一 蓮根は果物であり阿呆だ。
私は死んだ。
夢はうつつか、蓮根は果物か、弓で大切な人間の心を射られたのか、溜めていたチラシの山に火を放ってしまったのか、早くに採りすぎたガソリンを吞み込んでしまったのか。死に至った理由は自分でも正直のところ定かではないが、少しばかり、いやかなり心当たりがないわけではなかった。だがしかし、死した今、そんなことはどうでもいいというのが胸の内だ。誰が私に興味を持っているのだというのだろう。生きていたかつてはそんな人が私にもひょっとしたら一人くらいは居たのかもしれないが、もう知るすべなどあるまい。知ったとて何になる。少しばかりの愉悦感か、安寧か。ただ、そんな人間たらしめる感情を追うのも嫌いではなく、捨てることができないことはとうに理解していた。
何故、私が死んだと自分で理解できたのか。それは今、目の前にある景色が生きた人間だった頃、見たことのない景色だったから。それと、あの忌々しく煩わしい重力とやらを感じられなかったから。ただそれだけである。見たことのない景色とは言っても、あの時代の人間が想像するようなよくある天国、はたまた地獄でも、異世界もののファンタジーのような欧風な景色でも、思い出の人が立っているみたいな走馬灯のような淡い景色ではない。走馬灯と言えば、私は正直死に瀕した時に見れるものだと生前はかなり期待を寄せていたような気がする。生きていれば記憶も増え、その時は絶対に忘れるものかと豪語していた記憶でさえも忘れてしまうのが悲しき人間の脳だ。人間はそれを理解しているから皆、日記を書き、いつでも読み返せるようにしているのではないかと思う。私が生きていた頃、いや今も唯一恐れているのが記憶の忘却だった。今思えば、私の行動原理は全てそこから来ていた。が、それもまたどうでもいい話だ。自分にとって自分は他者よりは大事だが、同等なくらいにはどうでもいい存在なのだから。こんな事をつらつらと思考してしまっているのは、今身に感じている状況が異様だからなのだろう。異様とは言っても何故だか実家のような居心地だ。まるで胎児に戻ったかのような。なので違和感はないが、ただ訪れた事がない場所、見た目ではあったため多少の動揺は隠せない。今、視界に入っているのは浅葱色のような浅緑のような混ざった色が空間というパレットに雑に塗りたくられ、桜を絞ったような桃色や太陽には程遠い山吹のような色、菫色をまるで花のように見立てるつもりだったかのような雑な点が疎らに配置されただけで何をすべきなのか正直理解できないような、そんな平坦な場所だ。言ってしまえば、私の朧気な記憶からイメージするに、クロード・モネのただ美しいものが好きな例えば日本人には何故かよく好まれているような日本では有名な絵画『睡蓮の池』のようだと言えば分かりやすいだろうか。あの絵が視界にただ一面に、隙も無く埋められている。まだ身体を少しも動かしていないので、ここには地面や壁、天井があるのかさえ分からない。私の目ではその判断が非常に難しかった。それにしても、私のモネに対する解釈はこれほどまでに適当だったのか。何故か少しばかり誇らしい。絵画と言えば、現世の流行りもの好きの人間はよく有名な絵画を観に展覧会に殺到していたが、あれは愚かだと私はよく彼らを蔑んでいた。私の居たあの時代の人間は、カメラにものを収めるのが実に好きだった。私もさして絵画には興味がないが、実物も観ず、ただカメラに入った絵を眺めるなどなんて馬鹿馬鹿しいのだろう。結局彼らは、観たことがあるという実績が欲しいだけで本物には興味がないのである。絵画の綺麗な写真なんて広大な網の中に溢れるばかりにあるというのに。私にはクロード・モネも、フィンセント・ファン・ゴッホも、ヨハネス・フェルメールも、レンブラント・ファン・レインも、横山大観も、奈良美智も、良さが分からない。多分、逆張り人間か阿呆な脳だったのだろう。そう悶々と思考し続けるくらいにしか今の私にはできることがない。ここは転生先とかではなくただの死後、死者にしか分からない死後で、正攻法や攻略法などまるでない新作ゲームのゲーム抜きのような世界なのだろう。話しかけられるような死者もいなければ神のような存在も見当たらない。その上、身体は海の中にいるかのような、宇宙空間に放り出されたかのような、宙に浮いているかのような状態だ。動いたら何かが始まり、何かに声をかけられるのかもしれないが、今はそんな煩わしい物事に出くわしたくはなかった。なんせ死後なのだ。少しくらいは落ち着かせてくれ。ゆっくりと眠らせてくれ。あわよくば、よくある輪廻の輪の中に加わらせてくれ。この絵画の中のような空間の中、私は気が済むまで永遠に目を閉じることにした。心の中の名前も付けたこともない神に、今度こそ完全なる眠りにつかせてくれと願った。




