勇者、駆ける
火を見つめて、数時間。獣の気配の代わりに聞こえてくるようになったものがある。
シェラが時折苦しそうな咳をするのだ。最初は数回だったものが、今、数えたのは十数回。
「シェラ……大丈夫か?」
さすがに心配になり、彼女に声をかける。しかし、返事はない。
「おい――」
彼女に触った途端、指先にひんやりした感触が伝わった。
触ったのが人肌であるというのに氷のように冷たい。良く見れば無数の汗が顔へと浮かんでいる。
「シェラ、おいっ!」
彼女はいくら問いかけても返事をしない。返ってくるのは苦しそうな咳だけだ。明らかに様子がおかしい。
「くそっ!」
自分の怪我や周りのことに捕らわれ過ぎて、彼女の症状の変化に気付かなかった自分に嫌気がさした。
だが、悔いている時間はない。
「シェラ。ちょっと我慢しろ。これを持ってるんだぞ」
ヴァロードは彼女へと傘を渡す。返事は無かったが何とか彼女は棒を支えている。
シェラの身体と自分の背中で傘を挟み、立ち上がる。
外は暗い。夜明けまではまだ時間があるし、雨もまだ収まっていない。
様々な危険性がヴァロードの足を止めようと頭に浮かんだ。
しかし、そんな思いを振り払うように彼は駆け出した。
「待っていろ。すぐに街に連れて行ってやる」
ぬかるむ道を蹴り、ヴァロードは街道を走る。
整備されていない道はすでに無数の水たまりを作り、最短距離での通行を阻害する。
吹き荒れる風と雨は五感を痺れさせる。しかし、ここで止まるわけにはいかない。
ヴァロードは走った。ただひたすら前へと。
「ヴァロードさん…………」
しばらく走った所で、耳の後ろから声がした。
「起きたか。大丈夫だ! すぐに医者に――」
「ごめんなさい…………また背中借りちゃいましたね――」
「気にするな。それより、気分は?」
「…………寒いです。でも、熱いんです」
おそらくは熱が彼女の身体を蝕んでいるのだろう。耳にかかる吐息は熱い。
「お願があります…………」
「何だ? どこか痛むか?」
「いえ…………私が死んだら、両親に賃金を……送ってやってください」
「馬鹿! 死ぬなんて言うなよ」
「ごめんなさい…………でも、この任務、死ぬ覚悟で来なかったので、準備が出来てなくて」
「大丈夫だ。死なないし、助ける」
励ますが、それでも彼女は弱気だ。
「部屋も――綺麗にしてくれば良かったな……」
「ああ、助かった後、いくらでも掃除したらいい」
「そうですね…………あの、ヴァロードさん」
「何だ?」
「ありがとうござい……ました」
ふと、冷たいものが頭を濡らした。上を見ると、空が見えた。
唯一持っていた雨具は後ろの方で風に吹かれている。
「おい、シェラ!」
彼女は意識を失っていた。衰弱具合は先ほどまでの比では無い。
これは急がないと本当に手遅れになってしまう。
「もう少しだ。耐えてくれよ!」
ヴァロードは振り返らず、走った。街まではもう十キロもないはずだ。
その証拠に以前見た事がある道が見えてきた。
走るヴァロードは一瞬、悪寒を感じた。何か嫌な予感がするのだ。
足を止め、横に続く山を見た。そこにあるのは伐採された木々。
山肌が見えるほど、ここでは森林を開拓が進んでいるらしい。
山に出来た空白は不気味に音を立てて揺れている。
「くそっ!」
ヴァロードは先ほど以上に速度をあげて駆け出す。嫌な予感は気のせいではない。
危険が迫っているのだ。
激しい轟音と共に視界の端に大きな波が入って来た。土石流だ。
名前の通り、土と岩の流れはすべてを飲み込もうと大口を開けて向かってくる。
あんな流れをまともに受けたら、いくら勇者であってもひとたまりもない。
ましてや人間の少女など、一飲みだろう。
ヴァロードは流れを横断しようと、懸命に駆けた。しかし、ここは流れの中腹。
向こうまで走り抜けるのには時間が足りなさすぎる。
――ダメだ。飲まれる。
脳裏に死の一文字が浮かんだ時、奇妙な事が起こったのだ。
もう土石流に飲み込まれていてもおかしくない程の時間が立っているというのに、土の河は自分の身体まで辿り着いていない。それどころか、進んでもいないのだ。
まるで流れが一瞬で凍りついたように、その場から動かない。
ヴァロードが流れを通り抜けた途端、流れが氾濫し、先ほどまでいた場所を飲み込んだ。
この勢いに飲まれていたら、死んでいたかもしれない。
「間一髪――間に合ったようね」
前方を見れば誰かが居た。靄に隠れた人物の正体は女性のようだ。
ローブを頭から羽織ってはいるが、長い髪と声で分かった。
「助かったぜ。ありがとう」
「どういたしまして」
言葉を交わした後、彼女は近づいてくる。それにしても彼女の顔は整っている。
これだけの術を使いこなしながら、これだけ美人なのだから、人間ではないのではないのだろうか、と疑うほどだ。
「――――いや、あんたは賢者か?」
「ええ。はじめまして。メリアと申しますわ。勇者ヴァロード」
「なぜ、俺の名を?」
「質問は少し待ってね」
彼女はシェラに近づくと、額へと手を当てた。
背中で何をされているのか分からないが、下手なことはしないだろう。
彼女は〝人間〟の賢者。すべての人間の味方であるから。
「酷い熱――」
「ああ、すまん。俺のせいだ」
「別に責めているわけではないわ。それに今なら十分間に合うわ」
メリアは目を瞑り、何かを呟き始める。おそらくは治療の呪術。
賢者レベルとなれば、その効果も想像を絶するのだろう。シェラの顔色は良くなっている気がする。
「さて、このぐらいでいいわ。雨も止んできたしね」
何という幸運だろう。
仕事を請け負ってから不幸続きだと思っていたが、やっと運気が戻ってきたようだ。
「さてと――そろそろ行って」
「ああ――。それより、あんた。何故ここに?」
「ただの通りすがりよ」
そんな筈はないと思うが、質問をしている時間も無いだろう。
応急処置はされたものの、背中の病人の現状は油断できない。
「とにかく。ありがとう。俺は行くぜ」
「ええ。それから、ひとつだけ」
「えっ?」
「気をつけなさい、ヴァロード」
「うん?」
「いえ、何でもないわ」
「ああ――」
それだけを言って、彼女は背中を向け歩きだしてしまった。
なんとも後味は悪かったが、引き止めることもできなかったのでヴァロードは走り出した。
夜明けもすぐに来る。街への障害もこれ以上ないだろう。