事案第1号「パーソナルスペース」(1)
必死な乙女の神頼みは、極上の甘露である。
小柄なロングヘアの一年生と、その少女に話しかけるショートカットに眼鏡の二年生。
一年生は、ポーカーフェイスで応対しておるが、
――先パイ、近いですっ!
心は叫んでおった。
だのに、反応すること自体があやまちなんだと言わんばかりの涼しい顔。
そして、その戸惑いを見抜いておるのか、パーソナルスペースを侵害する二年生。
その子は、なかなか手強いようだと、アドバイスを送ってやりたい。もちろん、より愛い方に。
頼られた女神としては、より必死なほうに肩入れしたくなるってものよ。
もちろん、つぶさに記録させてもらおうぞ。余は、神界に報告する義務があるからの。
さあ、見せてもらおうぞ。必死な乙女は、一体どっちなのか。
必死な乙女の神頼みは、極上の甘露であるからの。
/◆◆◆
反響した調子外れのトランペットが、静寂を形作る。
開け放った窓の外、ポプラ並木を揺らした風の音が、静寂を彩る。
図書室。
静寂に包まれるべきその空間は、わたしが愛する、インクと古い紙の香りの聖域。
心地よい世界で、ページを手繰る。
柔らかな紙の音が、耳に心地よい。
本はすごい。英傑達の人生を追体験させてくれるんだから。吉川先生ありがとう。
……なんて思っていると、インクと紙のにおいに、シトラスが混ざった。
「よっ」
ページから、顔を上げる。やっぱりそこには、図書委員のバッヂを着けた先パイがいた。
「白瀬先パイ」
「綾街は今日も小説かい?」
気さくに話しかけてくる、赤み掛かったレンズの奥。淡い瞳が、わたしの手元をのぞき込んでくる。
「新刊の棚から、お借りしています」
「ふうん。新刊なんて入ってた?」
「昔の本です。誰かが整理せずに、置いたんじゃないでしょうか」
図書委員のくせに、先パイは不真面目だ。
わたしがいるときは、こうしてカウンターを越えて、やってくるんだから。
「わたしに構ってないで、図書委員の仕事でもしていてください」
「どんな本があったって、私の仕事に違いは出ないからね。見てよ、ほら」
周囲を見渡す。
確かに、わたし以外に利用者は、ひとりしかいなかった。
よくお見かけする二年生の先輩。
白瀬先パイと、時折言葉を交わす姿を、お見かけしたことがある。
「利用者の方がいます。わたしたちがこうしてお話するのも、ご迷惑じゃないですか?」
「あいつは気にするタイプじゃないよ」
そう言って先パイは、髪を掻き上げる。
さらさらと前髪がレンズの上に舞い降りてくるのに見惚れてしまいかけて――
パチパチとキーボードを打つ音が一瞬だけ止まって、また始まる。
その音に、我に返る。ご迷惑だったかな。
「確かに我関せず、ですね」
声のトーンを落として、先パイの耳に唇を寄せる。爽やかさの奥に、苦みのある香り。
心臓が忙しくなる。
「でしょ? だからさ、綾街みたいな真面目ちゃんがいなかったら、昼寝でもしたんだけどね?」
「あら、わたし、ご迷惑ですか?」
「んーん。ただ、構ってほしくなっちゃうなあ」
そう言いながら隣の席に座って、頬杖をつく先パイ。
レンズの向こうの淡い瞳が、こちらを射抜いて来る。
「もうっ。お客さんがいなくたって、図書委員はすることがあるんじゃないですか? お掃除とか、整頓とか」
「真面目な後輩の邪魔をする、とか?」
そう言いながら、先パイはわたしの椅子にお尻をねじ込んできた。
わたしの肩を押しやって、強引にふたり掛けにしてくる。
ふわっと。
先パイの香りが濃くなった。ゆずみたいな甘い、爽やかな香り。
――先パイ、近いですっ!
苦情は言えない。
いやなら逃げればいいのに、逃げずにいるから。
苦情を言えば、先パイはここぞとばかりに踏み込んでくる。
「……見えませんって」
だから、頭をぐいっと押し退ける。
あくまでも、わたしは本を読みたいの。お酒が冷める前に敵将を討てるかを、味わいたいの。
でも。さらっとしたウルフカットの手触り。
スカート越しの、太股の熱。
振り返った先パイの、レンズ越しの笑み。
「へへっ」
いたずらっこの顔で笑う先パイ。
無視する。本はわたしを待ち続けてくれてるんだから。
「難しそうなの読んじゃって。これ、借りていくの?」
「ええ、時間が掛かりそうです」
「教室でも読むんでしょ?」
頷きを返すと、先パイはこちらに体重を預けてきて、
「邪魔ですよ」
どうしてこんなに、先パイは良いにおいを振りまくんだろう。
わたしにマーキングでもしてるのか。ほんとにもう、落ち着かなくなる。
「嫌なら席を立てばいいよ」
「嫌じゃ、ないですけど……」
教室で、誰かと話すこともあんまりないから。
こうしてお話しするのは、ちょっと楽しいから。
それにしたって、パーソナルスペースって言葉を、先パイは知らないのでは?
「くっつかれると、読みにくいんです」
ターン。と、強めにプラスチックを叩く音。
キーボードだ。
ふたり、顔を見合わせる。眉尻が下がった先パイ。
すっと目が細められた。
「綾街。図書室ではお静かに」
騒がしくさせてる張本人が、半眼で注意してきたから。
しばらく無視することにした。
ハイソックス。
ふたり分の生地を越えて、絡まろうとしてくる脚。
先パイの熱が、伝わってきて。
落ち着かない……。
◇
ユリギノ女学院。
ポプラ並木に囲まれた校舎と、傍らにひっそり祀られるお社。
大正時代の女学校から流れを汲む進学校には、学院生を見つめる女神様がいるらしい。
それは、ユリギノさんと呼ばれる女神様。
お社には、正式名も書かれているけど、学院生も、地域の人も、親しみを込めて呼んでいる。
だからわたしは、少なくとも週に一度は、ユリギノさんに手を合わせる。
「ユリギノさん。一年特進コース、綾街一香です」
ポプラの枝が、さららと音を立てた。
まるで、返事をしていただいているみたい。
「今日も、先パイが騒々しかったです。でもそれが嬉しくて、調子に乗ってしまいました。これからは品行方正に務めます……」
頭を下げると、ポプラの枝がざわめいた。
遅れて、わたしの髪が、小豆色のロングスカートが、揺れる。
「どんなバチが下されるんでしょうか。でも、頑張っていい大学に行きたいので、そのバチを教訓に、生かします」
今度は、風は吹かない。かわりに、白い綿毛が舞った。
そろそろ六月を迎える。
ポプラの綿毛が、市内の道路を埋め尽くす時期。
ユリギノさんも街を賑やかにするのが好きなのかもしれないと思うと、ちょっと愛着がわく。
「お待たせ」
景色を眺めていると、先パイが小走りにやってきた。
上気した頬――に見えたのは、やっぱりレンズの色が、頬に乗っているから。
「待ってませんよ。一緒に帰るんでしたっけ?」
「約束はしてない」
胸を張る先パイに背を向けて歩く。
「あぁん待ってよ。駅まで一緒でしょ?」
そう言って肘がぶつかる距離で、先パイに並ばれた。
「わたしにばっかり構って、先パイ、友達はいないんですか?」
自分のことは棚に上げて訊いてみた。
先パイが人望まみれなのは知ってる。
移動教室での軽い足取り。
短距離走でゴールラインを駆け抜けてのハイタッチ。
図書委員同士の軽妙な掛け合い。
呼ばれて振り向くスカートの膨らみ。
全部じゃないと思うけど、見ているから、知ってる。
「駅までのバスで、仲のいい後輩と一緒するのって、友達百人いてもやるでしょ」
「わたしって、先パイから見て、仲のいい後輩なんですか?」
先パイは不思議そうに首を傾げて、見下ろしてきた。
レンズ越しに赤く染まる頬。
さっと、風が吹き抜けていく。
「守りが堅い子は、攻め甲斐があるね」
どうやら、ゲーム感覚のようだから、わたしも聞きかじった言葉で応戦することにした。
「空城の計で出迎えますね」
「どういう意味?」
「さあ。ご存知ではないですか」
「綾街もテキトー言うんだね」
先パイはからからと笑って、わたしを肩で押す。
バス停に着くと、ベンチに座る。
当たり前にくっついて来る先パイ。
「綾街、知ってる? 鎮守の社のポプラが寿命を迎えたら、このベンチみたいに加工されてるんだって」
「ええ、入学説明会かなにかで、聞いた気がしますね。卒業植樹、でしたっけ」
入学のしおりに書かれていたのを思い出す。
あれは面白い読み物だった。薄くて、必要事項しか書かれていないのに、女学院周辺――揺貴地区のことが色々とわかるんだから。
「母が、OGなんです。ユリギノの」
「へえー! いいね、親子二代でユリギノさんのお世話になるの」
「母は家政科でしたけどね」
あ、と思った。
遅かった。
「そうなんだ」
先パイが興味を示した。いけない。
このままだと、気を使わせちゃう。
「バス、そろそろでしょうか」
話を逸らしてみた。
「ん、あとちょっとだよ」
「明日は雨でしょうか」
「湿った空気の匂いがするもんね」
うまくごまかせた。
だから、先パイの言葉に乗っかって、大きく息を吸う。
湿った土と、草と、先パイの制汗剤。
「良い匂いです」
「あ、わかる。いいよね」
いいのは、貴女の匂いですよ。先パイ。
……なんて言わないけどね。
ふと。
ポプラ並木がざわめいた。
「風、強いねえ」
「すみません、髪がお邪魔してますよね」
「いいよ。綾街の髪、良い匂いしてるし」
な、なんてことを言うんだ!
「ちゃんとケア、してますからっ」
……本当に。もう。
良い匂いなのは、貴女ですって。
言ったらどうなるんだろう?
面白い、続きが気になる! と思っていただけたら、ブックマークや評価をいただけると、大きな励みになります!




