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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第十章 商人は死臭を嗅ぎ分ける

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フェネルの印

「戻りの半額を、払ってください」


最初に門へ戻ったのは、空樽の女だった。


荷台の上には空樽四つ、樽輪の緩みなし。粗布一束は端だけ湿り、木箱一つは底板に泥。黒紐は切れていない。成功と呼ぶには小さいが、失敗と書くほど崩れてもいなかった。


メイナが三枚の控えを並べる。商人控え・門控え・新台帳控え。時刻・荷・戻り確認・濡れの有無を入れる欄が、ひとつずつ埋まっていく。


「粗布は」


布荷の男がすぐに覆いをめくった。濃い灰色の端に水の跡がある。指で押しても、布目の奥までは入っていない。


「値は落ちるか」


「落ちない。今日売るならね」


男は荷札の端をもう一度見てから言った。


「戻り控えをもらう」


「半額も」


メイナが銅貨を数える。通行時に受けた半額と、戻り確認後に出す半額。二つに分けた約束は、紙の上だけでは終わらなかった。


若い商人は木箱を抱えたまま膝をつき、底板の泥を袖で拭こうとしてルシアに止められた。


「拭く前に見せなさい」


「汚れただけです」


「それを、汚れただけと書くために見せるの」


木箱の底には薄い板を噛ませた跡が残っていた。水桶置き場の石が沈んだところで、荷台が少し傾いたらしい。中身の木栓は乾いている。


「木栓、濡れなし」


メイナの筆が走る。


「箱底は泥。板噛ませ有効」


若い商人が小さく息を吐いた。


「怒られるだけで済みます」


「戻れる怒られ方です」


ルシアはそれ以上笑わなかった。


三人の商人が、それぞれ印の代わりを引き取る。空樽の女は古い釘を控えの横へ戻し、布荷の男は切った荷札の端を重ねた。若い商人は黒紐の結び目を置き直す。


「今度は、押してもいい」


空樽の女が言った。


「一走目の印です。正式な通行税の印ではありません」


ミリアが確認すると、女は肩をすくめる。


「そんな立派な印を、うちが押せるわけないだろう。戻った印だよ」


戻った印という言葉に、門前の商人たちの視線が紙へ落ちた。税ではなく命令でもない。荷が出て、戻って、約束通り半額が払われた印だった。


査察官は紙ではなく、商人の手を見ていた。


「出発時刻を掲示しなかったことも、記録します」


「お願いします」


ミリアが答える。


「理由は、襲撃防止ですか」


「荷を守るためです」


「同じことでは」


「襲撃があると断定していません。荷を守るために、知らせる相手を絞りました」


査察官の筆が止まる。言葉を選び直す間だけ、門の外の音が戻った。馬の息、樽の中で転がる小石、遠くの水桶を戻す兵の声。


「王都では」


査察官が紙の端を押さえた。


「フェネル商会が、この領の通行を握りに来ているという見方もあります」


ルシアの目が細くなる。


「ずいぶん儲からない握り方ですね」


「商人は、最初の赤字を払ってでも道を取ることがある」


「あります」


すぐに認めた。


「だから今日は私の荷を入れませんでした」


査察官はルシアを見た。


「では、次は」


ルシアが懐から封筒を出す。一走目の前に見せた小さな封筒で、薄い紙の端にはフェネル商会の丸印がある。


「開けます」


封を切る音は小さい。


中から出てきたのは、フェネル商会名義の通行試験願い/塩商・薬種商・縄商へ回す短い文面/損害見積もり用の白紙/戻り荷を受けるための小さな控えだった。


「二走目から、フェネル商会の名を置きます」


紙を見ていた商人たちの手が止まる。


「荷は塩小袋二つ、薬布一包、中縄見本一束。高すぎる荷ではありません。けれど戻らなければ困る荷です」


「商会として、ですか」


査察官が聞いた。


「商会として」


ルシアは紙を持ったまま、ミリアに向き直る。


「ただし無料ではありません。通行時半額、戻り確認時半額。損害は守る距離内だけ。古橋回りは対象外。三日後の税第一案には、フェネル商会として意見を出します」


「意見」


「高ければ通しません。安すぎれば守れません。どちらも商売にならない」


布荷の男が低く笑う。


「大商会が値切りに来た」


「違うよ」


空樽の女が釘を指で弾いた。


「値段を逃げられない場所に出しに来たんだ」


ルシアはその言葉には返さなかった。


メイナが新しい紙の上へ欄を作る。フェネル商会控え・門控え・新台帳控えだけでは足りない。塩商控え・薬種商控え・縄商控えも必要になる。


エルクが門外の道を見る。


「二走目は、今日の夕刻前に出す」


「続けるのか」


布荷の男が驚いた顔をした。


「水桶置き場の板を直す。木箱の底が泥を拾った場所だ。そこを見ずに明日へ回すと、朝には同じ場所で止まる」


「兵は足りるの」


空樽の女が聞く。


「見える兵は一人増やす。水桶置き場に一、荷台横に二。見えない兵の話はしない」


査察官の眉が少し動いた。


「また、配置を伏せると」


「はい」


ミリアが答える。


「王都への報告には、護衛責任範囲と戻り確認を書いてください。兵の伏せ方は、商人にも王都にも同じだけ伏せます」


同じだけ。


査察官はその言葉を紙に写した。


門の内側で、塩の小袋が二つ運ばれてくる。薬布の包みは軽いが、濡れれば値が落ちる。中縄見本は、南倉裏でまだ足りなかった太さに近い。


レインの手元に二走目の控えが置かれた。フェネル商会/塩小袋二/薬布一包/中縄見本一束。支払い日は通行時半額と戻り確認時半額。損をした時の相手は守る距離内の停止なら領、対象外なら商人。護衛が守る距離は門から水桶置き場、一里石までで戻り同じ。税が決まる日は三日後に第一案。


ルシアが丸印を押した。紙の上に小さな音が落ちる。その音を聞いてから、空樽の女が自分の印を押した。布荷の男も続く。若い商人は少し迷い、黒紐の結び目を紙の横へ置いたまま店の小印を取り出した。


査察官の筆が、そこだけ少し遅れる。フェネル商会が先ではない。戻った商人の印の後に、フェネル商会の印が来た。順番が、噂と違っている。


「出します」


エルクの声で兵が動いた。塩の小袋が荷台に乗り、薬布が布の下へ入り、中縄見本が端に縛られる。


ルシアは荷台に手を置き、短く言った。


「戻ったら、商会の回状を出します」


「戻らなければ」


査察官が聞く。


「その時は、戻らなかった理由を売ります」


荷車が門を出た。


フェネルの丸印を押した紙が、メイナの手元で乾いていく。まだ商いの血は細い。けれど、もう門の内側だけを流れてはいなかった。

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