第2話 爺ちゃんの米
第1話の続きです。
見知らぬ江戸の農村に飛ばされた新太が、爺ちゃんの米を初めて村人たちに振る舞う回です。
水守村の人々も少しずつ登場します。
「お前は、何者だ」
ひげを蓄えた男が、低い声で言った。
年は五十を少し過ぎたくらいだろうか。
痩せてはいるが、背筋はまっすぐ伸びている。
周りの村人たちは、俺から少し距離を取っていた。
手には鍬。
棒。
中には、石を握っている者もいる。
そりゃそうだ。
突然、見たこともない蔵みたいな建物が現れて、その中から変な格好の男が出てきたのだ。
怪しまない方がおかしい。
俺は両手を上げた。
「怪しい者じゃないです」
言ってから、自分でも無理があると思った。
どう考えても怪しい。
男は眉ひとつ動かさなかった。
「名を名乗れ」
「米田新太です」
「よねだ、あらた……?」
男は聞き慣れない名前を口の中で転がすように繰り返した。
それから、俺の背後にある農業倉庫を見た。
トタンの壁。
鉄のシャッター。
灰色の大きな建物。
江戸時代らしきこの村には、明らかに浮いている。
「では、新太。あの蔵はなんだ」
「俺の……仕事道具です」
「仕事道具?」
男の後ろで、村人たちがざわついた。
「蔵にしては妙だ」
「壁が光っておる」
「鉄か? いや、あんなもの見たことねえ」
俺はどう説明すればいいか迷った。
農業倉庫。
米保冷庫。
乾燥機。
田植え機。
どれを言っても通じる気がしない。
だから、できるだけ簡単に言った。
「米を作るための道具と、米をしまっておく場所です」
その瞬間、空気が少し変わった。
男の目が細くなる。
「米を、作る者か」
「はい」
「百姓か」
「まあ……そんな感じです」
令和の米農家を、江戸時代の言葉でどう言えばいいのか分からない。
でも、田んぼで米を作っているのは間違いない。
男はしばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくりと名乗った。
「わしは、この水守村の名主、清右衛門だ」
名主。
聞いたことはある。
たしか、江戸時代の村長みたいな役だ。
いや、ただの村長ではないのかもしれない。
村をまとめて、年貢を取りまとめて、役人との間に立つ人間。
目の前の清右衛門は、まさにそんな顔をしていた。
ただ村人の代表というより、村の苦しさを背負って立っている顔だった。
俺は改めて周りを見た。
田んぼは、痩せていた。
水は少なく、土はところどころ割れている。
畦も崩れかけている。
村人たちの頬もこけていた。
子供が一人、母親の後ろに隠れている。
年は七つか八つくらいだろうか。
その子の目は、俺ではなく、俺の背後の倉庫を見ていた。
いや。
正確には、倉庫そのものではない。
何か食べ物があるのではないかと、期待している目だった。
清右衛門が口を開いた。
「この村は、去年の実りが悪かった」
その声は、さっきよりも少しだけ重かった。
「雨が続き、虫も出た。取れた米は少ない。それでも、納めるものは納めねばならん」
「年貢……ですか」
清右衛門は小さく頷いた。
「百姓は米を作る。だが、作った米をすべて食えるわけではない」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
米を作っているのに、米を食べられない。
知識としては知っていた。
でも、目の前で痩せた子供を見ると、その言葉の重さがまるで違った。
「今は、麦や粟を混ぜた薄い粥でしのいでおる」
清右衛門は、村人たちの方を見た。
「それも、長くはもたん」
誰も何も言わなかった。
ただ、空腹だけがそこにあった。
俺は背後の倉庫を振り返った。
あの中には、米がある。
白米もある。
玄米もある。
種籾もある。
爺ちゃんが残してくれた米。
俺が、見るたびにため息をついていた米。
その米を、この人たちは喉から手が出るほど欲しがっている。
頭の中で、爺ちゃんの声がした。
食う米と、つなぐ米を間違えるな。
分かってる。
全部を渡していいわけじゃない。
でも。
目の前の子供の腹は、明らかに減っている。
俺は清右衛門に向き直った。
「少し、待ってください」
「何をする」
「米を持ってきます」
村人たちが、ざわりと揺れた。
清右衛門の目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「米が、あるのか」
俺は頷いた。
「あります」
その言葉を口にした瞬間、村の空気が変わった。
期待。
疑い。
恐れ。
祈り。
全部が混ざったような目で、村人たちが俺を見ている。
俺は倉庫のシャッターに手をかけた。
この米をどう使うべきかなんて、まだ分からない。
でも、とりあえず。
今日、誰かの腹を満たすことくらいはできるはずだった。
シャッターを開けると、倉庫の中に積まれた米袋が見えた。
見慣れた光景だった。
現代にいた時は、見るだけでため息が出た米袋。
でも今、背後の村人たちが息をのむ音が聞こえた。
「……なんだ、あれは」
誰かが小さく言った。
俺は返事をせず、倉庫の奥へ入った。
白米。
玄米。
種籾。
苗箱。
爺ちゃんの農業ノート。
どれを出すべきか、一瞬迷う。
種籾は駄目だ。
これは食う米じゃない。
来年につなぐ米だ。
玄米も大事だ。
保存がきく。
この村がしばらく生きるためには、白米よりも慎重に扱うべき米だ。
なら、まずは白米。
今日、腹を満たすための米。
俺は、三十キロの米袋に手をかけた。
「……重っ」
思わず声が漏れる。
いつもなら台車を使う。
軽トラに積む時も、機械や道具に頼ることが多い。
でも今は、村人たちの視線を背中に感じている。
格好悪いところは見せたくなかった。
俺は米袋を抱え上げ、よろけながら倉庫の外へ出た。
村人たちが、一歩下がった。
俺が抱えている袋を、まるで得体の知れない生き物でも見るような目で見ている。
清右衛門が近づいた。
「それが、米か」
「はい」
俺は袋の口を開けた。
中の白米を、手のひらに少し出す。
その瞬間、村人たちのざわめきが大きくなった。
「白い……」
「なんだこの米は」
「石が混じってねえ」
「粒が、そろっておる」
老人が、震える指で米粒を一つつまんだ。
じっと見つめて、鼻に近づける。
「こんな米、見たことがねえ」
その声には、驚きだけではなく、少しの恐れも混じっていた。
無理もない。
俺にとっては、ただの白米だ。
でも、この人たちから見れば、白すぎて、綺麗すぎて、逆に不気味なのかもしれない。
「本当に、食えるのか」
若い男が言った。
鍬を握ったまま、俺を睨んでいる。
さっきから清右衛門の少し後ろに立って、村人たちを守るように動いている。
「食えます」
俺は答えた。
「俺がいつも食ってる米です」
「いつも……?」
信じられないという顔をした。
胸が少し痛んだ。
俺がため息をつきながら見ていた米は、この人たちにとっては、目を疑うようなものだった。
清右衛門が手を上げた。
ざわめきが少し収まる。
「待て、佐吉」
名は佐吉というらしい。
その声は、名主らしく重かった。
「得体の知れぬ米を、いきなり村の者に食わせるわけにはいかん」
当然だった。
俺だって、逆の立場ならそう思う。
突然現れた謎の男。
見たこともない蔵。
白すぎる米。
怪しいどころの話じゃない。
俺は頷いた。
「じゃあ、俺が先に食います」
清右衛門の目が細くなった。
「毒ではないと?」
「毒じゃないです。俺の米ですから」
言ってから、少しだけ照れくさくなった。
俺の米。
最近は、その言葉を胸を張って言えなくなっていた。
でも今は、自然に出た。
「炊く場所はありますか」
そう聞くと、村人たちは顔を見合わせた。
やがて、清右衛門が一人の女を呼んだ。
「お春」
人垣の奥から、若い女が出てきた。
どうやら佐吉の奥さんらしい。
痩せてはいるが、目はしっかりしている。
さっきの子供を後ろに隠していた女だ。
「火の扱いは、お前が一番慣れておる」
お春は少し戸惑いながらも、頷いた。
「分かりました」
俺は米を少しだけ分けた。
最初から大量には炊かない。
まずは一釜。
味を見て、食べられると分かってからだ。
お春は米を見下ろし、困ったように言った。
「こんな白い米、どう炊けばいいんだい」
「普通で大丈夫です。ただ……少しだけ、水に浸けたいです」
「水に?」
「はい。その方が、芯まで水を吸ってうまく炊けます」
お春は半信半疑という顔をした。
それでも、俺の言葉通りに米を水に入れてくれた。
白い米が、水の中で静かに沈む。
村人たちは、それをじっと見ていた。
誰も喋らない。
ただ、腹の鳴る音だけが、どこかから小さく聞こえた。
しばらくして、釜に米が入れられた。
火がつく。
薪がはぜる。
煙が上がる。
俺は釜の前にしゃがみ込んだ。
炊飯器じゃない。
タイマーもない。
ボタンもない。
保温機能もない。
火加減も、音も、匂いも、自分で見なきゃいけない。
正直、不安だった。
米農家なのに、米を炊くことすら機械に頼っていたんだと、今さら思う。
でも、お春の手つきは迷いがなかった。
薪を足す。
火を弱める。
釜の音を聞く。
湯気の出方を見る。
俺よりずっと、火を知っている手だった。
「すごいですね」
思わず言うと、お春は少しだけ驚いた顔をした。
「火を見てるだけだよ」
「俺、それがあまり得意じゃないです」
お春は初めて、ほんの少し笑った。
「米を作る人なのにかい」
「今の米作りは、機械が多いんです」
「きかい?」
「あー……便利な道具、みたいなものです」
お春はよく分からないという顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
やがて、釜から湯気が立ち上る。
白飯の匂いがした。
その瞬間、村人たちの空気が変わった。
さっきまでの警戒とは違う。
腹の底を直接揺らすような匂い。
米が炊ける匂い。
子供が一歩、前に出た。
お春が慌てて、その肩を押さえる。
「太助、まだだよ」
太助と呼ばれた子供は、釜を見つめたまま動かなかった。
俺も、同じように釜を見ていた。
懐かしい匂いだった。
毎日嗅いでいたはずなのに。
うんざりするほど近くにあったはずなのに。
今は、その匂いだけで、少し泣きそうになった。
蒸らしが終わる。
お春が釜の蓋を開けた。
湯気が、一気に広がった。
白い。
米が、光っていた。
村人たちが、誰からともなく息をのむ。
お春も、釜の中を見たまま固まっていた。
「これが……米……」
俺は茶碗を受け取った。
まずは俺が食べる。
そう言った以上、逃げるわけにはいかない。
箸で白飯をすくう。
口に入れる。
噛む。
「……うまい」
思わず、声が出た。
釜で炊いたからなのか。
空腹だったからなのか。
それとも、こんな場所で食べているからなのか。
分からない。
でも、うまかった。
じいちゃんの米は、やっぱりうまかった。
俺がもう一口食べると、清右衛門がじっとこちらを見ていた。
「本当に、毒ではないのだな」
「はい」
俺は茶碗を差し出した。
「食べてみてください」
清右衛門はしばらく黙っていた。
村人たちも息を止めるように見ている。
やがて清右衛門は、箸を取った。
ほんの少しだけ、白飯を口に運ぶ。
その瞬間。
清右衛門の動きが止まった。
目が見開かれる。
箸を持つ手が、宙で止まる。
そして、もう一口。
今度は少し多く。
清右衛門は黙ったまま、ゆっくり噛んだ。
誰も何も言わない。
やがて、清右衛門が茶碗の中を見下ろした。
「……なんだ、この米は」
その声は、震えていた。
「米とは、これほど甘いものだったのか」
村人たちの間に、ざわめきが広がった。
清右衛門は顔を上げる。
さっきまで俺を睨んでいた目が、少しだけ違って見えた。
疑いが消えたわけじゃない。
でも、その奥に、必死なものがあった。
「新太殿」
急にそう呼ばれて、俺は背筋を伸ばした。
「頼みがある」
清右衛門は、深く頭を下げた。
周りの村人たちが驚く。
俺も驚いた。
「去年の不作で、この村は限界だ」
清右衛門の声は低かった。
「米はほとんど残っておらん。麦も粟も、長くはもたぬ。子供や年寄りから、先に弱っていく」
太助が、お春の後ろで黙っている。
さっきまで釜を見ていた目が、今度は俺の茶碗を見ていた。
清右衛門は、もう一度頭を下げた。
「少しでよい。村に、分けてはもらえぬか」
俺は何も言えなかった。
倉庫には米がある。
白米も、玄米もある。
今すぐ全員を腹いっぱいにできる量だって、たぶんある。
でも。
頭の奥で、爺ちゃんの声がした。
食う米と、つなぐ米を間違えるな。
全部を食べさせることが、本当に正しいのか。
来年の種はどうする。
保存はどうする。
この村が、来年も米を食べるにはどうすればいい。
分からない。
俺にはまだ、何が正解か分からない。
それでも、目の前の人たちは腹を空かせている。
太助の目が、白飯から離れない。
俺は息を吐いた。
「全部は、渡せません」
村人たちの顔が、はっきり曇った。
お春が太助の肩を抱く手に、力を込める。
清右衛門は、静かに目を伏せた。
俺は慌てて続けた。
「でも、今日みんなが腹いっぱい食べる分なら出します」
空気が止まった。
誰かが、小さく息を吸った。
「本当か」
佐吉が言った。
さっきまで鍬を構えていた男の声が、少し震えていた。
俺は頷いた。
「本当です」
その瞬間、太助が跳ねるように顔を上げた。
「白い飯、食えるのか?」
お春が止めようとしたが、太助の声はもう村中に響いていた。
俺は少し笑った。
「食えるよ」
太助の顔が、ぱっと明るくなった。
その顔を見た瞬間。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
俺は倉庫に戻り、もう一度米袋の前に立った。
全部は出せない。
それは分かっている。
でも、今日だけは。
今日くらいは、この村の人たちに腹いっぱい食べてもらいたかった。
白米の袋から、必要な分だけを取り分ける。
村人たちは、倉庫の入口から中を覗き込んでいた。
米袋。
苗箱。
見たことのない道具。
壁際に立てかけられた古い鍬。
その全部が珍しいのだろう。
でも、一番見られているのは、やっぱり米だった。
お春が釜を用意する。
一つでは足りない。
村の家から釜や鍋が集められた。
「うちのを使え」
「こっちにもある」
「火なら起こせるぞ」
さっきまで俺を警戒していた村人たちが、少しずつ動き始める。
佐吉は薪を運んだ。
お春は米を洗った。
清右衛門は、村人たちを落ち着かせながら順番を決めた。
老人の弥平は、火の具合を見ながら何かをぶつぶつ言っている。
俺はその中心に立っているようで、実際には何もできていなかった。
水の量を見る。
浸水の時間を考える。
炊き上がりの蒸らしを伝える。
それくらいはできる。
でも、薪を割る手つきも、火を操る手つきも、俺より村人たちの方がずっと上手かった。
令和の米農家。
そう言えば聞こえはいい。
でも俺は、田植え機も、乾燥機も、籾摺り機も、炊飯器もある時代の米農家だ。
目の前の人たちは違う。
火を知っている。
水を知っている。
手を動かすことを知っている。
俺が持ってきたのは米だ。
でも、この米を飯に変えているのは、この村の人たちだった。
やがて、あちこちの釜から湯気が上がり始めた。
村全体に、白飯の匂いが広がっていく。
誰も大きな声を出さなかった。
子供たちでさえ、釜の前でじっと待っていた。
腹が減っているのに。
今すぐ食べたいはずなのに。
それでも、誰も勝手には手を出さない。
清右衛門が静かに言った。
「順に配る。子供と年寄りからだ」
村人たちは頷いた。
お春が、最初の茶碗によそった。
白い飯。
それだけだ。
味噌汁もない。
魚もない。
漬物すらない。
ただの白飯。
でも、茶碗から立つ湯気を見た瞬間、村人たちの顔が変わった。
最初に受け取ったのは、子供の太助だった。
お春が茶碗を差し出す。
「ゆっくり食べな」
太助は大きく頷いた。
それから、白飯をひと口、口に入れた。
動きが止まった。
目がまん丸になる。
噛む。
もう一度噛む。
そして、飲み込む前に、顔がくしゃっと崩れた。
「うまい」
小さな声だった。
でも、その場にいた全員に聞こえた。
「おっかあ、これ、うまい」
太助は茶碗を抱えたまま、今度は大きな声で言った。
「白い! 甘い! すごい!」
その声で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
お春が口元を押さえた。
「そうかい」
それだけ言って、お春は下を向いた。
肩が震えていた。
泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
次に、老人が茶碗を受け取った。
弥平だった。
弥平は白飯をじっと見つめてから、ゆっくり口に運んだ。
噛む。
目を閉じる。
しばらく、そのまま動かなかった。
「……米だ」
弥平が言った。
「米の飯だ」
それだけだった。
でも、その声は震えていた。
村人たちは次々に茶碗を受け取った。
一口食べて、黙る者。
何度も噛みしめる者。
茶碗を見つめたまま涙をこぼす者。
うまい、うまいと、それしか言えなくなる者。
佐吉は大きな手で茶碗を持ち、白飯をかき込んだ。
「うめえ」
それだけ言って、また食べた。
「なんだこれ、うめえ」
また同じことを言った。
周りの男たちが笑った。
久しぶりに笑った、という感じの笑い方だった。
太助は二杯目をもらって、村の中を走り回っていた。
「白い飯だぞ!」
「甘いぞ!」
「すげえぞ!」
お春に怒られて、すぐに戻ってくる。
でも顔はずっと笑っていた。
その笑顔を見ていると、胸の奥が熱くなった。
俺の米で、人が笑っている。
現代では、米袋を見るたびにため息が出ていた。
売れ残り。
在庫。
請求書。
燃料代。
修理費。
そんな言葉ばかりが頭に浮かんでいた。
でも今、目の前にあるのは違った。
茶碗を抱える子供。
涙を拭う老人。
うまいと笑う大人たち。
俺の米が、誰かの腹を満たしている。
俺の米が、誰かを笑わせている。
それが、こんなに嬉しいことだったなんて。
俺は忘れていた。
清右衛門が、茶碗を持ったまま俺の前に来た。
そして、深く頭を下げた。
「新太殿。礼を言う」
「やめてください。俺は、そんな大したことは」
「大したことだ」
清右衛門は顔を上げた。
目元が少し赤かった。
「この村に、久しぶりに笑い声が戻った」
何も言えなかった。
照れくさいような、苦しいような、変な気持ちだった。
俺はただ、米を出しただけだ。
炊いたのはお春たちだ。
火を起こしたのは村人たちだ。
順番を決めたのは清右衛門だ。
俺一人でやったことじゃない。
それなのに、嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
宴というほど立派なものではない。
酒があるわけでもない。
ごちそうが並ぶわけでもない。
それでも、水守村はその日、白飯だけで祭りみたいになった。
子供が笑う。
大人が笑う。
老人が泣く。
また誰かが笑う。
湯気の向こうで、村が少しだけ生き返っていくのが分かった。
俺は少し離れた場所に座って、その光景を見ていた。
じいちゃん。
俺の米で、みんな笑ってるよ。
そう心の中で呟いた。
返事はない。
でも、じいちゃんならきっと、少しだけ笑ってくれた気がした。
その時、ふと倉庫の方が目に入った。
灰色の農業倉庫。
江戸の村には似合わない、俺と一緒に飛ばされた場所。
中にはまだ米がある。
白米。
玄米。
種籾。
苗箱。
爺ちゃんの農業ノート。
村人たちは、今日腹いっぱいになった。
それはいい。
本当に、よかった。
でも、米は食べれば減る。
減った米は、勝手には戻らない。
この村が来年も笑うには、今日食べるだけじゃ足りない。
米を作らなきゃいけない。
残さなきゃいけない。
つながなきゃいけない。
頭の奥で、爺ちゃんの声がした。
食う米と、つなぐ米を間違えるな。
俺は、笑っている太助を見た。
茶碗を大事そうに抱えるお春を見た。
静かに白飯を噛みしめる清右衛門を見た。
この人たちに、明日も、来年も、米を食べてほしい。
でも、そのために何をすればいいのか。
俺にはまだ、分からないことだらけだった。
令和の米農家。
そう名乗ったくせに、俺は機械のない米作りをほとんど知らない。
この時代の田んぼも知らない。
水のことも、土のことも、村の決まりも知らない。
年貢がどれだけ重いのかも、本当の意味では分かっていない。
それでも。
俺は、もう一度倉庫を見た。
あの中には、爺ちゃんの米がある。
爺ちゃんのノートがある。
そして、来年につなぐための種籾がある。
「爺ちゃん」
小さく呟いた。
村人たちの笑い声に紛れて、俺の声は誰にも届かなかった。
「俺、この米をどう使えばいいんだ」
答えはまだない。
ただ、白飯を食べて笑う村人たちの声だけが、春の夕方の村に広がっていた。
読んでいただきありがとうございます。
今回は白飯回でした。
米で人が笑うところを書きたかったので、少しでもお腹が空いたり、温かい気持ちになってもらえたら嬉しいです。
次回は、食べる米と残す米の話です。




