花の話
花は根っからの活字中毒だ。
とにかく本が好きで、文字の書いてあるものなら何でも読んでしまう。当然お菓子の箱のキャッチコピーも細かな注意書きも、ちょっとばかり不愉快な内容を含む雑誌の社内吊り広告まで読まずにいられない。
けれどただただ読んでいるだけでは学業も生活も成り立つわけがない。当然我慢してなすべきことをなさねばならない。
大学の勉強は結構大変だけれど花は国文科、書物にまみれることができて幸せだと思っている。
ただ、午後の講義がない水曜日は頑張っている自分へのご褒美をあげる。それが大学のすぐそばにあるカレー専門店『ナルセ』のティータイムに行ってチャイとお菓子を楽しみながらの読書だ。
光の加減が一定する窓からちょっと離れた席に座って本を広げる。『ナルセ』の店内ではいつも穏やかめのBGMが流れているのでそれをお伴に本の世界に沈み込んでいくのが至福の時間なのだ。
ご褒美な水曜日以外の日は勉強にバイトに忙しい日が続く。
バイトは自宅近くのファミレスで働いている。大学に入ってから始めたバイトは次の四月で一年になる。少しは慣れたかな、と思うものの、元々そんなに機敏な質ではなく――有り体に言ってしまえばちょっととろいという自覚がある――まだまだバイト先の先輩たちにフォローしてもらうときも多かったりする。
その度に家に帰って暗い気分になってしまうので、気持ちを立て直すためにボーッと動画を漁ったりしている。本を読み始めると絶対寝不足になる自信があるので。
そんな時にふと行き当たった一本の動画があった。
きれいめのフュージョンだ。
どうやら中の人が自分で作曲した曲を載せているらしい。
「ひだまり――コーギー。可愛い名前」
ずいぶんと可愛らしいチャンネル名だと感心する。どんな人なんだろう。可愛い名前だから女の子かな――
けれどチャンネルのトップページを見ると、本人の写真は載っていないものの男性らしいことがうかがえる。活字中毒の性で隅から隅までプロフィール欄を読み込んでしまったのだ。
花はアップロードされている曲を再生してみた。
穏やかで気持ちがほぐれそうなメロディー。「ひだまりコーギー」という名前のせいか、子犬がへそ天で昼寝している映像が浮かんでしまうほどのリラックス感。
包み込まれるような思いを感じるのは、「ひだまりコーギー」氏が誰かを思って曲を作っているからじゃないか、そんな風に感じさせられる温かさがある。
花はすぐに手を伸ばしてチャンネル登録ボタンをクリックした。
「ひだまりコーギー」氏の楽曲は花にとって癒やしになっていった。
最初はそんなに曲数があるわけではなかったが、秋頃からコンスタントに新曲がアップされるようになり、花は嬉しくなった。
ひょっとしたらデビューを狙って増やしているのだろうか?
こんなに増えてきたんだから自主制作アルバムとか出さないのかしら。
夜、ひとりの部屋で聴きながらそんなことを考える。
花はすっかり「ひだまりコーギー」のファンになっていた。
ところが、だ。
まさか本人と遭遇するとは夢にも思っていなかった。
「ひだまりコーギー」氏の本名は飛騨紘一というそうだ。『ナルセ』でよく見かけていた男性がその人だという話が聞こえてきた時は耳を疑った。けれど店長と話しているその人は物腰も柔らかく、あの曲たちのイメージそのものすぎて目の前に「ひだまりコーギー」がいるんだ、ということをすっと納得できてしまった。
普段だったら初対面の人に絶対に声をかけたりできない。でもこの時は必死に声をかけてしまったのだ。
それ以来水曜日の楽しみに紘一と会うことが増えた。
約束をして会うわけじゃない。
でも水曜日より前に新曲がアップされていれば聴いた感想を話しているうちにすぐに親しくなった。
「昨日の曲、すっごくかわいいですね」
「気に入ってもらえたならうれしいです。ああいうのが好き?」
「そうですね、でもどの曲も本当に好きなんです。飛騨さんの作る曲ってどれも飛騨さんみたいに優しくってすてき」
「ふえ」
花は素直に感じた通りのことを伝えているつもりだけれど、時折こうやって紘一がフリーズする。花はその理由がわからず小首をかしげ、紘一はさらにフリーズしてしまう。
結局彼は明後日の方を見るように視線を外してしまうのだが、ごまかすように顔を背けたせいで花の真正面に見える耳が赤く見えることに花はまだ気がついていない。
その数日後「ひだまりコーギー」のアカウントに新曲がアップされた。
彼の曲にしては切ない和音が連なるピアノ曲だった。
次の水曜は講義が長引いた上に教授に捕まって雑用を手伝わされ、いつもより一足遅い時間に『ナルセ』に向かった。
(飛騨さん、もう来てるかな)
まだ少し寒い空気の中、大きな梅の木が満開に咲いている角を曲がり早足で歩く。約束しているわけじゃないのにどうしてか気が逸る。
『ナルセ』の扉を開くと、紘一はもう来ていていつも通りカウンター席に座っている。さくらと雑談している姿を認めて声をかけようとしたが、ふとその手が止まってしまった。
――さくらに向けている紘一の笑顔がやけに甘くないだろうか。
モヤッとした気持ちが浮き上がる。
花と一緒にいる時の紘一はいつも楽しそうに笑顔だけれど、どこか一線を引いている気がしていた。優しい笑顔なんだけど、どこかカッコつけようとしているみたいに。なのにさくら相手にはあんな笑顔を見せるのか。
――まさか、飛騨さんはさくらさんのことが好きなんだろうか。なら、あのすてきな曲たちはさくらさんのために書いたっていうことで――
実のところ紘一はその時さくらに花のことを話していて、花を思い出して甘い顔になってしまっていたのだが、そんなことが彼女にわかるわけがない。
花の中で何かがふっと色を陰らせた気がした。
「いらっしゃいませ」
立ち尽くしていた花に気がついたさくらが声をかけてきてハッと我に返った。
――何を考えているんだ。自分は彼女でも何でもないのに。彼の交友関係にとやかく言う資格なんてないのに。
ひどい独占欲に目眩がしそうだ。
「鈴村さん? どうかしたの?」
紘一が立ち上がって近づいてきた。そんなにひどい顔をしていただろうか。
「こ、こんにちは。なんでもないですよ」
「でも、辛そうな顔してる」
紘一は奥まったテーブル席へと花を連れて行き、一緒に座った。
「大学とかバイトで嫌なことあった?」
「違うんです。そういうのじゃなくて」
紘一に心配をかけてしまっている。自分の問題なのに。
なのにこうやって心配してくれることが嬉しく感じてしまっている。
何とか笑顔を作って普段通りに話しているつもりだったけれど、紘一はますます心配そうな顔をする。それがいたたまれなくて、この日は早めに店を出てしまったのだった。
その直後にアップされた「ひだまりコーギー」氏の作品は、短調の曲だった。どこか物悲しそうな不安そうな曲だ。動画のコメント欄にも他のリスナーから「いつもと違う雰囲気」と書き込まれている。
――どうしたんだろう。ひょっとして水曜日に自分がとった変な態度のせいで嫌な気持ちにさせちゃったんじゃないだろうか、それとも他に何か悲しいことがあったんだろうか。心配になって連絡を取ろうとメッセージアプリを開いた。
でもなんと打ったらいいんだろう。花の指が止まる。だって紘一にとって花は週に一回顔を合わせるだけの顔見知りにすぎないはずなんだから。
散々悩んで悩んで、結局メッセージを送ることはできなかった。
どうしてこんな気持ちになるんだろう。自分は彼女でも何でもないのに。
そう考えた時、妙に胸がうずいた。切なくて寂しくて、なのに甘い何かが頭を占める。
――そっか、私は。
心の奥底にほんのりと存在する柔らかで温かいものを見つけてしまった。それを占めるのは紘一の心を映しとったような作品たち、自分に向けられた楽しそうな笑顔、ほんのちょっとした仕草。自分がこんなに彼のことを見ていたとわかってしまった。
気づいてしまった自分の気持ち。花はそれを大切に抱きしめた。
水曜日。
花は恐る恐る『ナルセ』の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
さくらがにこやかに声をかけるのに会釈を返しながら店内へ入ると、カウンター席にはいつも通り紘一がいて、ボーッとキッチンを眺めている。考え事でもしているのか、花が来店したことに気がついていないようだ。
「飛騨さん」
声をかけるとびっくりした顔で紘一が振り向いた。
「すっ、鈴村さん。気がつかなかった、ごめん」
「考え事ですか? なら私今日は別の席に」
「ちっ、違うから! いや、違わないんだけど大丈夫だからここにいて」
無意識に言ったんだろうけど、花の心を揺さぶるには十分な破壊力を持った「ここにいて」だ。花は言われるがまま紘一の隣に腰を下ろした。見たところ、彼はあの短調の曲に見え隠れしている物悲しい気持ちではなさそうでほっとする。
すると紘一が花に顔を寄せ、小さな声で話しかけてきた。
「なんかさ、今日は店長とさくらさん、けんかしてるみたいで」
「ええ? 普通に見えますけど」
「だっていつも暇さえあればお互いに目を合わせて笑い合ったりしてるんだよ、あの二人。今日はそれがないから」
「――あの、店長とさくらさんって」
「知らなかった? つきあってるんだよ、あの二人」
「そ、そうなんですか」
紘一があっけらかんと答えるから、花はほっとしてしまった。店長とさくらがつきあっていることに対してこれだけ無頓着な反応を返せるなら、紘一がさくらに恋しているなんてことはないのだろう。
――じゃあ、あの曲たちは誰のために書いたの?
そう聞いてみたい。
「え? そ、それは」
突然隣で紘一が焦り始めた。意味が分からず花は一瞬きょとんとしたが、どうやら口に出してしまっていたらしいと気がつき一気に赤面する。
「あ、あ、あの! 別に無理に聞く気はなくて! ただ飛騨さんが好きな人に向けて書いてるのかなって思ってたから気になって、さくらさんじゃないみたいでホッとして、え、じゃなくて」
必死に言いつくろおうとすればするほど失言が重なっていく。ついに花はどうしていいかわからず真っ赤になってうつむいてしまった。
そして花の問いに答えるに答えられない紘一も黙って顔を赤くしている。
花がその答えを知るまで、あともう少し。




