、怒りも、滲んでいなかった。
「赤松の先鋒がこの城まで、あとどのくらいだ」
「……早くて明朝にございます」
「わかった」
三郎は書物を傍らに置き、広間の前に広げられた領内の絵図に目を落とした。
家臣のひとりが声を上げた。荒木という、三十がらみの気性の荒い武士だった。
「三郎様。大変申し上げにくいのですが」
荒木が立ち上がり、三郎を正面から見据えた。
「ご三男は、武芸の稽古をまともになさったことがございません。書物ばかり読んでおられる。弓の腕とて、ろくに見せたことがない。そのようなお方が上座にお座りになっても……皆の士気は上がりませぬ」
広間がしんと静まり返った。
誰もが思っていて、誰も言えなかったことを、荒木は言い切った。
三郎は荒木を見た。一瞬だけ、視線が合った。荒木の喉仏が、小さく上下した。ただの十八の三男坊のはずの目に、なぜか気圧された。理由を言葉にできぬまま、荒木はわずかに顎を引いた。
「反論はない」
三郎が言った。
「俺は武芸の稽古をほとんどしていない。弓の腕を見せたこともない。お前の言う通りだ」
荒木が、意外そうに口を閉じた。
「だから聞け。俺が今からお前たちに話すのは、精神論ではない。算術だ」
三郎は絵図を指差した。
「赤松の先鋒三百は、この蛇抜の谷を通ってくる。最短距離を選ぶ。勝ちに酔った軍は、必ずそうする」
細い指が、両側を山に挟まれた狭い街道の一点を押さえた。
「ここに穴を掘る。直線ではない。稲妻のように折れ曲がった、深さ一間の溝だ。側面に削り出した木の柵を立て、敵の侵入路を複雑に絡め取る」
「穴を……掘る?」
左近が眉をひそめた。
「今夜から農民を集めて掘る。朝までに完成させる」
「農民を戦に……」
「戦ではない。工事だ」
三郎は書物を開き、その中の一頁を左近に向けた。明国の文字が細かく並び、そこに挿し絵として、複雑な溝の形が図示されていた。
「明国の兵法書に書いてある。敵の侵入を阻む溝の掘り方だ。明日の夜明けに雨が来る。その雨が溝に流れ込めば、重い甲冑を着た武者は底なし沼に沈む」
広間が沈黙した。
「……農民が言うことを聞くとお思いか」
左近が、今度は静かな声で言った。
「聞かせる」
三郎は廊下に向けて顎をしゃくった。
控えていた小姓がひとり、重そうな木箱を両手で抱えて広間に入ってきた。三郎が広間に向かう前に、部屋から運び出しておくよう言いつけておいたものだった。小姓が床に置くと、三郎は躊躇なくその蓋を蹴り開けた。
重い音を立てて、大量の銭が溢れ出した。宋銭と明銭が入り混じった、永楽通宝の山だった。
家臣たちがどよめいた。
「それは……三郎様の」
「俺の銭だ。商人に物を横流しして十年かけて貯めた。今日全部使う」
三郎は立ち上がった。
「農民に日当を払う。飯を出す。それに加えて、今回の戦いを乗り越えた暁には、三年間、年貢を半分にすると約束する」
「年貢を……半分!?」
荒木が素っ頓狂な声を上げた。
「前代未聞にございます!」左近が拳を床に打ちつけた。「農民はあくまで御恩に応えて奉公するものでございます。銭で雇うなど、武士の風上にも置けませぬ!」
「左近」
三郎が振り返り、左近を見た。
「お前が前代未聞だと言うことは、赤松も知らないということだ」
左近が口を開いたまま、黙った。
「俺が指揮を執る」と三郎は言った。「明朝までに蛇抜の谷を塞ぐ。それだけだ」
書物を脇に挟み、三郎は広間を出た。足音はなかった。まるで最初からそこにいなかったかのように、静かに消えた。
広間に残された家臣たちは、しばらく誰も動かなかった。
荒木がようやく口を開いた。
「……左近殿。あの三郎様が」
「わかっておる」
左近は、自分の膝の上の拳を見下ろした。
わかっておる。だが、信じられるか。
あの昼行灯が。書物の虫が。
(信じるしかないのかもしれん……)
左近は立ち上がった。
「出るぞ。全員、三郎様の指示に従え。文句は後で言え」
第1話 了
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