事案第三十一号「参りかた」(1)
大晦日の朝に、母さんは一枚の着物を出してきた。
それは、深みのある葡萄色。
銀糸で刺繍されているのは、菊の花だろうか。
派手さはないけれども、地味じゃない。まさしく、晴れ着というのに相応しいもの――なんだと思う。
帯は黄金色の矢絣。
髪飾りは、たぶん菊の意匠。華やかな紅に、紅白の枝垂れ飾りがあしらわれている。
「どうしたの? この着物」
「母さんが昔仕立ててもらったものよ一領くらい良い着物を持ってたっていいでしょっておばあちゃんが言っててそれで学生の頃は初詣に着ていたんだけど結婚してからたまーに虫干ししていたくらいで着る機会がなかったからあんたが着なさい」
「ええっ。わたしが?」
似合わないよ、とは言わなかった。
きっと母さんには似合っていたんだろう。それなら、わたしにだって合うはず。
「でも、着る機会なんて」
「着付けはしてあげるから覚えなさい今後の人生で着物を着る機会なんて浴衣まで含めたらたっぷりあるんだしあんたは胸がないから着物が似合う体型してるのよ母さんと一緒で」
そう言いながら、あれよあれよと服を脱がされて、晴れ着に袖を通させられていた。
「うーん。あんたブーツ持ってるでしょ初詣だと足下ぐっちょぐちょだからそれ履きなさいちょっと端折って裾短めにするから」
「え、なに、着方を教えてくれるだけじゃないの?」
「白瀬ちゃんと初詣行くんでしょせっかくあるんだから晴れ着を着なさい」
ええ。
そんなつもり、まったくなかったんだけど……。
◆
そんなつもりは本当にこれっぽっちも無かったんだけど、せっかくだからメッセージを送ってみる。
断られるなら断られるで、全然問題無いし。深夜に出歩くのを父さんが許可してくれるとは思えないし、おせちと年越しそばでのんびり過ごしたいし。
だけど。
『ねーちゃんが一緒だから良いって、かーちゃんが言ってる。イトコも一緒だから、デートって感じじゃないけどいいよね?』
……根回しが済んでしまっているようだ。
こんな状況まで調整してくれた。
そして気が付けば、父さんが車を出してくれるということになり、夕食後に着付けをされて、夜中の十一時に、朝日神社に降り立ってしまっている。
「どうしてこうなったの……」
道行に、いつものストールを重ねた防寒。晴れ着なんて見せる場面じゃないっていうのに。
どうせなら明るくて暖かいところで誉めてもらいたかった。
でも、そんなことを嘆いたって仕方がない。
雪が積もり始めた朝日神社の境内には、夏祭りほどじゃないにしても、出店がたくさん並んでいる。せめて食べよう。
白瀬先パイと合流するまでは、食べるんだ。
……とは言っても、お夕飯で年越しそばを食べたし、年末特番を見ながらおせち料理を突いていたので、そんなにおなかなんて空いていない。
配布されていた甘酒だけをもらって、なんとなく、末社に来てしまった。
夏祭りのあの日。
白瀬先パイと、ファーストキスをやり直した場所。
顔が熱い。きっと甘酒のせい。
口唇が熱を持つのは思い出したからなんかじゃ、決して、ない。
吐息する。
濃く白い吐息は、空中に溶けていく。
今年は、色々とあった気がする。
例えば、母さんと連絡を取るのが気楽になれたこと。
例えば、服装に気をつけるようになったこと。
ユリギノ女学院に入学したこと。
クラスで孤立したこと。
白瀬先パイの距離感のなさにドギマギしてしまったこと。
何年かぶりにピアノも弾いた。
りりちゃんと、友達になれたこと。
ファーストキスも経験した。
人前で、下着もさらしたっけ。
高校生になって、こんな人間になるだなんて。
女神様に神頼みをしていた中学三年生のわたしよ。全く想像なんかしていないでしょう? ――本当に、色々とあった。
コン、と。狐の鳴き声が聞こえた気がした。
ふと足下を見ると、いつだか出会った白い北狐だ。
「ふふっ。会いに来てくれたの?」
言葉を投げかけたって、返事があるわけがないんだけど。でもこの子は、何かをわたしに伝えたがっているように見える。
「ひょっとして、白瀬先パイが来たから教えてくれてる?」
だけどこの子は、首をふるふると振っている。いや、やっぱり意思疎通出来てるんじゃないだろうか。
ひとつ、試してみたい。
「そんなふうに、知らんふりを決めたってダメなんだよ。常彦さん」
『む、そうか』
……ん?
うん。そっか。
「意思疎通できちゃったね、木滝常彦神……」
『……はっ』
「そっかあ。やっぱり、神様だったんだねえ」
わたしのひとりごとのような言葉にも、白狐は気まずそうに目を逸らす。
少しだけ熱を奪われた甘酒で口唇を湿らせる。
「神様に、気軽な口調っていうのもよくないのかな。かしこみ、かしこみ……?」
『我に、そのような態度は不要』
「なんて呼べばいいのかな」
『常彦でも、神名であっても、よいが……お主、たじろがないのだな』
「ユリギノさんが、話しかけたらポプラを揺らして答えてくれるから。北狐がしゃべったって、おかしくないのかなと思っちゃって」
『ふん……同級生に敬語を使う割りに、我には本当に気安い口調であるな』
「ふふっ。やっぱり、動物に敬語を使うのって、なんだかおかしい気がしてしまうから」
神様相手に、って考えたら今すぐひれ伏さなければいけないんだろうけど。だけど、なんだか木滝常彦神は、許してくれそうな気がする。
大正時代に生きた、揺貴屯田兵村開拓のリーダー格の彼は。
『……して。郷土史の課題は順調なのか?』
「そんなところまで把握されてるんだね。正直なところ、順調じゃないよ」
『何をサボっているのだ』
「あとはまとめるだけ、なんで」
『ふん。そうか』
不機嫌そうに、満足そうに、白狐は言う。
「わざわざ話掛けてくれたのは、年末だから?」
『お主が、我が末社にいるからだろう。連れ合いはどうした』
「そういえばここ、常彦さんの末社でしたね。待ち合わせしてるんですよ、先パイたちとは」
『そうか……』
何事かを思い悩む風に、白狐は言い淀んだ。
言いたいことがあるなら、さっと話しちゃえばいいのに。
不敬か。不敬だな、きっと。
『……お主、番いにならんのか?』
「つがい……誰と?」
『お主の、良き人と』
「ああ、白瀬先パイとですか。……どうなんだろう」
甘酒を、ひとかたまりと言えるくらいの量、舌に乗せる。
どろっとした液体をころころと口の中で転がして、飲み込む。甘くて、熱くて、身体の芯に届くかのよう。
「もしも、女神様が見守っているのだとしたら――ああ、ユリギノさんが見守っているんだとしたら、わたしと白瀬先パイがどうにかなるってことは、ないんじゃないでしょうか」
『安定しているからか?』
白狐の疑問に、わたしは首を横に振る以外の選択肢を持ち合わせていない。
「わたしが望まないから」
白瀬先パイのことを好きな気持ちに偽りはない。
おそらくわたしの初恋でもある。
でも。だからと言って、共同正犯という関係に楔を打ち込むようなことは、別にしなくたっていいんじゃないかと思っている。
変わっていくならそれはそれでいいんだけど。
「むしろ、常彦さんがそこを気にするのって、どうしてなんでしょう。神様の立場から見れば、人間がペアになろうとなるまいと、大差ないように思えるんですけど」
白狐は、それ以上答えようとしない。
ぴょんと跳ねるようにして、末社の床下に潜り込んでしまったのだ。
「何を話そうとしたんだろうね」
きっと、わたしと木滝常彦神の会話は、女神様は聞いているんだろう。
だったら、想像を巡らせてほしい。
恋仲でなくたって、海を隔てたって、かつてこの地には。
魂の半身と呼び合えるほどの少女たちがいたことを。
「貴女達のようであればいいと、わたしは思うんですけどね……」
聞こえているかな。
揺貴蒔菜比売。おそらくは、その御霊には種生蒔菜と、マキナ・ジョーンズの想いがこもっているんだろう一柱。
「聞こえる? わたしの声が」
返事は、当然ない。




