第三十七話 長安
真正面から滝へぶん投げられ、そのまま裏側へと押し出されたならこんな感覚だろう。だが、思わず止めていた息を吐き出して、瞑っていた目を開けたときに残っていた感覚は、流水の冷たさではなく、抱きかかえられた人の温もりと匂いだけだった。泰然は未だ目を瞑ったまま三蔵と紫釉を押し潰さん勢いのまま抱きかかえ、紫釉は険しい顔のまま動けず、三蔵は紫釉の腕の中できょとんとしていた。
青々と茂る木々が延々と続くのだと思われていた風景が、一変して碁の盤のように建物が端々まで敷き詰められた夜の長安に通ずる明徳門前へと移っていた。五つの門道から覗き見える街並みは、ここだけ世界を入れ替えたかのように栄えている。あまりの落差に、異なる世界に行く入り口へと誘われたのだと言われれば信じてしまいそうだった。
「お前達はいつまで団子になっているつもりだ! 立て!」
呆然としていると、存在として確かにあったはずの竜は消え、十五の少年姿の夏欄が三蔵たちを変わらぬ尊大さで一喝した。
「も、申し訳ありません!」
泰然が二人を離せば、紫釉も小さく溜息を吐いて腕から力を抜いた。三蔵より先に立ち上がろうとして力が入らずよろけ掛けたところを、逆に三蔵に支えられた。
「申し訳ありません、三蔵様」
「……大丈夫ですか?」
恐る恐ると問う。
「はい、問題ありません」
問われた紫釉が、そう返すと分かっていた。それでも、他に問い掛けられる言葉が見つけられなくて三蔵は口を噤んだ。
「三蔵様は何ともありませんか?」
反対に気遣われて何も言えずに、三蔵はこくんと頷いた。
「紫釉、ほら」
自然と俯いてしまった三蔵を見かねるように、泰然がぐいと紫釉の肩を自分の方へと引き寄せる。
「ま、待て待て、泰然。おぶろうとするな」
さすがにまだ自分で歩けると慌てる紫釉を、泰然は半ば無視して、ほぼ背負うような形で紫釉の腕を自分の肩へと回した。泰然は紫釉より背は低いが、体格は泰然の方がいい。
「これくらいさせてよ」
紫釉を置いて逃げたことは、きっと間違いではなかった。けれど、ずっと胸が塞いでいた。間違いではないことが正しいと言えるわけでもなく、それでも選ぶしかなかった己の無力さを恨まずにはいられなかった。
「馬鹿だな、泰然」
それは紫釉も同じだ。兄弟のように育った友人の泣きそうな気配を感じ取って、紫釉は苦笑してことさら大袈裟に体重を泰然に掛けてやった。さすがに重いよと抗議をあげる泰然の声は、紫釉の知る朗らかさがあった。
三蔵は、二人のやり取りを見てほっと肩の力を抜くと、ちょうど長安の方向から胸の辺りにとっと何かが飛び込んでくるのを感じた。
「?」
絶え間なく犇めいていた子どもの泣き声が聞こえない。鼻につく異臭も、禍々しい気配までもがそこは取り払われていて、静かな夜だった。こんなにも目と鼻の先に長安という巨大都市があるというのに、灯されるべき場所に火は灯されず、あるべき人の気配すら感じられない、まるで夢で見る誰もいない夜のようだった。
三蔵のちょうど胸の真ん中に射られた矢が、冴え冴えと夜空に向かって伸びていた。
「え」
痛くはなかった。天から授けられた袈裟は当然と三蔵を守り、矢は胸を貫くことなく乾いた音を立てて地面に落ちた。頭であったらどうなっていたか、考える暇はない。
「……なっ!」
驚愕に目を見開くのと同時に、ばらり、と明徳門からどう身を隠していたか分からぬ勢いで軍勢が湧いた。きりきりと無数の弓矢が引き絞られる音が絶望の雨となって降り注がんとした瞬間、夏瀾が再び皇帝もろとも三蔵たちを呑み込んだ。
『太宗の軍勢が何故!?』
竜に姿を変えた夏瀾の一驚を喫した叫びが頭に響く。
「不測の事態だ! 身を隠せ!」
太宗に命じられるがままに、夏瀾が数多の矢をその身で弾いて空を走った。
明徳門の前は開けている。身を隠せる場所などなかった。ならば、向かうしかない。
『兵士風情が身の程を弁えろっ! ここに御座すは貴様らが仕える主ぞ!』
武器を持つ人間たちが鉄砲水に飲み込まれるようになぎ倒される最中、ひとつ影が太刀を携え、竜であるはずの夏瀾の前に躍り出た。手に持つは、竜の首をも斬る魏徵の刀だ。
けれど、その影は刀の持ち主ではなかった。
『梁隆!?』
夏瀾が怯んだ。瞬間、太宗が懐から短刀を抜き放ち、梁隆めがけて飛び移った。その手に持ちたる短刀に、刃はなかった。刀身の代わりに翡翠の石が収まったそれは仄かに光を帯び、まるで人を傷付けるための用を成さない。身を守る術などひとつとして持ち得ていないように見えた。だというのに、太宗は一切臆することなく抜き身の刀を構える梁隆を真っ向から迎え撃ち、月を映して輝く水面のごとく青き目を離さなかった。
「玉瑛は美人だろう」
崩れぬ笑みを、太宗は宰相たる魏徵の、一番気に入りの部下であった男へ向けた。覚えている。
「梁隆、惑わされてくれるな。あれは私の妹だったのだ」
キンと目に見えぬ澄んだ音が貫けば、太宗を叩き斬らんとしていた梁隆は糸が切れた人形のようにがくりと脱力した。どっと落ちゆく梁隆の首根っこを太宗ががしりと掴む。
「夏瀾」
『呼ばれなくとも分かっています!』
憤りが滲んだ声だった。地面へと落ち切る前の二人をどうにか呑み込んで、夏瀾はそのまま明徳門を越え、皇城の朱雀門に繋がる天街を駆け抜けようとした。
「!?」
明徳門を越えた瞬間、竜の姿が忽然と解け、長安の中心を通る天街へと三蔵たちと共に投げ出された。突然の出来事に、受け身すら知らない三蔵は、紫釉と泰然が呼ぶ声を聞いた気がしたが、ほとんど無防備の状態で放り出された。とっさに目を瞑り、身を丸めるも、想像していたよりも痛みも衝撃も襲ってこなかった。恐る恐る目を開けると、体格などほとんど違わない人姿の夏瀾が三蔵を抱えるように下敷きになっていた。
「うわ、ごめ……!」
慌てて飛び退いた三蔵が夏瀾を覗き込もうとするのと、夏瀾がバネ仕掛けの人形のようにがばりと飛び起きるのはほぼ同時だった。危ういところで頭突き事故を回避した三蔵は、無傷であるはずの額を思わず抑えて身を縮み込ませた。もうずっとばくばくと跳ねる心臓が落ち着くことはなく、もはやこれがいつもの早さのような気がしてきた。
(あれ? 目青くない)
夏瀾は三蔵のことなど見向きもせず、「太宗様!」と真っ直ぐ太宗の元へと走って行った。入れ違いに、紫釉と泰然が三蔵の元へと駆け寄ってくる。二人とも放り出されたとき受け身は取れたが、あちこちを打ち付け、ぼろぼろだった。
「三蔵様、ご無事ですか!?」
それでも安心を目に見える形にしたなら、今の三蔵にとってそれは無条件で彼らだった。紫釉と泰然が無事であるか確かめることも頭から飛んで、自分が今怖いのだということすら分からないまま、ほとんど何も考えずに三蔵は先に立っていた紫釉にしがみついた。不安と恐ろしさの全貌すら分からずただ縋り付く三蔵は、驚くほど頼りなげで、紫釉は慌てて抱き留めた。
「お怪我は……」
「大丈夫」
本当に大丈夫か確かめてもいないだろう答えだった。紫釉の腕の中にいる三蔵は震えていた。三蔵を支える紫釉の手も震えていた。放り出された時、人の姿に戻った夏瀾が三蔵を真っ先に身の内に引き寄せて庇うのを見てはいたが、気が気ではなかった。
「ご無事でよかった。こわかったですね」
横からそっと掛けられた泰然の言葉に、三蔵はゆっくりと顔をあげた。心配そうに覗き込む泰然と目が合うと、三蔵はじわりと視界がぼやけるのを自覚した。心が、現実に追い付いていない。矢を受けたことすら嘘のように思えた。
「すまなかった」
太宗の声が掛かる。振り向けば、僧侶の頭巾も外れ、青い目を露わにした太宗が、夏瀾と、その夏瀾の首を斬らんと襲いかかっていた梁隆を従えて居た。
「危ない目に合わせるつもりはなかった。我らも長安がこうまでなっているとは知らなかったのだ」
太宗はすでに三蔵へ跪き天の加護を返すことで二心がないことを示している。疑う理由はなかった。隣で相変わらず、つんとそっぽを向いている夏瀾は、すっかりただの少年に戻っていた。竜の形も、異様な気配も、目の色の青さも、欠片もない。
太宗は、紫釉と泰然に庇われて後ろに下がらされた三蔵と目を合わせた。
「大事ないか」
真っ直ぐ問われて三蔵は、思わず自分の胸元を掴んだ。まだ矢の重みが残っている。味わったことのない命の懼れだった。
「だいじょうぶ、です」
声が震えた。紫釉に答えたような反射的な答えではなく、自分に言い聞かせるための嘘だった。そう答えなければ、泣いて蹲ってしまいそうだった。三蔵の虚勢を、太宗は受け入れて頷いた。
「一時、安全な場所へ。この男……梁隆が身を隠せる場所を知っているという。どうか案内させてやってくれないか」
「三蔵様に矢を射った軍勢の中にいた者を信じよと言うのですか」
「あの者達は正気を失っている。この男もそうであった。今はもう私が元に戻した」
太宗と梁隆が空中で揉み合っていたのは知っている。あの怒濤の出来事の中、三蔵が無事あることだけに必死で、まるで何をしていたかは分からなかった。そうして気付けば放り出されていた。当惑と警戒を露わにしたまま三蔵たちは何も答えることができない。簡単に了承するにはあまりにも恐ろしい出来事過ぎた。
「梁隆」
場が硬直しそうになった瞬間、太宗が、梁隆の名をただ呼んだ。梁隆は、崩れるように膝を付き、頭を下げて三蔵たちの前へと出た。
「申し訳ありませんでした!」
ぽたりと地面に垂れ落ちた雫の跡が、汗か涙かは三蔵からは見えなかった。けれど、男が震えていることは分かった。
「夏瀾様が距離を稼いで下さったおかげでここは明徳門から離れてはおりますが、先ほどの私のように正気を失った兵はそこかしこに潜んでおります」
その声には分かりやすいほどの怯えが滲んでいた。
「病にて亡くなったはずの帝の妹君が、玉座に」
上ずる声をどうにか力任せに宥めながら、彼は一度唾を飲み込んだ。正気を失っていたことも、自分がしでかしたことも、そう至るまでにあった出来事も、何もかもが恐ろしいと思わずにはいられない。
「魏徴様が斬首刑に処されました」
汗も涙も、ぽた、ぽたぽたと止めどなく流れるままに梁隆は、見てきた事実を羅列する。
「玉瑛様が、玄奘三蔵を何をしてもいいから持ち帰れ、と口にした後から己の意識がまるで水中に沈められたかのように遠のいていったのです」
自分が何をやっているかは分かっていた。見も知らぬはずの玄奘三蔵が一目で誰か分かったとき、自分がこれからするであろうことに心底恐怖した。それでも、沈められた底から上がることは叶わなかった。
「抗えないのです」
だから、捕まらせぬように早く身を隠させねばならない。