15
ナルシアは、一人で入るには大きすぎる湯船に、足を浸した。
清潔な水は、人肌よりも僅かに温かかく、優しく癒すように身に絡みつく。包むようなぬくもりの心地好さに、ナルシアは、ほっと息をついた。
肩まで浸かり、乾いた泥のついた腕を擦ると、するりと剥けるように白い素肌が現れてくる。その身体には、ミミズ張れや、擦り傷の赤い筋が浮かびあがっていた。左肩にふれると、いつか兵士に撃たれた傷口は盛り上がった醜い跡を残してふさがっていた。
それは、決して拭う事の出来ない汚れのように見え、ナルシアは顔をしかめた。
僕は、これから、どうしたいのだろう。精霊の消失を解明させる事か、王家の復興か、レイダートの制圧か。どれも、皇子である自分の役目であるはずなのに、想いが伴わない。自分の心が、わからなかった。自分が何を望み、どうやって生きて行けば良いのか、靄がかかったかのように前が見えない。
「他人が許せないか……」
ハーブル法王に言われた言葉が、耳に残っている。
エルアやルカを殺された時、眼も眩むような激しい怒りの中で、自分は正しいのだと信じていた。それなのに…、お前は間違っている、と嫌悪し憎む自分の姿が怪物の醜態のように思えるのは何故なのだろう。
それが、゛排除″だったからなのか。
ナルシアの心臓にヒヤリとした戦慄が走った。騒ぐような脈動が胸に過る。
僕は、見たくなど、なかった。人間の欲望や汚れた闇を受け入れたくなかった。だから、゛悪″を切り捨てようとしたのだ。
人は善でなければ完璧でなければ存在してはならないと、心の底で想い込んでいる。だから、僕は、誰の事を許す事もできないのだろう。
世界は自分が思っていたより、ずっと、うす汚かった。弱ければ喰われる。手を汚さなければ、生きてはいけない。だけど、人を傷つけ踏みつけにし、犠牲にする事が生きるという意味なら、今まで憎み続けてきた゛悪″とは一体、何なのだろうか。
自分がかわいいなんて、当然の事なのか。傷ついた痛みや苦しみを感じるのは、いつだって自分自身だ。
頬の肉がピクリと痙攣し、ナルシアは、湯を両の手ですくうと顔を拭った。
ナルシアは立ち上がると、湯船から出た。髪から垂れた雫が、首筋を伝って腰元へと流れ落ちる。床を濡らしながら、ナルシアは部屋の隅にあるついたての奥へと向かった。
そこには、丁寧に作られた木彫りの化粧机があり、脱ぎ捨てた着古したシャツやズボンの横に、ハーブル法王が用意してくれたまっさらの衣服が綺麗にたとまれて置かれていた。脇にある籠から、大きめのタオルを取り、それで全身をくるむと、ナルシアは机と対になった椅子に腰をかけた。
身を繕うために置かれた大鏡に、濡れネズミのような、みすぼらしい姿が映っていた。
ナルシアは、澄みきった水面のような白銀の光に佇む゛分身″に手を伸ばした。もう一つの手のひらの冷たい感触が重なる。
鏡に映る、その顔。気弱そうな細い眉。自分の言葉を何一つ口にする事の出来ない固く結ばれた薄い唇。華奢な輪郭に浮かぶ、呪われたように輝く金の瞳。
こっちを見ている、白い面がくしゃりと醜く歪んだ。
僕は……、ずっと自分が嫌いだった。
皇子として、定められた道を歩いてきた。皇子として扱われ、期待され、ひとの望む姿をふるまっていた、いいなりでしかあれない自分が。だけど、それでもいいと思っていた。心を殺し、感情を誤魔化してでも、僕は誰かに必要とされたかった。嘘の仮面だとしても、外してしまえば、僕は空っぽでしかないのだから。
耐えがたい空しさが全身を侵食してゆく。
僕は、正しい人間なんかじゃない。ずっと醜い自分を見たくなくて逃げまわっていただけだ。
唇がわななき、微かに空いた隙間から、惨めたらしい呻き声が漏れた。後悔にまみれた指先で、ナルシアは顔を覆った。




