第100話:そ、そんなの聞いていませんでしたわ!
朝食を終えたあと、麗奈は書庫へ向かいました。
昨日、机の上へ置いた紙には、屋敷で暮らす者たちの名前が並んでいます。
『一ノ瀬麗奈』
『日並小春』
そして、その下には――
『橘』
とだけ書かれていました。
さらに紙の端には、麗奈が勝手に考えた名前の候補が並んでいます。
『凛』
『百合子』
『静香』
『美咲』
『綾乃』
麗奈は、その中の一つを指先でなぞりました。
「……やはり、綾乃という顔ですわよね」
清楚な私服姿にも合っています。
落ち着いた声にも、整った顔立ちにも合っています。
昨日から何度考えても、橘綾乃という名前が妙にしっくりきました。
しかし、勝手に決めるわけにはいきません。
「今日は、きちんと本人へ確認しますの」
麗奈は紙を持ち上げ、書庫を出ました。
居間へ向かうと、橘はテーブルの上を片づけていました。
小春は少し離れた場所で、洗濯物を畳んでいます。
「橘」
「はい」
橘が振り返りました。
麗奈は、改めてその顔を見つめます。
やはり綾乃です。
もう綾乃にしか見えません。
「どうされました?」
「いえ。少し確認したいことがありますの」
「何でしょうか」
麗奈は紙を背中へ隠しました。
大量の候補を見られる必要はありません。
「そういえば、あなたの下のお名前は何ですの?」
「橘です」
「…………」
麗奈は瞬きをしました。
「もう一度、お願いしますわ」
「橘です」
「それは名字でしょう?」
「いいえ。下の名前です」
麗奈はしばらく橘の顔を見つめました。
「……綾乃ではありませんの?」
「違います」
「違いますの!?」
麗奈の声が居間へ響きました。
小春が洗濯物を畳む手を止め、こちらを見ます。
「では、静香ですの?」
「違います」
「凛?」
「違います」
「美咲?」
「違います」
「なぜ候補がそんなにあるんですか?」
小春が尋ねました。
「こちらの話ですの!」
麗奈は紙をさらに背中へ隠しました。
橘は少し不思議そうに麗奈を見ています。
「橘という名字に合う下のお名前を考えていたのですけれど……」
「橘は名字ではありません」
「それは、いま聞きましたわ!」
麗奈は混乱したまま、橘を指差しました。
「では、名字は何ですの?」
「日並です」
「……日並?」
聞き覚えのある名字でした。
麗奈はゆっくりと小春へ顔を向けます。
小春は何も言わず、畳みかけの洗濯物を膝の上へ置いていました。
「小春」
「はい」
「あなたも日並でしたわね?」
「そうですよ」
麗奈は橘を見ました。
次に、小春を見ます。
もう一度、橘を見ました。
「……偶然ですの?」
二人は顔を見合わせました。
その自然な仕草を見た瞬間、麗奈の頭の中へ、これまでの光景が次々と浮かびました。
台所で、橘が小春の頬へ触れていたこと。
二人きりだと思って、楽しそうに話していたこと。
何も言わなくても、互いの動きを分かっていたこと。
同じ質問へ、同時に答えていたこと。
長い付き合いだと言っていたこと。
麗奈は顔を赤くしながら、恐る恐る尋ねました。
「まさかとは思いますけれど……お二人は……」
「姉妹です」
「姉妹です」
二人の声が、ぴたりと重なりました。
「…………」
麗奈は動かなくなりました。
橘と小春が姉妹。
橘は名字ではなく、下の名前。
本名は日並橘。
そして小春は、日並小春。
「本当の姉妹ですの?」
「はい」
「名字が同じだけではなく?」
「姉妹なので名字が同じなんですよ」
小春が答えました。
麗奈は再び二人を見比べます。
言われてみれば、どことなく似ている気もします。
落ち着いた雰囲気も、時々遠慮のないところも、何も言わなくても通じ合っているところも。
すべて、姉妹だからだったのです。
「では、あのとき台所で親しげにしていたのも……」
「姉妹だからです」
麗奈は再び二人を見比べました。
言われてみれば、どことなく似ている気もします。
何も言わなくても互いの動きが分かることも、昔からの話を共有していることも、二人の間だけにある遠慮のなさも。
すべて、姉妹だからだったのです。
「では、どちらがお姉様ですの?」
「橘です」
小春が答えました。
「橘がお姉様……」
「はい」
麗奈は橘を見ました。
次に、小春を見ました。
「なぜ、いままで教えてくれませんでしたの!?」
「特に聞かれませんでしたので」
「またそれですの!?」
麗奈の眉が跳ね上がりました。
すると橘は、ほんの少しだけ口元を緩めました。
「私は、採用書類にきちんと書きましたよ」
「……採用書類?」
「氏名欄に、日並橘と」
麗奈は黙りました。
橘を採用したとき、書類を受け取った覚えはあります。
何枚かめくり、最後に署名をした覚えもありました。
しかし、氏名欄を見た記憶はあやふやです。
橘は、まだわずかに笑っています。
「またご覧になっていなかったのですね」
「み、見ましたわ!」
「そうですか」
「その笑い方は信じていませんわね!?」
「お嬢様らしいと思いまして」
「どこがですの!?」
「大切なところをご覧にならず、あとから驚かれるところが」
「褒めていませんわよね!?」
「はい」
「橘まで即答しないでくださいまし!」
麗奈は背中へ隠していた紙を強く握りました。
昨日、一人で考えた大量の名前。
その中でも、橘に最も似合うと信じていた綾乃。
すべて、橘を名字だと思い込んでいたから生まれたものでした。
「綾乃ですらありませんでしたの……」
「誰ですか、綾乃って」
小春が尋ねました。
「誰でもありませんわ!」
「紙に書いてありません?」
「見ないでくださいまし!」
麗奈は慌てて紙を折り畳みました。
「お嬢様、もしかして橘の名前が橘綾乃だと思っていたんですか?」
「だって、綾乃という顔でしたの!」
「どんな顔ですか」
「清楚で綺麗な顔ですわ!」
言い切ってから、麗奈は橘本人が目の前にいることに気づきました。
橘は少しだけ目を細めています。
「ありがとうございます」
「いまはお礼を言うところではありませんの!」
小春はまだ笑っていました。
橘が女性だったことも。
小春が十六歳だったことも。
シロが雄だったことも。
ノアが雌だったことも。
そして、橘と小春が姉妹だったことも。
麗奈は二人を交互に見ました。
橘は、まだ少しだけ笑っています。
小春も、どこか楽しそうに麗奈を見ていました。
麗奈は両手を握り締め、大きく息を吸いました。
「姉妹なんて聞いてませんわ~~!!!」




