第七章「王女との出会い」
森の奥へ進むほどに、光は細くなっていった。
頭上を覆う枝葉が空を閉ざし、昼間であることを忘れさせるほどの暗さが広がる。
踏みしめる地面は湿り、空気は重く、肌にまとわりつくようだった。
「……かなり濃いですね」
リシアが小さく呟く。
瘴気はもはや“漂っている”というより、“満ちている”と言った方が正確だった。
普通の人間であれば、ここに立っているだけで体調を崩すだろう。
だが。
「まあ、なんとかなるでしょ」
カイトは変わらずの調子で歩いている。
その背中を追うたびに、わずかに空気が軽くなる。
リシアはその変化を感じ取りながらも、あえて何も言わなかった。
言葉にしてしまうと、この異常が現実として固定されてしまう気がしたからだ。
やがて。
木々の密度が、急に途切れた。
ぽっかりと空いた空間。
まるでそこだけが切り取られたかのような、不自然な空白だった。
中央には、黒ずんだ石のようなものがある。
脈打つように、微かに揺れている。
「……あれが」
リシアの声がかすれる。
間違いない。
瘴気の発生源。
空気が、重い。
いや、“圧”と呼ぶべきものが満ちている。
その場にいるだけで、息が詰まりそうになる。
だが。
「うわ、汚っ」
カイトは率直にそう言った。
その一言が、場の緊張を奇妙に歪める。
「近づくと危険です!」
リシアが慌てて制止しようとする。
だが、カイトはすでに歩みを進めていた。
「いや、これ放っとく方が嫌じゃないですか」
確かに見た目は最悪だった。
黒く、粘つくような質感。
どこか生き物のように蠢いている。
“汚れている”。
それがカイトの認識だった。
だから。
手を伸ばす。
触れる。
――その瞬間。
空気が、止まった。
黒い塊が、揺れる。
抵抗するように、膨張する。
だが次の瞬間には。
何もなかった。
完全な消失。
痕跡すら残らない。
ただ、そこに空間だけが残る。
静寂。
そして。
空気が、一気に軽くなる。
重さが消え、圧が抜け、森全体が息を吹き返したかのようだった。
「……終わりですね」
カイトは軽く手を払う。
その様子は、あまりにもあっさりしていた。
だが。
リシアは動けなかった。
目の前で起きたことが、理解の範囲を超えている。
(浄化ではない……)
(これは……存在そのものを)
思考が途中で止まる。
それ以上は、考えてはいけない気がした。
その時だった。
「――やはり、ここでしたか」
別の声が響く。
凛としていながら、どこか柔らかさを含んだ声。
二人が振り返る。
そこにいたのは、一人の女性だった。
年はカイトと同じか、少し上。
白を基調とした軽装の鎧に身を包み、その立ち姿には気品がある。
ただの旅人ではない。
一目で分かる。
「……あなたは」
リシアが目を見開く。
そしてすぐに、深く頭を下げた。
「アリア様」
その呼び名に、カイトは少しだけ首をかしげる。
(偉い人っぽいな)
それ以上の感想は特にない。
アリアと呼ばれた女性は、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
その視線は、まっすぐにカイトへ向けられていた。
「あなたが、噂の方ですね」
穏やかな口調。
だが、その奥には確かな興味があった。
「噂?」
カイトは素直に聞き返す。
アリアは小さく微笑む。
「ええ。瘴気を消し去る、謎の術者」
「いや、掃除ですけど」
即答だった。
その返答に、リシアは思わず目を伏せる。
アリアは一瞬だけ沈黙し、それから軽く息を吐いた。
「……なるほど」
理解したのか、していないのか。
その表情からは読み取れない。
だが少なくとも、否定はしなかった。
「私はこの国の王女、アリアと申します」
丁寧に名乗る。
カイトは軽く頷いた。
「カイトです」
それだけだった。
王女に対する態度としては、あまりにも軽い。
だがアリアは気にした様子もなく、話を続ける。
「今回の件、直接確認したくて参りました」
その視線が、先ほどまで黒い塊があった場所へ向けられる。
「……ですが、どうやら手遅れのようですね」
「いや、もう終わりましたよ」
カイトがあっさり言う。
アリアは再び彼を見る。
その目に、わずかな驚きが宿る。
「……そうですか」
短く呟く。
そして。
ほんの一瞬だけ、笑みを深めた。
「本当に、不思議な方ですね」
その言葉には、純粋な興味と。
そして、確かな確信が含まれていた。
この人物は。
“普通ではない”。
そしておそらく――。
この国の均衡を、大きく揺るがす存在であると。
一方でカイトは。
「これで帰れます?」
そんなことを考えていた。
面倒が終わったかどうか。
それが最優先事項である。
アリアは少しだけ目を細める。
その反応を見て、何かを決めたようだった。
「いいえ」
静かに言う。
「むしろ、ここからが本番です」
その言葉に、カイトは露骨に嫌そうな顔をした。
「えー……」
森の奥。
瘴気は消えたはずだった。
だが。
まだ何かが残っている。
そんな気配が、確かに存在していた。
そしてそれは。
“掃除”の対象としては――少しばかり大きすぎるものかもしれない。




