何を犠牲にしたとしても
ピンポーン、と玄関のインターフォンが鳴り、男はそこで手を止めパソコンを閉じた。
待ち人が来たようだ。
男はふわふわとした高揚感と笑い出しそうになる口元を抑えつつ、部屋を出た。
気分はとびきりハイで、この世には良いことしかないのではないかと錯覚しそうになるくらい楽しい。
が、少し緊張もしていたのだろうか、やたらと喉が渇く。
男は玄関の扉を開ける前に台所に寄った。
少し雛子を待たせるが、何、ほんの少しだ。問題はない。
喉の渇きを潤すため、冷蔵庫の前に立つ。
と、冷蔵庫に貼られた一枚の写真が目に入った。
男と、今、家の外にいる雛子が二人並んで笑っている写真だ。
確か初デートの時に取ったものだったはずだ。
スマートフォンで撮ったものだが、二人の記念だからといくつか撮ったうちのこの一枚だけ、雛子がプリントアウトして冷蔵庫に貼り付けたのだ。
男もこんなに満面の笑みで写っている自分が珍しく、また、雛子も飛びきり可愛く撮れていたので文句も言わずそのままにしておいていた。
冷蔵庫を開けようとしていた手が止まり、写真を取った。
写真には何の陰りもない幸福が写っていた。
自分にもこんなときがあったのだ、と改めて男は独り立ちすくむ。
失っものがなんだったのか。
今、感じている妙な高揚感とは違ったほのかな喜びがあったはずだ。
胸を締め付ける懐かしさに、写真を握る手に力が入る。
色褪せてしまった想いに失望し、相手との熱量の違いに嫌気がさし、彼女を殺すことまで考えた。
もう、この写真の頃の感情は本当に取り戻せないのだろうか。
いや、まだ、もう一つの選択が残っている。
男は写真をもとの貼っていた場所に戻し、冷蔵庫を開ける。
数週間前に漬けこんだマンドラゴラの若葉の瓶が棚に置いてあった。
マンドラゴラの根茎は悲鳴を上げ死へと誘うが、土から上の実や葉は媚薬になる。
効果のほどは分からない。
しかし、この若葉があの頃の感情を呼び戻してくれる可能性だってある。
男は瓶の蓋を開け、マンドラゴラの若葉を手に取り、迷わずそれを口に入れた。
塩辛い青菜の漬物の味が口に広がる。
媚薬のイメージとはほど遠いその味が可笑しくて、そんなよく分からない代物に縋っている自分が滑稽で、自然と口元がほころんだ。
充分に咀嚼し、飲み込み、腹の中に納める。
効き目はいかほどか。
どのくらいで効いてくるのか。
さっぱり分からない。
分からないが、書斎を出る前に感じていたふわふわとした妙な高揚感はいつの間にか消えていた。
代わりに胸を早鐘のように打つ、マグマのように熱い何かが湧き上がる。
さぁ、玄関の扉を開けよう。
失う物が何か確認しよう。
扉を開けて目に映った彼女に惚れ直し、疑似かもしれない愛が生まれるか。
はたまた、媚薬は効かずやはり彼女を殺す気になるのか。
どうなったとしても後悔はするまい。
こんな選択を植物に委ねてしまう人間に後悔は許されない。
もう一度ピンポーンとインターホンが鳴らされる。
男は扉に手をかけた。