紘一の話
紘一が彼女に気がついたのは夏の終わりの頃だった。
窓から離れた二人掛けの席が彼女の定位置だ。そこに座って彼女はいつも本を読んでいる。
ハーフアップにされた少し明るい色の長い髪、小さめの顔には細いフレームの眼鏡をかけている。大体ワンピース姿なことが多い。週に一度、水曜日のティータイムにやってきてはチャイとお菓子を楽しみつつひとりで本を読んでいる。
紘一自身も『ナルセ』のチャイが気に入っていて、たまにパソコンを抱えてティータイムに通っている。彼にとってはチャイを楽しみつつ大学のレポートを書いたり趣味に没頭したりできるご褒美タイムだ。なので1週か2週に一度は『ナルセ』にいるのだが、ある日ふと視界の端で本を読んでいる彼女をみつけてしまった。
――そういえばよく見かけるな、あの人。
ノートパソコンの画面を見ているふりをしてちらちら見ると、その独特な雰囲気が気になった。決して侵しがたい空気ではないが、彼女のまわりだけ世界が違うように見えたのだ。
ふとピアノの音が聞こえたような気がした。柔らかなせ旋律で紡がれるセレナーデのような、そんなピアノ曲。
『ナルセ』の店内には軽やかなBGMが流れているけれど、紘一と彼女の間にだけピアノの音が流れているような気がした。
自宅に帰ってすぐデスクトップパソコンと周辺機器のスイッチをいれた。静かだった部屋に起動音が響き、モニタに光が灯る。紘一はコンビニで買ってきたペットボトルとおにぎりをパソコンの横に置いて作曲ソフトを立ち上げた。
あのピアノの音を思い浮かべてから、アイデアが湧き上がって止まらない。頭の中を渦巻くイメージが少しずつ形になりひとつの旋律を作り上げていく、その過程に胸が躍る。それを形にしたくて、浮かんできたメロディを逃したくなくて夢中でパソコンの作曲ソフトに写し取っていく。
そう、ピアノ曲。細かなトリル増し増しの可愛らしいメロディ。
短いメロディラインが出来上がると、それにイメージを盛り込んで編曲。そうして作り上げた曲をチェックしてから動画サイトにアップした。
元々紘一は音楽が好きで、自作の曲を「ひだまりコーギー」という妙に可愛らしい名義で動画サイトにアップしているのだ。ちなみにこの名前は紘一のフルネームが飛騨紘一なのでそれをもじって適当につけた。
歌はついていない。流行りの曲調でもない。だからそんなに評価も再生回数も稼げないけれど、自分の中の熱は止められない。幸いにも聴いてくれて、チャンネル登録をしてくれて、コメントをくれる人も少なからずいるのだ。
それから彼女が気になり始めた。
週に一度来店していることにも気がついた。紘一もそれに合わせて『ナルセ』に行くようになった。
別に彼女とどうこうなりたいわけじゃない。ただ彼女がいる風景が美しいと思ってしまっただけだ。
彼女を見ていると紘一の脳内にメロディーが生まれる。それをかき集めて曲を作る。
それからというもの紘一は黙々と曲を作り、黙々とアップしていった。
この日も彼女は『ナルセ』に来ていた。紘一は彼女より少し早めに来ていたので、既にチャイが目の前に置かれている。
今日は結構寒いので、彼女も随分着込んでいる。ミルクティー色のコート、赤と緑のチェック柄のマフラー。それらを脱いだ下は茶系のカーディガンに赤のワンピースだ。唐突にヴァイオリンのフレーズが紘一の頭に浮かびあがる。
急いでスマホアプリでフレーズを書き留めなきゃ。作曲アプリの使い方にもやっと慣れてきた。
アプリを立ち上げ打ち込んでいると、店主の成瀬がひょっこり顔を出した。
「おっ、新曲?」
成瀬は紘一の「ひだまりコーギー」というチャンネル名を知っていてくれて、時々聞いてくれているというありがたいユーザーのひとりだ。紘一はちょっと照れながら「はい」と肯定した。
「最近、コンスタントに新曲アップしてるよね。すごいなあと思って」
「とんでもない。僕のは本当に趣味の延長だから」
「一昨日アップしてた曲、あれもすごいよかった。『Fluttering color』ってタイトル通りいろんな色がキラキラ揺れてるみたいに聞こえたよ」
「――うわ、ありがとうございます。直に感想聞けるとは思わなかった。すごくうれしいです」
本心からうれしい。でも面映ゆい気持ちもあってつい視線を外してしまう。元々シャイで照れ屋な性格なのだ。
褒められると嬉しくて恥ずかしくて、でも自分の中でものすごいエネルギーが生まれてくるのがわかる。次の作品をもっといいものにしたい、とがんばる意欲が湧き出て来るのだ。
自分でも現金だなと思うけれど、こうして聞いてくれている人がひとりでもいるのならこれからも細々と作り続けていきたい。そんなふうに感じてしまう。
今日の彼女のイメージも、うまく膨らませて曲を完成させたい。そう思ってそらしたままだった視線を彼女の席へと向けて――固まった。
(見てる。こっち見てる! なんで?)
あのこげ茶色の瞳には確かに自分が映っている。そう思っただけで体の奥が震える。
ただ見てるだけじゃなくて、驚いたように目を見開いている。
「――でね。聞いてる? 紘一くん」
「あっ、すみません店長! 聞いてます、聞いてますよ」
成瀬に呼ばれて彼女から視線を離し、会話を再開した。けれど紘一は背後の席――彼女の方へどうしても意識が向かってしまう。成瀬にも失礼だし、自分でも挙動不審だと思うから必死に気をそらそうとするけれど、どうしてもできない。
「いらっしゃいませ!」
その時他の客が入ってきて成瀬はキッチンへ戻っていった。ひとり残された紘一はどうしてかいたたまれない心持になってきた。やっぱり彼女のことが気になってしまうし、ちらちら見たりしたらまるで変質者だ。今日は惜しいけど店を出よう。
チャイを飲み干し、荷物を片付けて席を立った。出口へ行くにはどうしても彼女の席の横を通らなければいけないけれど、そこは勘弁してほしい。
さかさかと足をはやめ、彼女の席へ近づいた時だった。
「あ、あの」
小さな声に呼び止められた。心臓が跳ね上がるほどに可愛らしい声だ。振り返らなくてもわかる、彼女だ。
「あの、ひだまりコーギー……さん、ですか?」
まさか彼女の口からその名前で呼ばれるとは思ってもみなかった。紘一は足を止め、まるで錆びついたブリキのおもちゃみたいにぎこちなく振り返ると、こげ茶色の大きな瞳に射抜かれる。
こんなに近くで顔をみるのは初めてだ。キラキラと輝く瞳や表情が予想以上に可愛らしい。こんな不意打ちでは取り繕うことすらできないではないか。
よっぽど驚いた顔をしていたのだろう。彼女が紘一の顔を見るなり慌て始める。
「す、すみません! あの、私、ひだまりコーギーさんのファンで」
「――へ?」
「あの、チャンネル登録もしてて! すみません、店長さんとのお話がきこえて、まさかコーギーさんがこんな近くにいるなんて思ってもみなくて。でもどうしてもコーギーさんの曲が好きだって伝えたくて」
必死に話す彼女をただ茫然と見つめるしかない。
おまけに「好き」って――
曲が好きだと言われているのはわかってる。わかってるけれど胸の鼓動が鳴り止まない。
そこからパニックしていた紘一は何を話していたのかよく覚えていない。けれど気がついたら彼女と連絡先の交換をしていて、初めて彼女が「鈴村花」という名前だと知ることが出来た。
春はまだもう少し先だけれど、この日紘一の心の中に小さな小さな花が咲いた。
その花が満開に花開くのはそう先の話ではない。




