アッフリット
朝、玄関のポストを確認して郵便がないか調べる。
それが弟子である自分の毎朝の日課だ。
自分が師事している人物の名はヨハンナ・クリュス。
若くして音楽界で人気を博す才媛。
演奏だけでなく作詞や作曲もこなし、近々宮廷音楽家に選ばれるのではないかとも噂されている。
ヴァイオリン奏者である自分と先生の出会いは数年前。彼女が我が家に招かれた事がきっかけだ。
勉強の一環として当時名が売れ始めていた先生を父が呼び寄せていたのだ。
自分が演奏を終えると、彼女はうっすらと目を細め、
「貴方の演奏は色鮮やかで綺麗。きっと優れたヴァイオリニストになれるわ」
意味が分からなかった自分に対し、私は音が色として見えるのだと笑った。
その柔らかで美しい笑みは今も鮮明に記憶に残っている。
それから半ば押しかける形で弟子になって今に至る。
ポストに入っていた手紙は三通。
差出人を確認すると一通目は先生の友人から。二通目は音楽院から。
そして三通目は、
「……ちっ」
自然と口元が歪むのを自覚する。
手紙の紙質は悪いし、字も汚い。差出人を見るまでもなく何者からの手紙か分かった。
その場で破り捨てたい衝動に駆られたが、流石にそれはやりすぎだ。
気持ちを抑え、書斎で作詞に勤しんでいる先生の元に手紙を届ける。
「クリュス先生、お手紙です」
「はい。いつもありがとう」
朗らかな顔で手紙を受け取った先生は僅かに眉を動かし、一番下になっていた三通目の手紙を手にとって残りを机に置く。
封を切って手紙を一読した後、机の引き出しを開けて貨幣を数えだしたので、
「先生、もうやめましょうよ」
師とはいえ他人の家庭の事情に干渉すべきではないと思いながらも、思わず口を挟んでいた。
先程の行動で手紙の内容に確証が持てた。金の催促だ。しかも実の親からの。
余談になるが、定期的に演奏会を聞きに来るような上流階級の人間は噂好きだ。
音楽家は音楽の実力だけを評価するれば十分なのに関係ない部分も暴こうとする。
たとえば生い立ちはその最たるものだろう。
そんな中でも関係者の間では先生の境遇は有名だった。
たとえば先生が貧しい村に生まれという事、口減らしの為に捨てられたが、ある音楽家に見出された事。
これらの不憫な境遇が貴族や資産家の優越感を刺激し、よく話題に上ったからだ。
だから自分も先生の過去は知っていたが、彼女の親が金を集っている事を知ったのは弟子になってからだ。
そして捨てた子供に金をせびる浅ましさに激しい怒りを覚えた。
「子供を捨てるような屑にお金なんか……」
「フランツィスクス・エクサヴァー」
「……っ」
久しく聞かなかったフルネームを呼ばれ、体が強張った。
声には怒りと拒絶が含まれていたし、表情はそれ以上に雄弁だった。
先生の厳しい視線に、自分は目を逸らしてしまう。
「でも、その、都合が良すぎるというか………」
「……あの人達はもう十分に報いを受けてるから」
「え?」
「あなたみたいな人の非難に晒されてるし、他にも……そうね。半年前の事を覚えてる?」
具体的な単語はなかったが、思い当たる出来事があった。
ある都市に公演に行った際、先生の故郷が近かった事と休閑期という事で両親を招待したのだ(自分はその時にも反対したが)
だが、みすぼらしく一目で貧乏だと分かる格好の先生の両親は周囲の興味を引いた。
そして一人の貴婦人がこれ見よがしに金貨を落とし、「拾った者にあげる」と言った。先生が止めるより早く、両親はおずおずと拾い、惨めだと嘲笑の的になった。
「けれど……」
それでも納得出来なかった。
結局捨てた事には変わりないのだから。
そんな感情が顔に出たのか、先生は仕方ないと苦笑した。
「私が生まれた辺りは農業には適さない痩せた土地でね。誰もが貧しい生活を送っていたの。身売りなんて日常茶飯事。……むしろ、負い目を感じていると言ったらあなたは怒るかもしれないわね」
「……感じているんですか?」
「自分だけあの貧困から抜け出せた事に心苦しさを覚えているのは事実なの」
「……今の地位は先生が才能で勝ち取ったものです」
「才能があっても環境に恵まれずに埋もれる人は大勢いる。そんな中で私は拾い上げてもらった」
そこまで言うと先生は一度言葉を切って溜め息を漏らした。
それがあまりに疲れた様子だったから少し心配になる。
「親だから悪く思えないという面もあるのかもしれない。でもね、これは私自身の為でもあるの。罪悪感をなくす為にお金を送る、そういうね」
「……」
それはあまりに歪な関係だ。
釈然としないものを感じるが、先生の口調には反論は受け取らないという意思を感じ、自分はやむなく書斎から退室した。
リクエストがあった話。
ただ、その人の要望通りではないかもしれないですね。