第2話 「壁の向こうの8秒」
翌朝。
ギルド本部の受付前に、木の椅子を一脚借りて座った。
掲示板に貼った依頼書の真下。
朝一番の冒険者たちが行き交う中、俺は腕を組んで待った。
嘲笑は昨日の夜で出尽くしたらしい。
今朝は、冷ややかな無視が大半だった。
それでいい。
笑われるより、無視される方が静かだ。俺は静かな方が好きだ。
一時間が過ぎた。
二時間目に差しかかった頃──
「報酬の1割? 安いね」
声が降ってきた。
見上げると、赤毛の女が立っていた。
ショートカット。額に古い刀傷。腰に使い込まれた片手剣。
小柄だが、腕と肩には剣士特有の筋肉が付いている。
「借金持ちには成功報酬が都合いいんだ。前金なしなんだろ?」
「ああ。成功報酬のみだ」
「で、あんたの名前は」
「カイル・ノクターン。鑑定士」
「レナ・グラッド。剣士。Dランク」
短い。必要なことしか言わない女だった。
剣の柄に手を乗せているのは、苛立っているのか──いや、違う。癖だろう。指の置き方が自然すぎる。
「借金はいくらだ」
「三万G。親父の分。あたしの腕で返す」
三万G。金貨三十枚。
Dランクの依頼報酬だけで返すには、一年以上かかる額だ。
「なら、腕を貸してくれ」
レナが一瞬だけ目を細めた。
品定めするような目。それからふっと力を抜いて、
「いいよ。使えなかったら、その時は勝手に抜ける」
一人目。
次に来たのは、大柄な男だった。
腹が出ている。革の手帳を小脇に抱え、丸い眼鏡をかけている。
身なりが小奇麗で、冒険者というより商人に見えた。
「いやはや、音だけでダンジョン攻略とは」
男は依頼書を読みながら、指を折って何かを計算していた。
「損益分岐点で申しますと、成功率は3%以下でしょうな」
「計算が得意なら、俺の代わりに時間を数えてくれ」
男の指が止まった。
眼鏡の奥の目が、すっと細くなる。
「……面白い。出資と思って乗りましょう。ドルク・ハイネ、元商人の盾役です。スキルは《硬壁》──皮膚を石化させて防御します。ただし持続は最大12秒。それ以上は魔力が切れます」
12秒。短い。だが、12秒あれば退路は作れる。
「十分だ」
二人目。
三人目は──無言だった。
銀色の毛並みの獣人の少女が、掲示板の前に立っていた。
狼型。長い尾と尖った耳。小柄で華奢。
首から小さな黒板と白墨を下げている。
少女が黒板を持ち上げた。
『参加希望』
白墨の文字。丁寧な筆跡。
「声が出せないのか」
少女が頷いた。耳がぴくりと動いた。
「弓は使えるか」
少女が黒板を裏返して書く。
『得意』
「スキルは」
『《鷹目》。視力強化。60秒。使用後10分、目がぼやける』
60秒の視覚強化と、10分の反動。制約付きだが、俺の《残響》と組み合わせれば──音と視覚で、ダンジョンの情報を二重に押さえられる。
「名前は」
『ミラ』
「ミラ。丁度いい。俺たちのパーティは音を聴くことが仕事だ。余計な声は要らない」
ミラの尻尾が、小さく揺れた。
※
ギルドの受付で、パーティ「残響」を正式登録した。
受付の職員が羽ペンを止めて眉を寄せた。
「Dランクパーティに鑑定士がリーダー……前例がありませんが」
「前例は俺が作る」
職員は何か言いたそうだったが、書類を受理した。
※
初回ターゲットは「風穴窟」。
地下8層の初級ダンジョン。ランクはC相当。
俺がこのダンジョンを選んだ理由は単純だ。
事前にギルドの資料で確認した。風穴窟は名前の通り、風の通り道が多い。壁や天井の隙間から常に空気が流れている。
空気が動く場所は、音がよく残る。《残響》にとって最高の環境だ。
ダンジョン入口。
岩肌に開いた大きな穴の前で、俺は三人に向き直った。
「俺のスキルの説明をする」
レナが腕を組んだ。ドルクが手帳を開いた。ミラが耳をこちらに向けた。
「《残響》──俺のスキルは、その場所で過去に発生した音の残留を聴く」
壁に左手を当てた。
「壁、床、天井。あらゆる物体に、過去の音が染みついている。足音、叫び声、罠の作動音、モンスターの咆哮。それを読み取る」
「……時間の制限は?」 ドルクが訊いた。
「過去72時間以内。それ以上古い音は消えている」
「他に制約は」
「発動中、俺の周囲3メートルの現在の音が聞こえなくなる。過去の音に集中するからからだ。つまり──発動中、俺は無防備になる」
レナの眉が上がった。
「あんたが聴いてる間、あんたを守れって?」
「そうだ。頼めるか」
レナは数秒黙って、剣の柄を叩いた。
「いいよ。あたしの仕事だろ」
※
風穴窟、第1層。
薄暗い石の通路。天井の隙間から風が抜け、壁面に苔が張り付いている。魔石灯の明かりは届かず、手持ちのランタンだけが光源だ。
俺は左手を壁に当て、目を閉じた。
《残響》を発動する。
──音が、流れ込んでくる。
最初に聞こえたのは、最も新しい層。6時間前。
複数の足音。四人分。重装備。足音の間隔と重さからして、Cランク程度の冒険者パーティ。右の通路に向かっている。
次の層。12時間前。
水っぽい、ぬちゃりとした音。等間隔。
──スライムだ。右の通路を巡回している。
音の間隔を数える。1、2、3、4、5、6、7、8──繰り返し。8秒周期で3体が通過している。
さらに深い層。24時間前。
金属音。鋭く、短い。刃が飛び出す音──切断罠の作動音。左の通路。
作動後のリセット音まで数える。45秒。45秒周期で刃が飛び出す罠だ。
目を開けた。
「右の通路、8秒周期でスライム3体が巡回している。左の通路には切断罠。作動周期45秒。最後の残響から逆算すると──残り約13秒で次が来る。作動直後に走れば、次の作動まで45秒ある」
レナの目が大きくなった。
「秒数まで分かるのかよ」
「音は嘘をつかない」
ドルクが眼鏡を押し上げた。
「つまり、左を選び、罠の直後に走る。13秒待てばいい」
「そうだ。俺が合図する。──ミラ、先行して前方を確認してくれ。《鷹目》はまだ使わなくていい。肉眼で十分だ」
ミラが頷いた。黒板は使わない。頷きだけで伝わった。
13秒。
壁の向こうで、金属が弾ける音がした。
刃が飛び出し、戻る。
「今だ──走れ!」
ミラが先行した。足音がほとんどしない。獣人の肉球が石の床を叩く音は、俺の耳でようやく拾えるほど微かだった。
レナが続く。片手剣の重さで前傾気味に走る、重い足音。
ドルクが殿。
「私が殿を務めます。万一の場合は《硬壁》で12秒は持ちますので」
走った。
45秒の猶予。
通路の長さは目測で40メートル。全力なら十分に抜けられる。
背後で再び金属音。刃が飛び出した。
だが俺たちは既に通路を抜けていた。
「……マジか」
レナが息を切らしながら振り返った。
※
2層、3層、4層。
俺は各層で壁に手を当て、残響を読み取り、最短安全ルートを指示した。
モンスターの巡回ルートを避け、罠の周期を読み、隠し通路の空洞音を拾う。
一度も敵に接触しなかった。
5層。6層。7層。
仲間たちは俺の指示に従い、走り、止まり、しゃがみ、また走った。
誰も疑問を挟まなかった。
最初こそレナは「本当に合ってるのか」と訊いたが、3層を過ぎた頃には無言で俺の合図を待つようになった。
信じてくれている。
その手応えが、胸の奥でじわりと温かかった。
※
8層。最深部。
踏破の証であるダンジョン核──掌に収まる大きさの魔石が、台座の上で青白く光っていた。
俺が手を伸ばし、核に触れた。
魔石が光を失い、ただの石になる。踏破完了の合図だ。
入口から8層まで、2時間3分。
戦闘回数──ゼロ。
「……やりやがった」
レナが壁に背を預けて笑った。汗だくだったが、傷は一つもない。
ドルクが手帳を開き、何かを書き込んでいる。
「損益分岐点の見直しが必要ですな。成功率3%という私の試算は──いやはや、大幅な修正です」
ミラが黒板を掲げた。
『すごい』
尻尾が大きく左右に揺れている。
「すごいのは、俺の音を信じて走ってくれたお前たちだ」
ミラの尻尾が一瞬ぴたりと止まり──それから、さっきよりも大きく揺れ始めた。
※
ギルドに帰還した。
受付の職員に踏破報告を提出する。
核の回収と、踏破時間の記録。
職員が記録簿と照合して、ペンを持つ手を止めた。
「風穴窟……2時間3分踏破。戦闘記録──ゼロ?」
「ゼロだ」
「つまり……無戦闘クリア、ですか」
「そうだ」
職員の目が丸くなった。
周囲にいた冒険者の何人かが、こちらを振り返るのが見えた。
ざわめきが、波のように広がっていく。
俺は受付のカウンターに手をついて、一つ息をついた。
左耳のイヤーカフに触れる。
銀の冷たさが、指先から染み込んでくる。
──聴こえたよ、母さん。
俺の音が。
初めて──届いた。




