翼の話④
菅原教授が出て行ったあと、本間が背筋を伸ばして口を開いた。
「あの、霜岡さん」
「は、はいっ」
名前を呼ばれて声が上ずってしまった。恥ずかしい。
本間は、あの日のようにこわばっていて、でもあの日のような焦りは見当たらない。その眼にはあの日と違う落ち着きがある。
けれどその口から出た言葉は予想とは全然違っていた。
「申し訳ないんですがこのお見合いはお断りさせてください」
「――えっ」
翼の頭は一瞬で真っ白になった。「お断りさせてください」という本間の言葉が頭の中でエコーをかけて繰り返されるようだ。
――つまり私は、振られたんだ。
さっきドアの前で手が冷たくなった時よりももっと、今度は頭の先からさあっと冷たくなってきた気がする。反対に目頭は一気に熱くなり、今にも涙がこぼれてきそうだ。
でもここで泣いちゃいけない。翼は視線を外した。笑顔ではっきりと言いにくいことを言ってくれたことに応えなきゃ。
そう思ったものの、やっぱり表情には出てしまっていたらしい。本間が翼の表情に気づいて慌てて続ける。
「あ、違うんです。そうじゃなくて」
そう言われても顔なんか上げられない。何が違うと言うんだ。
本間は一瞬考えて、それから言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「聞いてください。俺はさっき教授が言ったように大層臆病な男です。あの時霜岡さんが俺から逃げたと思ったので、俺のことをそういう目では見られないんだろうなと思い込んでしまいました。なら、ただのカレー友達という立場だけは死守しようと」
まるで自分のことを聞いているみたいだ。翼はゆっくり顔を上げた。本間と目が合う。
「教授にあんなおせっかいを焼いてもらわないと一歩踏み出すことができないほどの小心者なんです。そんな俺を霜岡さんに好きになってほしいなんて言えないから――だから」
本間はごくりと息を飲み込んで、改めて翼の目を見た。
「ちゃんと自分の口で伝えたいです。霜岡翼さん――」
翼の目に映る本間の顔が潤んで滲む。
「貴女が好きです」
「本間せんせ――」
もう言葉が継げなかった。涙腺はとっくの昔に決壊している――止まらない。本間の手がそっと翼の頬に触れ、涙を拭きとっていく。
「泣かせちゃいましたね」
「ひど――振られたと、思っ……」
「そんなことできません。貴女がいない毎日なんて俺には考えられないし、考えたくない」
「でも、お見合いは断る、って」
「お見合いより恋愛結婚したいじゃないですか。ずっと好きだったんですから」
翼はさっきとは別の意味で頭が真っ白になった。本間は今何と言った?
「結婚――?」
「ああ、すみません性急すぎましたね。でも本気です。俺は」
手で拭っても拭っても止まらない涙。ゆっくりとその手が止まる。
「俺は、貴女といるだけでものすごく幸せなんです。だから貴女にそれ以上の幸せを返したい。一生をかけて」
蕩けそうな甘い声が降ってくる。
「結婚してください、翼さん」
「――はい、はい本間先生。私なんかでいいのなら」
「言ったでしょう? 翼さんじゃなきゃ嫌なんです」
拭いきれなかった涙を吸い取るようにワイシャツの胸に押し付けられた。背中に回された本間の腕がやさしく翼を抱きしめる。
好きな気持ちが膨れ上がって、翼はもうはち切れそうだ。暖かな腕の中、恐る恐る腕を本間の背中へと回してワイシャツを握ると、彼女を閉じ込める腕にぎゅっと力が篭った。
「好きです、翼さん」
「私も。私も先生が好き」
「翼さん――ありが」
ガタガタっ! バン!
甘い囁き声が最後まで言い終わるのを待てずにドアの方から大きな音がした。二人がびっくりして勢いよくドアを振り向いた時には、全開になったドアの下に菅原教授と、2名のゼミ生が転がっていた。
「あ……あははは、ごめんまた邪魔しちゃったねえ」
どうやらドアの向こうからこっそり二人の様子を伺っていたようだ。ちなみに後で聞いた話では、ゼミ生たちの片方は今回弁当を翼に買いに行かせるため、彼女が席をたつのを見張る見張り役と、もうひとりは翼が弁当を持って戻ってくるタイミングを菅原教授にスマホで知らせる役をしていたらしい。
翼は恥ずかしがって本間の胸に顔を隠し、本間は天を見上げた。
菅原教授にはまた何か埋め合わせをしてもらわなくては。
ふたりの脳内で菅原教授が結婚式の主賓に決まった瞬間だった。
「翼の話」シリーズは③で終わろうかとおもっていましたが、せっかく書いたので載せちゃいます。




