第三十六話 人の外にあるもの
地獄の臭いに混じり馥郁たる清香が都をも越え、とある山の麓まで幽かに届いた。
苔も生えぬ岩肌の山脈は、東半分は太宗が治める長安がある大唐の領土となるが、西半分は手に負えぬ有象無象が跳梁跋扈する韃靼の地となる。
その山の麓に、岩と同化したかのごとく動かぬ何かがあった。いや、動かぬのではない。動けぬのだ。山そのものが重しとなっているかのように、首と手首だけが外に出ている。岩そのもとなっているそれに、するすると音もなく小さなとかげが登っていった。口元まで来ると、その何かは大口を開けてとかげを飲み込み咀嚼し、ぺっと残骸を吐き出した。
くんと鼻先と思わしき一部が蠢いた。
この山に封じられ、幾年月が経ったか。動けぬ有様だというのに、何者もそこに決して近づこうとしなかった。山と同化するように目を開くこともなかったそれが、匂いに釣られるようにゆうるりと目を開けようとした。目蓋がべったりとくっついて開くまでに酷く時間が掛かった。初めは縫い付けられたかと思ったが、短気にならず、朝に爪の垢ほど、昼にさらに耳の垢ほど、夜にさらに目のヤニほど、すこうしずつ、すこうしずつ、くっついた皮膚と皮膚を落としていく。
ようやっと線のごとく薄目が開いたとき、見えたのは赤く燃ゆるような橙色の線だった。落ちる日を押し上げるがごとく瞼を開けば、近くに止まっていた鳥が慄くように羽ばたいた。
天にも届かんばかりに輝く金色の眼が、夕日の光を吸い込んで目覚めた。
発することのなかった声を、朝昼晩と何日も何日も掛けて喉を震わせ、感覚を取り戻していく。獣の唸り声しか絞り出せなかったものが、徐々に徐々に人の言葉に似た何かへとなった。
いつの間にか山の周りの獣たちは散り散りに逃げ惑い、虫の一匹すらいなくなった頃、岩猿が獰猛に牙を剥き出しにして笑った。
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まだ岩猿の目が開かぬ頃、観世音菩薩の加護に触れた束の間だけ冴え冴えと晴れていた月は、瞬く間に雲に隠れて夜の闇を深くした。
思わぬところで目的を果たせた三蔵は、爽やかな気を纏う法衣を抱えながら、さて、これからどうすればいいのだろうと途方に暮れた。一人で放り出された不安は解消されたが、周りのおどろおどろしい気配は増すばかりで、仲間は増えたが化生寺に戻るための足はない。三蔵を追ってきたらしい太宗は、本当に追ってきただけで何も持たず、さらにその太宗を追ってきた夏瀾も、天の預り物を三蔵に明け渡してしまえば身一つだ。渡された袈裟を作務衣の上から付け直しながら、これからのことに三蔵は頭を悩ませた。
(馬がないなら歩くしかない)
今までずっとそうだった。いつも通り、変わることなく、ただたゆまず歩いて進む。
人数が多ければ危険も減るだろうか。そもそも、この怖じ気づくような異様さは何なのか、感じることは出来ても三蔵の理解は追い付いてはいなかった。守られてきた三蔵は、餓鬼の姿すらはっきりと見てはいない。
そんな中、つと紫釉と泰然が太宗の前へ進み出た。
「質問をよろしいでしょうか」
「構わぬ」
最上の礼を取り、顔を伏せたまま紫釉が口を開く。
「貴方様のような御方が何故このような場所におられましょうか」
「そこな玄奘三蔵に、観世音菩薩様から賜った旅装束を渡すためだ」
当然のことのように、太宗は答える。
太宗は何を聞きたいか分かっていて言ってるのだろうと紫釉は思った。泰然にそっと目配せすると、泰然は頷いた。今度は泰然が問う。
「何故、敢えて御自ら出向かれようとなされたのですか」
泰然は答えをはぐらかされる前にさらに言葉を重ねた。
「我々がいつ来るとも分かっていないにも関わらず、都から出て化生寺に留まっていた理由を教えて頂きたいのです」
そうして、さらに今宵、化生寺すら後にして三蔵を追った。
太宗が観世音菩薩から授かった旅装束を三蔵へと受け渡したとき、泰然も、そして事情を断片的にしか見聞きしていない紫釉さえも、確信したのだ。
かの長安の皇帝は、わざわざ三蔵を探しに都から出てきたのだと。出ざるを得なかった何かがあったのだと。
三蔵が金山寺を出て長安に向かおうとしていたことはわかっていたはずである。待っていれば勘違いも擦れ違いも起こることなく済んだ。それなのに観世音菩薩が授けた旅装束をわざわざ持ち出し、表に見える従者らしい従者は夏瀾のみで、身分を隠し、僧侶を装うなどということは、理由もなく気紛れで起こり得ることではない。違和を違和だと捉えられるだけの世の決まりを飲み込み切れていない三蔵は、ただ与えられるがままに与えられたものを受け取るが、紫釉や泰然は、長安にいるべき人物が、持ち出すわけのない物を持って、身分すら偽りここにあるという事実が、起こり得ることではないことを理解していた。
優秀な家臣を前にしたときのように太宗は笑みを深め、傍らにいた夏瀾は盛大に溜息を吐きだした。
「ここで話すには長くなる。移動してからにしましょう。夜も深い。あなた方の体も持たないでしょう」
平然と顔に出さずにいるが、昨日から食わず眠らずの紫釉の消耗が特に激しかった。この時分に聞こえるはずのない大勢の子供の啜り泣く声が、さらに心身をも摩耗させる。
「化生寺に戻るんですか」
袈裟を身に付け終えた三蔵が首を竦めて辺りを見回しながら問えば、夏瀾が愚図を見るような目で見てきた。思わず三蔵は怯んだが、三蔵を見る夏瀾の青い目にふと違和感を覚えて数度瞬きをした。そういえば、少年の目は初めからそんなに青かっただろうか。出会った時の印象に残っていない。
「天より預かっていた旅装束はもうお前へ返した。化生寺に戻る意味はもはやない」
言われてみれば、それは三蔵たちも同じだった。夏瀾は、少し考えればわかるだろうとでも言いたげだ。
「長安へとお戻りになるのでしょう、太宗様」
夏瀾が太宗を見上げる。
「ああ、そうだな」
頷いた太宗は、そのまま夏瀾と同じ青い目で三蔵を見据えた。
揃いの目だ。いつから? 最初からではなかったはずだ。
「そなたも、ともに来るだろう?」
太宗に問われて、三蔵は一瞬言葉に詰まった。三蔵達は、この旅装束のために皇帝に会いに長安へ行こうとしていた。それが果たされた今、皇帝とともに長安へ行く意味はないと言ってもよかった。けれど、紫釉と泰然の太宗への口振りからして、彼らは旅装束を渡す以外にも玄奘三蔵に恃むところがあって都を出てきたようである。その割には、夏瀾には散々に言われ、太宗の口から直接乞われるわけでもない。世の理に縛られない三蔵からしてみれば、長安に寄らずに天竺国を目指すことにしても何ら不都合はなかった。
だが。
戸惑いながらも三蔵はしっかりと頷いた。
上から見下され愚かだと馬鹿にされることも、侮られることも、三蔵にとって理由にはならなかった。袈裟も腕輪もちゃんとこの手にある。待っていればよかった彼らが、わざわざ追い掛けて来てここにある。ならば、その手は払うものではないのだ。もし仮に下手に出て頼まれたからといって、三蔵には満たされるものがない。
まっすぐ太宗と目を合わせる玄奘三蔵を、太宗は眩いものを見るように目を細めた。
「参ろうか」
三蔵から天へと、太宗は視線を移した。
ぽつ。
透明な雫が一筋、垂れ落ちる。
一雫、二雫。
雨雫に導かれるように、一条の光が雲を割って太宗の元へ降りていく。光射す合間からのみ降り注ぐ雨雫は、天がこぼす慈悲の涙のごとく地獄の夜をわずかに濡らし、太宗がその涙を掬い取るように指先を伸ばせば、数えられるほどにまばらな雨粒が淡く青い光を帯び、青き水となって太宗が片手の平で作った椀へと溜まりゆく。
「夏瀾」
呼ばれるより先に、彼は口元まで降りてくる長安を統べる帝の手を、幼さの残る両手で支え、その指先から注がれる青き雫を口に含んだ。一滴口元からこぼれ落ちたとき、閉じていた夏瀾の両眼が深く青く揺らめいて見開かれた。飲んだ雫が体を巡り、人の外観を形作る表が水のように揺らめいて境界をなくした。幼き者が皆そうであるように、あたかも何にでもなれるかのごとく、初めから形の決まりなどなかったかのように大きく広がり、太宗の上背など容易く越した。幻影に近きそれは、空から降り落ちてきた竜の首によく似ていた。
異なるは、胴と首繋がるそのものは瀑布の如し。
光の射す間から降り注いでいた、まばらであった雨雫が呼応するようにうねり、雲の間から光の道を満たして遡る。落ちるはずの雨が空を登り、河の流れのように天地を繋いだ。
天泣けば竜の抜け穴が空を開け、竜姿現すが帝の道理だ。
「どこまで入ることが出来る?」
太宗が問えば、耳には聞こえぬ声が頭に響いた。
『長安の入り口が限界ですね』
不思議とその声は夏瀾そのものだった。
目に映る情報と頭に入ってくる情報が、遠すぎて繋がらない。人は、目の前で人知を越えられると何も考えられなくなるものなのだと、三蔵は口を開けたまま呆けた。
木の高さほどある渦巻く水流が三蔵に向かったかと思うと、少年の姿の時ですらしなかった俗な舌打ちがこれみよがしに響いた。
『ちっ、本当にお前は凡愚そのものだな』
夏瀾の声で吐き捨てる竜のごとき河の化身が、そのまま大きく口を開いた。
「では、ゆこう。少し呑まれるが、大事ない」
太宗がにっこりと笑って説明にもならない説明を放った。
気付けば、三蔵は紫釉に抱きかかえられ、泰然がさらにその上から包むように二人を守ろうと動いたときには、瀑布の如く竜に呑まれ、皆その場から忽然と立ち消えていた。




