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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第二十一章 勝ったあとに崩れるもの

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押印の名前

「これは王都軍需調達筋です」


ルシアは本館前の板を見ず、欠けた押印の写しだけを見て言った。


朝の光が紙の端へ落ちている。丸の欠け・内側の斜め線・外周に残った細い文字。昨日までは読めなかったものが、商人控えの写しと重なると急に形を持つ。ルシアの指は、迷わず外周の欠けた文字へ止まった。


「断定ですか」


「商人の断定ではありません。控えの照合です」


「同じですか」


「違います。商人は逃げ道を残します」


ガレスが鼻で笑った。


「いい言い方だ」


「逃げ道を残さない紙は商売ではなく命令です」


板を囲む兵の手が止まった。命令に見せる紙。怖い言葉を先に置き、車か槍を動かし、戻る口を詰まらせる紙。同じ折り目と補助印の断片が、押印の欠けへ寄っていく。


メイナが控えを一枚ずつ並べる。フェネル商会の古い写し・油壺の戻し値・布の引き取り停止・軍需品の搬入控え。どれも本物の命令ではない。けれど同じ名の端がある。


「ここです」


ルシアが紙を押さえた。


その名は、板の上で大きくは見えなかった。むしろ小さい。小さいからこそ、いくつもの紙の端に隠れていたのだろう。軍需調達の控えにある名。商人が直接逆らう名ではない。けれど荷を動かす時、値を止める時、紙の端に現れる名。


メイナの筆が押印名の欄で止まった。人物としてではなく押印の名として書く、と短く返す。まだ会っていない相手を、人として板へ置けば話が先に進みすぎる。いま必要なのは、紙の端に残った名だけだった。


板に書く。欠けた押印、王都軍需調達筋の控えと一致。押印名、ダルム・フォレイン。派手な線は引かない。赤くもしない。名を大きくすれば、答えと誤認される。今あるのは答えではなく、線の端だ。


線の端は、つかんだ瞬間に人を走らせる。走らせれば、相手より先にこちらの足が乱れる。だから名を置いた板の周りには、見張りではなく沈黙が必要だった。


エルクがその名を見た。


「王都の名か」


「王都で荷を動かす名です」


エルクの次の問いは、敵の名かどうかだった。まだそう書かない、と答える。今はこの名で誰を斬るかではなく、どの紙を封じるかを決める場所だ。


エルクの手が剣の柄へ行きかけ、止まった。自分で止めた。相棒の武は、ここでも剣を抜かない。


「分かった。名を見張る」


「人ではなく紙を」


「紙を見張る」


ルシアはもう一枚の写しを出した。薄い紙の端に、小さな受領印がある。押印というより、誰かが自分の控えに残した印だ。商人控えではない。軍務の控えとも少し違う。


「これは」


メイナが身を乗り出す。


「読みにくいです。けれど、ここ」


ルシアの指先が、紙の片隅へ触れた。


名前はそれだけだった。肩書きも所属もない。強い印でもない。ただ、見落とすには整いすぎた筆跡で、片隅に残っている。


ガレスの顔が一瞬だけ動いた。


「知っている名ですか」


「昔、北の戦で聞いたことがある。だが、ここで追う名じゃねえ」


「はい」


その名は板の中央へ置かない。大きく書けば、別の話が始まる。今は押印の名・誘引資材の荷・同じ折り目の紙をつなぐ場所だ。片隅の名は、片隅のまま封じる。


メイナが書くかどうかを目で聞いた。小さく書く、とだけ返す。今追う名ではない。


板の端に書く。片隅の受領印、オルラン名あり。追跡保留。封じて保存。


エルクが眉を寄せた。


「名が増えた」


「増えました」


「崩れるか」


「大きく扱えば崩れます」


「小さく扱えば」


「残せます」


名は刃より早く人を動かす。押印の名で怒りが動き、片隅の名で疑いが動く。どちらも今は早い。早く動いたものは、昨日まで何度も損になった。


ミリアが本館前へ来たのは昼前だった。南門の列をメイナに引き継がせ、短い時間だけ板の前に立つ。顔色は悪いが、目は落ちていない。


「王都の名ですか」


「押印の名です」


「王都へ出す紙に入れますか」


「今は入れません。領内封じの紙へ」


「隠すのですか」


「隠しません。出す順番を決めます」


ミリアは少しだけ目を閉じた。南門で民の列を受けた時と同じ顔だ。正しいかではなく、どれだけ嫌な順番を引き受けるかを考えている。


「分かりました。領主代理名で封じます」


「よろしいのですか」


「よくはありません」


ミリアが印を引き寄せた。


板の下へ新しい欄を作る。封じる紙、出す紙、まだ出さない紙。押印名は封じる紙へ。誘引資材の荷は封じる物へ。商人控えは写しを残し、原本はルシアへ戻す。片隅の名は封じる紙の端へ。


「原本を戻すのですか」


メイナが聞いた。


「ルシアさんの網を切らないためです」


ルシアが小さく頷く。


「商人の控えは、なくすと次が来ません」


証拠を抱え込めば安心する。だが抱え込んだせいで次の紙が来なくなれば、安心はすぐ損に変わる。残すものと戻すものは、戦後でも分けなければならない。


夕方、封じ紙が三つできた。


誘引資材の壺。


欠けた押印の写し。


片隅の受領印。


それぞれに見た者の名・封じた者の名・触っていない者の名を書く。触っていない者まで書くのは、後で触ったことにされないためだ。


「これで決まりですか」


メイナが聞いた。


「まだです」


「名が出たのに」


「名だけでは、つながりません」


「何が要りますか」


「荷・紙・押印。同じ板に置きます」


三つを同じ板へ置けば、偶然ではないものが別の形になる。だが、その言葉はまだ書かない。攻防の終わりに「もはや偶然ではない」と書いた。次の言葉は、もっと重い。


夜、ミリアの印で封じた紙箱が道倉奥へ移された。


エルクは箱の前に立った。


「人を見張るより面倒だな」


「紙は走りません」


「走らないものほど、遠くへ行く」


その言葉に、ガレスが低く笑った。


遠くへ行く紙を止めるには、ここで順番を間違えないことだ。押印の名は出た。片隅の名も残った。けれど答えは、まだ板に書かれていない。


明日、その三つを同じ板へ置く。


その時、勝ったあとに残ったものが、ただの残置物ではなくなる。


名を得た紙は、荷より軽いのに、誰よりも遠くへ届く。


だから本館前では、重い荷よりも軽い紙の方を先に封じた。


封じた順番そのものが、次に王都へ持っていく説明になる。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。

リアクションやブックマークも本当にありがたいです。


もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。

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