翼の話③
「おや、霜岡さんお昼ですか」
職場である事務室を出たところで翼は呼び止められた。振り返ると廊下をこちらに向かって歩いてくるちょっと丸いフォルム、もとい菅原教授が見えた。
人好きのする笑顔のおじいちゃん。ちょっと話が長くてこと細かいのはちょっと不評だが、基本的に世話好きで研究命の立派な教授だ。
翼は立ち止まって向きを変えた。最近は少し膝が痛いとかでゆっくりと歩く菅原教授へと自分から歩み寄る。
「はい、今日はテイクアウトで何か買ってこようかなと。菅原教授もお昼ですか?」
「ああ、うん――そうだ、霜岡さん、悪いんだけどひとつ頼まれてくれないかな」
「はい、何でしょう?」
「いや、その買い出しの時に一緒に弁当を買ってきてくれないかと。ほら、最近膝がこうだろう? 構内のコンビニに行こうと思っていたんだが、もしどこか外に買いに出るならお願いできないかな?」
「あら、もちろん買ってきますよ。何がよろしいですか」
「霜岡さんが買いに行く店のでいいから、何かがっつりしたやつを頼むよ。二人分」
「二人分?」
「うん、本間先生と打ち合わせをしてるんだ」
翼の心臓がとくん、と震える。その名前を聞くだけで体の奥で花が開いたように熱が生まれる。
先日、残業している本間へ差し入れを届けに行って、何だか変な雰囲気になった。あの時の彼はいつもの落ち着いた雰囲気ではなく、どこか鬼気迫る様相――は言い過ぎだがそのくらいの迫力があった。たまたま菅原教授が飛び込んできたのでこれ幸いと何も聞かずに飛び出してしまった。
ちょっと気まずいかなと思っていたけれど、その後は会ってもいつも通りの落ち着いた本間で、あの時のあれは何だったのだろうと思いつつも聞くに聞けないでいる翼だった。
弁当の買出しを快諾して翼は外へ出た。春から夏へと向かう爽やかな季節へと移り変わり、そろそろ大好きなチャイもホットではなくアイスで注文したいくらいだ。
(本間先生のお弁当も――)
そう考えた瞬間、足は『ナルセ』へと向いていた。何しろ本間は翼のカレー仲間、つい彼の好きなものを選んでしまった。
『ナルセ』でテイクアウトで自分の分を含めて三人前の同じカレーを注文してぶらぶら持って帰る。菅原教授は忙しそうだったので、選ばなくていいように同じものにしたのだ。
歩きながら、あの日もテイクアウトを持って大学へ戻ったなあと思い出してしまった。
――あの時、本間は自分に何を言おうとしていたのだろう。
時折、そう考える。ちょっとだけ「告白されそう」だと思ったけれど、あれからコートが必要じゃなくなるほど季節が移ろっても本間は何も言わない。だからきっと違うんだろう。本間にとって自分はただのカレー仲間だと。
――翼は相変わらず、いや日を追うごとに本間のことを好きになっていくというのに。
こうして悩んでいるくらいなら自分の方から告白すればいいのに、と自分でも思う。どういう結果になろうとも、少なくとも決着だけはつく。こんな風にうじうじ悩むこともなくなるだろう。
けれど、今の立ち位置も捨てられない。もし振られたら一緒に『ナルセ』でカレーを食べる仲間ですらいられなくなるかもしれない。それが怖い。
やがて菅原教授がいると言っていた研究室へたどり着いた。翼はひとつ深呼吸してからノックをしようと手を上げて――ふと中から聞こえてきた声に手を止めた。
<本間先生は今お付き合いされてる人とかいるのかい?>
<何ですか突然。いませんよ>
<そうしたらどうかね、ひとり紹介したい人がいるんだけどね、会ってみないか>
<――申し訳ないんですが、それはちょっと……>
<つきあってる人はいないって言ったよね? じゃあ俺の顔を立てると思って顔合わせだけでも>
どうやら菅原教授が本間に見合いを勧めているようだ。
(本間先生が、お見合い)
ひゅっと指先が冷たくなり、心の底から暗く淀んだ気持ちがほとばしり出す。あの瞳が、指先が他の女性に向くところがリアルに浮かんできて血の気が引いてしまったのだ。
彼がいつか自分以外の人と恋人同士になって、幸せになって――なんて想像したことがないわけじゃない。何ならそういう覚悟もしておかなきゃ、と考えてもみた。
けれど、そんな妄想よりはるかに現実的で恐ろしい。
誰かはわからないけれど、本間が結婚相手の候補として会う女性が現実にいるのだから。
(いやだ、やめてお見合いなんてしないで)
そう言って取りすがってしまえたらいいのに。
けれど自分から気持ちを伝える努力をしていない自分にはそんなことを言う資格はない。言いたいのならはっきりと気持ちを告げないと。
告白。
ふとその2文字が頭をかすめる。
――できるだろうか、自分に。本間に気持ちを伝えられるだろうか。
両手をぎゅっと握りしめる。
すると、左手の中でがさりと音がした。手に下げていた、テイクアウトのカレーが入ったビニール袋だ。翼ははっと現実に帰った。冷める前に届けなきゃいけない。
(平常心、平常心。仕事だと思えば大丈夫)
翼はゆっくりと息を吐き、仕事用の顔を貼りつけてドアをノックした。
「どうぞ」
中から菅原教授の声がした。ドアを開けると、長机を4つくっつけて作った大きな机で菅原教授と本間がノートパソコンや書類と格闘していた。
「お待たせしました、お昼をお持ちしました」
「やあ、すまなかったね」
菅原教授がパソコンから顔を上げてにこやかに片手を挙げた。本間は翼を見つけて「あ」という顔をしたが、笑顔で会釈してまたパソコンの画面に視線を落としてしまった。
一方の菅原教授はノートパソコンをパタンと閉じ、少し足をかばいながら翼のところまで来た。
「俺の分、どれ?」
「同じもの買ってきましたから、どれも一緒ですよ」
「悪かったねえ。これ、弁当代」
菅原教授が翼の手に五千円札を一枚握らせた。
「あ、じゃあお釣りを」
「俺と本間君の分、あとわざわざ行ってくれたんだから霜岡さんの分も。あとはお駄賃ということでとっておいて」
「え! そんな」
「いいからいいから――本間先生! 弁当買ってきてもらったから休憩しましょう」
「え! 俺の分もですか?」
「うん、一緒に頼んだんだよ」
「それはありがとうございます。霜岡さんもお手数かけました」
本間も礼を言いながら席を立ってカレーを取りに来た。が、その後菅原教授に弁当代を払うの払わないので本間と菅原教授が揉め、菅原教授が圧勝。本間は「ごちそうになります」と頭を下げ、それを見届けて翼は戻ることにした。
「それじゃ私はこれで」
「あっ、待って霜岡さん。ちょっと話があって」
菅原教授が翼を引き留めた。
「はい、何でしょう?」
返事はしたものの、さすがに早くここから立ち去りたい。けれどそんな翼の気持ちには気づかず菅原教授は話を続ける。
「あのね、霜岡さん、お見合いしないかなと思って」
「おみ――え?」
何を突然。たった今本間にも見合いを勧めていたじゃないか。マンガだったら大きなはてなマークが頭上を飛び交っているところだ。突然結婚紹介所に転職したくなったのか、この教授は。
「相手の男はすごくいい奴なんだよ、俺の顔を立てると思って会うだけでも会ってくれないかな」
「ちょ――」
「ちょっと待ってください教授!」
翼が返事をする前に翼と教授の間に広い背中が割り込んだ。
本間だ。かなり慌てて必死な空気が背中越しに伝わってくる。
「霜岡さんにまで見合いなんて、どう――」
菅原教授に食って掛かる勢いの本間だが、対する教授はのほほんとした表情を崩さない。本間のことは無視して本間越しに翼に話し続ける――が、なぜかぽんぽん、と本間の肩を叩いている。
「霜岡さん霜岡さん、ほら、こいつなんだけどね、見合い相手。将来有望な准教授で、いずれは教授間違いなし。人柄も悪くないし賭け事やたばこもやらないよ。俺としては一押しのオススメ物件。少々臆病なのが玉に瑕なんだけどね。一度迫ろうとして失敗して逃げられてからもう勇気が出ないだの何だのといろいろこじらせ――ああ、そのあたりは余計な話だったな」
本間の勢いがぴたりと止まる。というかフリーズしている。対する菅原教授の話は尽きない。
「本間君、そんなわけで彼女が見合い相手の霜岡翼さん。大学の事務員で、仕事はまじめで気が利いていると評判の子だよ。優しくて人当たりもいいしね、俺としては秘蔵っ子で紹介したくないんだけど、まあ本間君なら涙を呑んで! 俺の血圧上がるのを気にしながらも! 紹介してもいいかなあと思ったわけなんだけどね」
呆然とする本間と翼をちらりと見て、教授は満足そうににやりと笑い、机に置いてあった自分の分のカレーを手に「あとは若いお二人で~」とドアへ向かって歩き出した。
後に残された二人は真っ赤な顔で見つめ合ったまま。
部屋を出ていく時にちらりと振り返った菅原教授は満足げに微笑んで「これでいつかのお詫びになったかなあ? うまくいくといいね」とドアを閉めたのだった。




