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突然の終わり

山田一郎、二十歳。


 どこにでもいる、ごく普通の大学生だった。


 成績は中の上くらい。


 運動は苦手ではないが、特別得意でもない。


 友人はいる。


 家族との仲も悪くない。


 恋人はいない。


 特別な才能もなければ、これといって大きな夢もない。


 朝起きて大学へ行き、講義を受ける。


 友人とくだらない話をして、帰りにコンビニへ寄る。


 家に帰れば母親の作った夕飯を食べ、風呂に入り、スマホを眺めながら眠る。


 そんな毎日。


 それが、俺の人生だった。


 ――不幸だったかと聞かれれば、そんなことはない。


 むしろ、幸せだったと思う。


 誕生日には家族が祝ってくれた。


 高校時代には馬鹿なことを一緒にやれる友人もいた。


 大学に入ってからも、くだらないことで笑い合える仲間ができた。


 大きな病気をしたこともない。


 食べるものにも困らない。


 雨の日には傘があり、寒い日には暖房がある。


 当たり前のように明日が来る。


 だから俺は、きっとこのまま生きていくのだと思っていた。


 就職して。


 そのうち誰かと結婚して。


 子供ができて。


 歳を取って。


 いつか死ぬ。


 そんな人生。


 それでいいと思っていた。


 ――いや。


 正確には。


 それでいいと思い込んでいた。


     ◆


 子供の頃、俺には夢があった。


 漫画家になりたかった。


 ノートの端から端まで、下手くそな絵を描いていた。


 授業中に先生に見つかって怒られたこともある。


 家に帰ってからも絵を描いた。


 自分で考えた物語を書いて、それを漫画にしようとした。


 当然、親には笑われた。


「一郎、漫画家なんて大変よ」


 母親にそう言われた。


 父親からも、


「好きなのはいい。でも仕事はちゃんと考えろよ」


 と言われた。


 別に反対されたわけじゃない。


 ただ、子供心にも分かった。


 ――漫画家なんて、簡単になれるものじゃない。


 だから俺は言った。


「うん。分かってる」


 それから、絵を描く時間は少しずつ減っていった。


 別に嫌いになったわけじゃない。


 ただ、


「もっと上手くなってから」


「時間ができたら」


「大学に入ってから」


そう思っているうちに、描かなくなった。


     ◆


 高校生になった頃には、別の夢があった。


 海外に行ってみたかった。


 テレビで見た街。


 写真で見た景色。


 自分の知らない場所に行って、自分の知らないものを見てみたかった。


 友人に話したこともある。


「大学入ったら海外旅行しようぜ」


「いいな、それ」


 そんな話をして笑った。


 けれど、実際に大学生になってみると、旅行には行かなかった。


 金がない。


 授業がある。


 バイトがある。


 そのうち行けばいい。


 夏休みに行こう。


 来年でもいい。


 ――そして、また行かなかった。


     ◆


 恋愛だってそうだった。


 高校時代、好きな女の子がいた。


 何度も告白しようと思った。


 でも、できなかった。


 振られたら気まずい。


 今の関係が壊れるのが怖い。


 そう考えているうちに卒業した。


 大学に入ってからも、何度か「いいな」と思う人はいた。


 けれど、結局何もしなかった。


 友人から、


「お前、好きなら告白すればいいじゃん」


 と言われたときも、


「いや、俺なんかが行っても無理だって」


 笑って誤魔化した。


 別に、それで泣くほど辛かったわけじゃない。


 眠れないほど苦しんだわけでもない。


 ただ――。


 今になって思えば。


 一度くらい、勇気を出してもよかったのかもしれない。


     ◆


 俺はいつも、何かを諦めるときに理由をつけていた。


 お金がないから。


 時間がないから。


 自分には無理だから。


 失敗したら恥ずかしいから。


 今じゃなくてもいいから。


 いつかやればいいから。


 そうやって、一つずつ後回しにしてきた。


 不思議なことに、それで困ったことはなかった。


 人生は普通に進んだ。


 学校を卒業して、大学に入った。


 友人もできた。


 家族も元気だった。


 毎日、笑うこともあった。


 だから俺は、自分が何かを失っているなんて考えたこともなかった。


 ――今日までは。


     ◆


 大学からの帰り道。


 俺はいつものように歩いていた。


 信号が青になった。


 周りの人たちと一緒に横断歩道を渡る。


 コンビニに寄って帰ろう。


 今日は新作のスイーツが出ていたはずだ。


 そんなことを考えていた。


 その瞬間。


 ――キキィィィィッ!


 耳をつんざくようなブレーキ音。


「え?」


 振り向いた。


 大型トラックが、こちらへ向かってきていた。


 身体が動かなかった。


 逃げなければ。


 そう思った。


 なのに、足が動かない。


 時間が、妙にゆっくり流れていく。


 トラックが迫ってくる。


 そして。


 俺は思った。


 ――死ぬ。


 不思議だった。


 怖いはずなのに。


 頭に浮かんだのは、死への恐怖だけじゃなかった。


 もっと別のものだった。


 漫画。


 海外旅行。


 告白。


 友人との約束。


 やってみたかった仕事。


 行ってみたかった場所。


 食べてみたかったもの。


 言いたかった言葉。


 謝りたかったこと。


 全部。


 全部、頭の中に浮かんできた。


 そして、ようやく気づいた。


 俺は――。


 何もしていなかった。


 やりたいと思ったことを、いつも「いつか」にしていた。


 その「いつか」が、いつまでも来ると思っていた。


 明日があると思っていた。


 来週があると思っていた。


 来年があると思っていた。


 だから。


 今日じゃなくていいと思っていた。


「……あ」


 声が漏れた。


 もっと。


 もっと早く気づけばよかった。


 俺の人生は、不幸じゃなかった。


 幸せだった。


 家族もいた。


 友人もいた。


 笑える毎日もあった。


 だからこそ――。


 もっと、自分のために生きてもよかったんじゃないか。


 失敗してもよかった。


 恥をかいてもよかった。


 誰かに笑われてもよかった。


 やってみて、駄目だったなら、それでよかった。


 なのに俺は。


 失敗する前から諦めていた。


 そして今。


 初めて、本当に欲しいと思った。


 ――もう一度だけ、やり直したい。


 今度は。


 我慢したくない。


 やりたいと思ったことを、やりたいと言いたい。


 会いたい人に会いたいと言いたい。


 行きたい場所へ行きたい。


 好きなものを好きだと言いたい。


 失敗してもいい。


 馬鹿にされてもいい。


 後悔するなら――。


 やらなかったことを後悔するより、やって失敗したことを後悔したい。


 そんなことを思った直後。


 世界が白く染まった。


 最後に見えたのは、俺に迫るトラックだった。


 そして。


 山田一郎の二十年の人生は、そこで終わった。

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