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絵里子の話

 やっと春から絵里子の2番目の息子も大学に入学した。

 息子は二人とも入学した途端にバイトを始めて金銭的に余裕ができ、友達と遊びに行った帰りに夕食を食べてくるようになった。夕食を作らなくていいのは母としては楽だけれど、時折連絡を忘れて「あっごめん! 今日晩飯いらない」などとメッセージが入るのが玉に瑕だ。


 幸い今日は事前に「夕食不要」の連絡が二人から入ったので、今夜は夫の俊和と二人で外食に来た。以前から気になっていたカレー専門店『ナルセ』だ。近くに大学があるからか、小洒落た外観に50も近いオバチャンはひとりで入るのに躊躇してしまっていたので、いい機会だと来ることにしたのだ。

 俊和は店の選択には特に何も言わない。彼はいつも寡黙でいろいろと欲求を表に出さない人なので、本当のところはどう思っているやら。でも嫌な時は嫌と言うから不満ではないのだろう。


 店に入ったのは夜の6時ちょうど。ちらほらと客の座る店内はそれほど広くはなく、居心地のよさそうな雰囲気だ。店員の応対もいい。

 窓際の席に座って絵里子はほうれん草とチキンのカレーを、俊和はマトンマサラカレーを注文した。ついでにビールも。


「たまにはこうやって二人で外食もいいわね」

「ああ」


 話しかけても返事はこんな感じに短い。けれどお互いの視線は合っていて、ちゃんと聞いてくれているのがわかる。

 すぐに届いたインドのビールをよく冷えたグラスに注ぎ、軽く持ち上げてチン、と合わせた。喉を滑る冷たいビールは今日一日の疲れをねぎらってくれているようだ。


「――これからはこういうことが増えるんでしょうね」

「え?」

「だから、お父さんと二人だけで食事することが、よ。智也も和也ももう家族全員で外食、とかじゃなくなってくのよね」

「もうあいつらも大学生だからな」

「ふふ、男所帯でお料理が大変、なんて思ってたのに、いざ作らなくてよくなるとちょっと拍子抜けね」

「まあ、いいじゃないか」

「そうね」


 窓の外はもう夕暮れが深くなり、ぽつりぽつりと街灯にもあかりが灯っている。

 ふと絵里子の心に去来するのは、夕方公園で遊ぶのが楽しくて「まだ帰らない!」と言い張った息子二人の小さな頃の姿だ。それが今や二人とも自分を見下ろすようになり、服も靴も自分たちで選ぶようになり、家族よりも友達と過ごす時間が増えてしまった。

 もう自分もこんな風に昔を懐かしむ年齢に差し掛かってしまったのだと改めて実感する。


「もう子供のママはお役御免だってわかってはいるんだけどね、子供は私にとってはいつまでたっても子供なのよ」

「――寂しいのか?」


 俊和がそう訊いた。

 寂しい? そうなのかもしれない。ちょっとセンチメンタルになってしまっているだけだと思うけれど。

 いつだって安定していた家族の形に変化が起きるのは、喜ぶべき時でもどこか寂しいものだ。


「かもしれないわね。ふふ、子供たちの親離れよりも私の子離れの方が大変だったりして」


 すると俊和が横の椅子に置いていた上着を取り上げ、ポケットから小さな包みを取り出した。それを滑らせるように絵里子の前へ押し出す。


「ん」

「え? 何?」


 5センチ四方ほどの平たい正方形の箱はきれいにラッピングされている。無言で促す俊和をちらりと見ながらそっと包みを開くと、中から出てきたのは細いプラチナの指輪だ。小さな紫の石がついているが、これは絵里子の誕生石のアメジストではないだろうか。


「ええ! どうしたの、これ」

「買った」

「買った、って、今日は別に結婚記念日でもないし」

「別にいいだろ」

「え、そりゃあいいし嬉しいけど――」


 戸惑う絵里子の瞳に右手で顎をさする俊和が映る。あれは俊和が照れ隠しにする仕草だと絵里子は知っている。

 だからそのままじっと俊和を見ていた。きっと彼の中で言葉を選んでいるのだろうから。

 やがてちょっとぶっきらぼうにぽつりとつぶやいた。


「今日で丁度25年なんだ」

「25年? それって、あ――」


 25年前の今頃。その頃絵里子はOLとして会社務めしていた。当時は受付嬢をしていて、確か3年目くらいだったろうか。

 そうだ。そもそも俊和との出会いは、会社を訪ねてきた他社の彼と受付嬢である絵里子、というもので、そこから親しくなって付き合いが始まり――


「母さんと付き合い始めてから25年、だ」

「や――やだぁ」


 そうか、今日は二人の交際開始記念日だったのか。言われて初めて思い出した。

 結婚前は毎年祝っていたのに、結婚してからは結婚記念日がそれにとって代わっていた。

 結婚して子供が生まれ、毎日の生活に仕事に子育てにと忙しい日々を送っているうちにすっかり忘れてしまっていた。俊和はそれを覚えていてくれたのだ。絵里子は赤面した。恥ずかしくてこそばゆくて――嬉しい。


「あいつらが家に寄りつかなくなって妙に静かだけど、まあ俺はいるからな。絵里子(・・・)を寂しがらせないようにするさ」


 俊和はこういう人なのだ。寡黙でとっつきにくように見えるけれど、その中身はやさしくてロマンチスト。

 だから絵里子は結婚して20年以上経つというのに俊和のことが大好きなのだ。自分でもラブラブ夫婦だと思っている。表には出さないけれど。


「ありがとう、俊和さん(・・・・)


 そっと指輪を嵌めて眺める。硬い金属でできている筈の指輪がなぜか暖かく感じる。


「これからもよろしくお願いします」

「ああ、よろしく」

「10年も20年も、ずっとね」

「ああ」


 俊和がふいっと窓の外へ視線を向けた。その頬がほんのり赤い。

 昔よく感じていた、懐かしい甘酸っぱい気持ちがわいてくる。ここが店でなかったら絵里子は彼に抱き着いてしまっていたかもしれない。


 その時絵里子のスマホが鳴った。次男からのメッセージだ。


「あら、急に友達との約束がなくなっちゃったんだって。晩ご飯あるか、って」

「あいつはまったく」

「ふふふ、ここでテイクアウト買って帰りましょ」


 絵里子は母親の顔に戻って息子の好きそうなカレーはどれかとメニュー表に手を伸ばした。




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