三つ目の荷
「触っていいものと、いけないものを先に分けろ」
ガレスの声は、北道の石塀裏でいつもより低かった。
傾いた大車は、昨日と同じ角度で止まっている。油壺の首には布が巻かれ、水袋は荷台の奥で膨らんだままだ。小台車は前輪を固い轍へ入れたまま、動けずにいる。問題は、その奥にある封じ紐の荷だった。
見張りは三歩離れて立っている。エルクはさらに外側、石塀の切れ目に立った。剣は抜いていない。近づこうとする兵の足を、視線だけで止めている。
「火は」
「置きません」
「水は」
「井戸水を近づけません。濡れ布だけ」
「人は」
「ガレスさん、倉番二、記録一。ほかは見張りです」
「俺は」
「外です。戻す前線のまま」
エルクは短く頷いた。聞き返さない。斬る場所ではないと分かっている顔だった。
メイナが小板を抱えている。書く場所は本館前ではなく、北道外の小板だ。見たものを先にここで止める。本館前の大板へ戻すのは、触ってよいものだけに決めてからだ。
ガレスが油壺の首を見た。
「油は普通だ。首の布も燃やすためとは限らん。漏れ止めにも見える」
「決めません」
「水袋は」
倉番が布越しに押す。水の音がする。濁った匂いはない。井戸へ戻せるかどうかはまだ決めないが、少なくとも今すぐ割るものではない。
残るのは、封じ紐の荷。
麻袋の外側には土がついている。土だけなら荷台の汚れで済む。だが袋の口に巻かれた紐は、荷造りのためではなく開けさせないための巻き方だった。二重に回し、結び目を奥へ入れている。急いで結んだものではない。
「切るか」
ガレスが聞いた。
「先に下へ紙を」
メイナが薄い紙を敷く。袋から落ちるものを拾うためだ。倉番の一人が息を止める。
「息は止めないでください」
「臭うんですか」
「まだ分かりません。止めて倒れる方が困ります」
ガレスが紐を切った。
袋の口が開いた瞬間、鼻が先に反応した。腐った肉の匂いだけではない。乾いた血が古い布に染みた匂い、獣の脂のような重さ、そこへ甘い草を潰したような匂いが混じっている。鼻が嫌がるのに、どこかで追いたくなる匂いだった。
倉番の一人が一歩下がる。
「下がっていい。走らないでください」
走れば匂いを運ぶ。袖に触れ、靴裏につき、息と一緒に本館前へ戻る。怖いものから離れる足ほど、後ろへ何かを連れて帰る。だから逃げる場所も、逃げない場所も先に決めなければならない。
「布は替えます」
メイナが小板へ書く。
「靴は」
「北道外で土を落とします。井戸には近づけない」
倉番は自分の足元を見た。そこまで考えていなかった顔だ。誰も責めない。戦いが終わったあとに見落とすものは、たいてい足元から始まる。
ガレスは袋の中を覗き、すぐに顔を上げなかった。
「何ですか」
メイナの声が小さい。
「肉片。血を吸わせた布。小袋が三つ。中は草か粉か、まだ分からん」
「魔物が寄る匂いですか」
「寄る。たぶん人より先に寄る」
その言葉を本館前の大板へすぐ戻してはいけない。魔物が寄る、とだけ書けば兵が火を持ってくる。火を持ってくれば匂いが上がるかもしれない。水をかければ流れるかもしれない。埋めれば場所を残す。どの処理にも損がある。
「封じます」
「何で」
「油壺ではなく、空の塩壺を使います。口を布で二重。外へは出さない」
「塩壺を潰すぞ」
「潰します」
ガレスが鼻を鳴らした。
「勝ったあとも損が出るな」
「出ます。けれど匂いを広げる損より小さい」
小板へ書く。三つ目の荷、肉片・血布・小袋三。魔物が寄る匂い。火を近づけない。水をかけない。塩壺封じ。見た者は五名。
「五名も書くのか」
倉番が聞いた。
「後で誰が見たか分からなくなる方が悪い」
「悪いことを見たみたいです」
「悪いものを見ました」
その答えで倉番の顔が少し白くなる。だが逃げなかった。逃げなかった者の名は、あとで守るためにも必要になる。
見た者を隠せば、その者は噂の中で増える。誰かが見た、誰かが触った、誰かが持ち帰った。そういう曖昧な言葉が出た時、紙に名があれば止められる。
エルクが外から声をかけた。
「開いたのか」
「はい」
「危ないか」
「近づけない方がいいものです」
「魔物か」
「魔物が寄る匂いです。まだそれだけです」
エルクは石塀の外側を見た。北道の奥は静かだ。静かな場所ほど、匂いが動いた時に分かりにくい。
「見張りを増やす」
「増やしすぎると人が寄ります」
「何人」
「外二、内一。交替は半刻。見張りの名も書きます」
「俺が外に立つ」
「エルク様が立つと兵が寄ります」
「なら切れ目の外だ。見えるが近寄れない場所」
それならいい。板へ戻す時は、エルクの位置も書く。戻す前線は、今度は近づけない前線になる。
メイナが塩壺を持ってきた。中は空だが、匂いが移ればもう塩には使えない。壺の口へ布を重ね、紐で巻く。ガレスが結び目を外へ出した。
「ほどく時に早い」
「ほどく予定がありますか」
「あると思って結ぶ。ないと思うと切るしかなくなる」
戦後の物は、捨てる時にも戻す時にも手順がいる。塩壺は封じた。だが封じたものは消えたわけではない。消えないものは紙に残す。
本館前へ戻す札を書く。
三つ目の荷、確認。肉片・血布・小袋三。塩壺封じ。火なし・水なし。見張り三。見た者五。
メイナが最後の言葉を迷う。
「魔物が寄る匂い、は入れますか」
「入れます。ただし大きく書かない」
「なぜ」
「大きく書けば、人が見る場所を間違えます」
小さく書かれた一行は、むしろ重かった。
魔物が寄る匂い。
昨日まで板にあった「もはや偶然ではない」という言葉が、もう一度近くなる。橋前・畑跡・石塀裏。同じ向きに動いた影。その後ろに、これがある。
けれど、まだ誰の手とは書かない。どこから来たとも書かない。今は封じる場所だ。
夕方、塩壺は道倉の内側へ移された。井戸から遠く、火から遠く、民の列からも遠い場所。見張りの板には、エルクの印がついた。
その夜、北道の奥で小さな鳴き声がした。
近づいてはいない。だが、完全に離れてもいない。
三つ目の荷は、封じてもなお、戦後の板を押していた。
封じた壺のそばに置いた札だけが、匂いを持たないまま次の朝まで残る。
その札を動かさないことも、見張りの仕事になった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。
リアクションやブックマークも本当にありがたいです。
もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。




