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事案第十一号「プライバシー」(5)

 パンツを履かずにお風呂場から出てきた父さんに、母さんが「ただいま」よりも先にまくし立てたせいで、食卓につくのが遅くなった。

 夜の九時半を回って、野球中継はさようなら? をしている。歓喜に沸く選手達と、がっくりとうなだれる選手達。


『さいこーでーす!』

 ヒーローインタビューを受けている選手の大声に合わせて、父さんと母さんは、缶ビールを手に取った。

 かしゅっと良い音が鳴って、白い泡が指先を濡らす。


「ああぁ……二年ぶりの味」

 地鳴りのような声は、母さんからだ。

「東京じゃ、買えないんだろう? たくさん飲んでおきなよ」


 ふたりの会話を聞きながら、休ませた唐揚げを百八十度の油で二度揚げする。

 こうすることで、衣がかりっとなって、美味しいんだ。

「お待たせ。次々揚げていくから、気にせず食べ初めて」

「ありがとうなあ、一香。なあ、母さん。一香は僕の生活時間と合わないけど、休日とかはこうしてご飯を用意してくれるんだよ」

「そうみたいね。そこにわたしの本もあるしキッチンもちゃんと片付いてるしいろいろ苦労させちゃってるんでしょ」


 そうだよ。

「気にしないでよ。母さんが基礎を叩き込んでくれていたおかげで、お料理も困らないし、制服にアイロン掛けだってできるし」

「制服と言えば一香、あなたね、フクイ先パイをけしかけるのは反則じゃないの二十年も先輩のあのひとに怒られたらわたしなんか全面降伏しか手が無いんだから」

「おや、そういえばフクイモモノさんも、今回の企画で一緒なんだっけ」

「そうなのよ! 図書室ですっごく気が合いそうな子と出会えたからカフェテリアに連れて行ったら先パイが来て若い子を捕まえるんじゃないって怒られたんだから」

「白瀬先パイを捕まえた母さんが悪いの」


 わたしの口答えに、母さんは目を丸くした。

「あの子やっぱり貴女の知り合いだったのね」

 知らなかったんだ。

「ねえ、母さん。何を話したの?」

「そもそも一香チャン貴女どこにいたの図書室?」


 気付いてなかったんだったら、先パイの誘導が完璧だったっていうこと。

 気付いてほしかったていうのは、さすがにエゴがすぎるから。


 第一陣が揚がった。

 油を落ち着かせている間に次の準備をしていると、

「手際がいいわね」

 対面キッチンの向こう側から、母さんが覗き込んできた。

「面倒なことはしたくないから」

「あら。やっぱり母さんの子ねえ」

 本当にそう思ってる?


 ――なんて、野暮なことは聞かない。


「はい。熱々だから、ふーふーして食べるんだよ」

 お皿に盛ったもも肉一枚分を渡すと、母さんは「子ども扱いして」と苦笑する。

 果たして、どんな反応があるのか。

 気になりながらも、次のロットを揚げ始める。とはいえ、二度揚げだからさっとなんだけど。


 がり、という小気味の良い音が、ふたりから鳴る。

「ん、いいねえ。一香のザンギはいつも美味しい」

「ほんほあふいへほ……おいしいわねえ」


 よかった。

「モリモリ食べてよ。一キロ買ってきたんだから」

「おいおい、一香。そんなに食べられる人なんて、一香くらいじゃないのかい?」

「あらあなたそんなにほっそいのに未だにモリモリ食べてるの?」


 ふたりとも、普段のわたしの食事を見てないもんね。

「そんなことないよ」


 それからは。

 夫婦水入らずを邪魔しないよう、淡々と唐揚げを揚げ続けて、できあがる都度テーブルに運ぶ。

 中年ふたりに、味の濃い唐揚げ一キロ分はさすがに多いみたいだけど、あんなことを言っておきながらふたりで半分は食べてくれた。


 残ってる分は、冷凍しちゃえばいいわけだしね。

 ひととおり揚げ終えてから、まとめた髪を解いて食卓に着く。

「一香、何を飲むんだい? なんだい、そのベージュの飲み物」

「鴛鴦茶ね」

「そう。母さんのレシピ」


 缶コーヒーとペットボトルの紅茶を混ぜて、コーヒーフレッシュを入れるだけのお手軽パチモンドリンク。

 母さんの奇抜なレシピの中でも特に簡単で、簡単にカロリーを補給できるから気に入ってしまった一杯だ。


 この場合、油で揚げたニンニクショウガ醤油味には、合わない気がするけど。

「母さんのレシピで、これが一番好きなんだ」


 あ、なんか恥ずかしいことを言っちゃった気がする。

 ごまかしたくて、小さめのひとかけらを口に放り込んで。ざくざくの衣が、ほっぺの内側に突き刺さった。


 父さんはビールを三杯も飲むと、大分うつらうつらし始める。

 簡単に作ったサラダや、何度かおかわりを用意した唐揚げを平らげたお皿を片付けてから、まだ静かにビールを傾けている母さんの前に座る。


「いつも苦労掛けるわね」

 突然そんな殊勝なことを言われたものだから、ちょっと笑ってしまった。

「どうしたの? 今更じゃない」

「今更なんだけどもう四年になるじゃない」


 中学時代まるごと、母さんは東京を拠点にして活動をしている。

 関東のどこだかのローカル番組から始まって、レストランのプロデュースや、ゴールデン番組でのゲスト出演とかも。

 その傍らで、寒雁にいる間に始めたWebライターの仕事も続けてるんだから、忙しくないわけがない。


 今日だって。

 テレビのお仕事で来ただけなんだから。

 わたしのわがままが無かったら、家に寄ることもなかったかもしれない。


「母さんも大変なんでしょ」

 ちょっとつっけんどんな言い方になっちゃった。

 だけど、

「わたしが頑張って一香が良い学校に通えるなら無駄じゃないって思えるわ」


 ちょっとだけ、吐息が強くなった。

 それは、どっちのものだったのか。


 わたしだよ。


「ねえ、母さん。いつもありがとう。だけどね」


 言おうか言うまいかなんて、考えるまでもなかった。

「不自由なく、ユリギノに通わせてもらって、こんな生意気なこと言うの、腹が立つかもなんだけどね」


 吐息。


「愛情は、伝わってるよ。だけどね、お金を渡すのだけが、愛じゃないよ」

「一香――」

「もっと、構ってよ」


 母さんの前に、取り込んだ洗濯物を広げる。

 ハーフトップだとか、ソフトワイヤーだとか。

 最近知った言葉だ。


「先パイが教えてくれなかったら、わたし、こういうものがあるってことも知らなかった。中学生になって、初めてのブラなんて父さんが買ってきてくれたやつだよ? しかも、Mサイズ……大きすぎて、こっそり買い直しに行ったんだもん。だけど、高校生になったら大人用になるのかなってなんとなくのイメージで買いに行って、父さんと同じ失敗をしたんだ」


 母さんは表情をなくしている。


「髪のお手入れとか、炊事洗濯とか、たくさんのことを教えてくれたのは、間違いなく母さんの愛情なんだと思うの。だけどね、本当に今この瞬間で必要なことを、知ることができなかった……もっと、連絡したかったよ。サイズが合わないのを付けてるから脇が痛いとか乳首が擦れるとか、そんなの知らなかったもん」


 からんと、鴛鴦茶の氷が音を立てた。

 一口を飲む。

 甘ったるい液体が、喉に絡まりそう。


「どうして、わたしは母さんが戻ってくることだったり、テレビに映る日だったりを、父さん経由でしか知れないんだろう」

「…………」

 日中、あれだけ騒がしかった母さんが、黙り込んでしまった。


 責めたいわけじゃないのに。

 嫌な子だ、わたしは。


「……ねえ、母さん。今度、メールしてもいい?」

「もちろん」


 そこを、即答してくれるのは、なんだかうれしい。


「誕生日とか、お盆とか、クリスマスとか、イベントの時には帰ってきてね?」

「調整するわ。……でも、一香」


 母さんが、天井を仰ぎ見た。

 それから、にやりと笑う。

 なんで今の今で、笑えるんだろうと思った。


「クリスマスくらいは、エスの相手と一緒でいいのよ」


 ……ん?


 エス、って。

 大正のころの、女学校の、疑似姉妹だっけ?


 ……その相手、って。


「先パイはそんな相手じゃないよっ?」

 慌てて立ち上がる足が、椅子を蹴倒してしまって。


 その騒音で、父さんは

「地震だ!」

 寝ぼけた顔で、叫んだ。


◆


 夜が明けて、朝の六時。

 母さんは付き人さんのお迎えで、東京に帰っていった。


 父さんはその車で駅まで送ってもらうことになったらしくて、わたしはいつもどおりの静かな朝を迎える。


 昨晩の油の残り香が染みついたリビングを喚起して、髪もちょっとにおいが気になるのでいつもより多めにヘアミストをかけてみて、ソフトワイヤーのかわいい色のブラジャーを着けて、制服をピシッと着る。

 髪にオイルをまぶしてブラッシング。

「よし」

 いつもどおりのわたしを作って。


 どんな噂が広まっちゃうのか。覚悟を決めて、登校した。


 駅までの十五分。

 汽車に揺られて五駅。

 朝日駅でバスに乗り換えて、二十分。


 ポプラ並木の学舎。

 入り口の、お社。


「ユリギノさん。わたし、生意気なことを、言っちゃいました」

 ぶつけたってどうしようもないのに。

 わたしは、まだまだ未熟だから。


「品行方正に生きて、ちょっとでも成長するので、許してください」


 ざわ、とポプラの枝葉が揺れた。


 いつも思う。返事をくれているみたいだって。


「よし」

 気合いを入れる。

 校舎にはまばらながらも、生徒達が入って行っている。

 その中に紛れるように、わたしも歩みを進めた。


/◆◆◆


 鎮守の森。

 その小さなお社はユリギノ女学院の側にあり、時折神に縋りたい生徒が訪れる。


 親しみを込めてユリギノさんと呼ばれる女神は、ふうむと唸る。


「昨夜のことは、観測範囲外じゃが……」


 寂しげに、ひとり歩く少女。

 校舎の二階、その姿を見つけて駆け出すウルフヘア。


「余に出来ることは、あまりないが……変な噂が流れぬように、風に流すことくらいはしてみようかの」


 吐息混じりに、ふたりの少女を見比べて、その手にはペンとメモ帳。


   隠したいことの共有は、共犯への近道。


「ふむ。報告書を認めるとしようかの」


 小豆色のロングスカートを翻した女神は、登校する生徒達の中に紛れて消えていった。


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