第三十五話 望まれぬ者。
「時間をおかずに使用した香を辿れば、同じ場所へと誘われることが出来るゆえ、泰然殿と参った次第だ」
同じ場所と行っても、時間が経つにつれ、多少の範囲と時間のずれが起こる。
「疑問があれば述べよ」
許可を与えられ、紫釉は口を開いた。
「なぜ貴方様までもこちらへいらっしゃったのでしょう」
「己の行動の責任を取らせる為だ。いつまでも人間気取りでいてもらっては困るからな」
「?」
太宗がそう言った瞬間、紫釉にとっては知らぬ少年の声が聞こえた。
「太宗! 太宗、どこだ! どこにいる!」
皇帝を呼び捨てて叫ぶ声に、紫釉も泰然もぎょっとした。三蔵は、その声に聞き覚えがあることにぎょっとした。
「夏瀾くんの、声?」
太宗の方を見やれば、よく分かったなと悪戯が成功した子供のように笑う。しかし、笑うだけで夏瀾の声に応える様子はとんとない。
「太宗っ!」
聞いているこちらが悲壮になってくるほど切羽詰まった声に、思わず三蔵が一歩踏み出し掛けるのとほぼ同時に、太宗がゆったりと口を開いた。
「――夏瀾」
たった一声、近くにいる者を呼ぶ程度の音声だった。
にも関わらず、太宗を探し求める夏瀾の声が止んだ。静まった山道の途中、ざかざかと方向を定めて分かりやすく近づいてくる音がする。一応の警戒を見せる紫釉たちとは対照的に、太宗はのんびりと構えたままだ。まるで何が近づいてきているか分かっているように。
草木を掻き分け、勢い余るように三蔵たちの前に飛び出てきたのは、予想通り夏瀾だった。この真夜中の山を探し回ったのだろう。肩で息をして、びっしょりと汗を掻き、服はすでに薄汚れていた。太宗を見つけ、泣きそうになったのをぐっと堪える表情は、十五の少年相応だった。
「ご苦労だった」
声を掛けられれば、夏瀾は強く太宗を睨み付けた。
「あなたはっ! 自分がどういう立場であるか分かっているのか!」
「お前より分かっている」
「なっ」
「自分がもう人の子であることをそろそろ自覚して受け入れろ、夏瀾」
「受け入れている!」
「ならば、私を前にして果たすべき責を分かっているな」
「……っつ!!」
月のある夜というのは驚くほど明るいものだが、ここまではっきりと顔を赤くして口元を引き結ぶ夏瀾の表情を目の当たりにしてしまうと、今だけ少しは雲に隠れてくれてもいいのにと思ってしまう。何の話をしているか全く分からないが、三蔵は、弟が叱られているところを盗み見ている気になって、何となく居たたまれず視線を地面に落とした。
「ぐずぐずするな。いつまでここに留まらせるつもりだ」
突き放すような太宗の言葉を皮切りに、夏瀾が何かを吹っ切るように顔を上げた。
そうして、そのまま大股で太宗の横を通り過ぎると、持っていた風呂敷包みを三蔵に向かって投げつけた。
「わっ、なに」
「私は望んでいない」
重さのない風呂敷包みに驚く三蔵に構うことなく、夏瀾が言い放つ。
「お前に救いを望んでいない」
ほとんど独白に近かった。誰にぶつけていいか分からない憤りを、三蔵へと叩き付けるように吐露する。
「私は、この世界を救うべきは太宗だと思っている」
夏瀾には分からなかった。
救いの形すら、神仏も人も身勝手に繕う。
それが救いか否かの判断は、与える側にはないというのに、いつも与える側が救済を判ずる。望んでいなければ救いにはならず、求めていなければ与えたことにはならない。なれば、望まぬ時にもたらされる救いほど軽視され、嫌悪されるものもないだろう。いらぬものを与えられて喜ぶ者などいないのだから。
夏瀾にとって玄奘三蔵がそうだった。
「お前を求めていなかった」
御仏が勝手に遣わしたのだ。勝手に我らには救えぬと見切りを付けた。
この世界を救うのは、この世界の人間であるべきだと夏瀾は強く思っていた。この世界に産まれ、足掻き苦しみ、それでも捨てること叶わずに生きて、そして生きてゆく者であるべきだ。夏瀾にとって太宗がその最たる人間だが、この世界の者であるなら誰しもが異なる世界から来た者よりも救済者たり得るはずである。
夏瀾は、三蔵を守るように立つ紫釉と泰然を睨むように見て、また視線を三蔵へと戻した。
「同じ世界で生きてすら、我らはこんなにも異なる道理を信じて生きている。見ている世界が違っている」
そこに異なる世界の理がないと言えようか。
「それなのに、何故、お前なのだ」
まるで裏切られた気分だった。
「太宗では駄目なのか。私たちに何が足らない」
自分たちが生きているところなのだ。唇を噛んで俯く夏瀾に、三蔵は何か答えなくてはいけないという思いに駆られ、投げつけられた風呂敷包みを抱きかかえたまま答えた。
「わ、わかんない」
こんな答えなら、答えなくてもよかったかもしれないと言葉を紡ぎながら思った。
「そんなの、わかんないよ」
自分でなくてもよかった。どうして呼ばれたのか。
夏瀾が三蔵に対して思うように、観世音菩薩に三蔵は同じ事を思った。
けれど、観世音菩薩は言った。あなたが玄奘三蔵であると。同時に『あなた』は『私』でなくてもよかったとも言っていた。
答えは初めから出ていた。
自分でなくてもよかった。そもそも定められてなんていなかった。
神仏は平等に選ばなかった。平等に人を愛し、与えただけだ。
三蔵は平等の中で与えられた。
救うことを。
それは、決して特別なものではなかった。
「では何故、お前はここにいる」
「天竺国に行けって言われたから」
「だたそれだけで?」
「それしか出来ることがなかった!」
そうしなければ、帰ることができない。
「……うぬぼれるな」
「な、なんでそうなるの?」
天竺国に行くことしか出来ないことが何故うぬぼれることになるのか三蔵には理解できなかったが、夏瀾からしてみたら、他には何も出来ない凡愚が、世界を救うことだけは出来ると言っているようなものだった。
「私は、だって、自分がいたとこに帰りたい」
帰りたいだけで、救ってやろうなどという気持ちも、それで世界を救っているのだという気持ちもひとつもなかった。ただ旅をしていた。最初の目的地の長安にすら辿り着けずにこんなことになっている。それでも、目指さないと帰ることも出来ないから進んでいるのだ。
「お前はっ!」
紫釉と泰然を押し退けて、夏瀾の手が三蔵へと伸びた。留められ、襟を掴もうとしていた指が空を切る。
「ここで、生きていきたいと思ってもいない!」
玄奘三蔵は、ここに何も求めていない。
望んでもいない。
そんなやつが、何故、この世界の救済者たり得るのか。
「それの、何がいけないの」
震えながら、三蔵は噛み付くように言い返した。
「それでも、天竺国に行くって言ってるじゃん!」
ここに三蔵が求めているものは何もない。
「それ以上を何で望まれなきゃいけないの」
けれど、彼女は旅を続ける。それがすなわち救いとなる。
救済者が異世界より招かれること。招かれた異世界の人間が救済者たること。
その意味を、隔たりを、無関係さを、夏瀾は理解した。それと同時にどうしようもなく矛盾した思いに胸の内を塞がれ、押し潰されるように項垂れた。
「どうして」
鮮烈な感情を宿した青い瞳から、透明な涙がぽたりとこぼれた。
どうしようもない思いを押し殺すように泣く夏瀾を見守っていた太宗は、彼を傍らに下がらせると三蔵たちに視線を寄越した。
「すまなかったな」
夏瀾とは対照的なほどに穏やかで落ち着いた声だった。
「その包みは、お前のものだ。私がずっと預かっていた」
「あ、もしかして」
「御仏が玄奘三蔵に授けようとしていた旅装束だ。開けてみるがいい」
「今ここで?」
「それ以外にいつどこで開けるのだ」
「もっと渡すタイミングが」
「すまなかったな」
悪びれもなく返された笑みは、有無を言わせないものがあった。
三蔵は夏瀾を気に掛けながらも、地面に包みを置いて、そっと開いていった。そこには袈裟と靴と九連の環で繋がれた腕輪があった。持ち上げてみると重さがほとんどなく、羽根のように軽い。月明かりに照らされているせいか、ほのかに輝いて見える。
「御手を」
「!」
いつの間にか片膝を付いて目の前にあった太宗が、三蔵の右手を取った。
「これは九環の腕輪だ。動く度に触れ合う音が、不浄を浄化し、瘴気を祓う。いついかなる時も身に付け、手放すことなきように」
通された腕輪は不思議と三蔵の手首に馴染んだ。重さなく、鳴る音はまるで穏やかな風の音のようだった。
「着替えるのが一番いいが、ここで着替えろとも言えぬしな」
言いながら、靴が足元に揃えられ、肩からふわりと掛けられた袈裟は羽のように軽い。
「氷蚕の繭から糸を繕り上げ天が紡いだ旅装束一式だ。水に入れても濡れず、火にくべても燃えず、そなたの身を守るだろう」
皇帝御自ら三蔵に傅き、装束を授けるその意味の重さに、紫釉も泰然も夏瀾も自然と頭を垂れた。
「山河跋渉せしそなたが長旅を畏れずあれば、自ずと道は拓かれよう」




