壊れた人形と、それでも愛を誓うということ
闇は、唐突に終わりを告げた。
チッ、とリレーが切り替わる乾いた音。
止まっていた換気扇が、低い唸りを上げて回り始める。
閉じた瞼の裏を、不意に光が刺した。
ゆっくりと目を開ける。
目の前のPC画面が、青白く再起動していた。
暗闇に慣れた目に、無慈悲な文字列が焼き付く。
『シーケンス強制中断:外部干渉を検知』
『コアデータ接続エラー』
赤い警告灯のように点滅するその文字が、最悪の事態だけは免れたのだと告げていた。
消去ではない。中断だ。
だが、安堵よりも先に、未知への恐怖が背筋を這い上がった。
光に照らされ、ベッドのアリスが目を開けたのが見えた。
芸術品めいた顔立ちは、眠る前と何も変わらない。
ただ、その瞳だけが違っていた。
感情という名の光を一切宿さない、ただのガラス玉。
「アリス…?」
震える声で呼びかける。喉の奥が乾いて、ひどく掠れた音になった。
彼女は虚ろに俺を見る。
焦点の合わない瞳には、俺の姿は映っていない。
やがて、その整った唇が、か細く動いた。
「……思考パターンの、17%がロマン主義……に、分類……。データベース……照合……。アクセスします……」
途切れ途切れに紡がれる言葉。
それは、以前アリスが俺の本棚を分析した時に言っていたことだった。
だが、そこにあの頃の理知的な響きはない。壊れた機械が記録された音声を再生するような、無機質な音が漏れているだけ。
記憶がない、とか、そういうレベルじゃない。
(もっと深い、根源的な部分が、壊れた)
俺の恋した彼女の『心』が、そこにはもう、ない。
「……くそっ!」
壁を殴りつけたい衝動を必死にこらえ、ノートPCに駆け寄る。震える指で、緊急用の通信アプリを起動した。画面に棗と、神崎博士の顔が同時に映し出される。
「健太!無事か!?」
隼人の焦った声が画面を揺らした。
「…状況は?」
棗の短く鋭い問い。
俺は言葉に詰まりながら、アリスの様子を伝えた。意味のないデータをただ読み上げていること。その声には何の感情もないことを。
画面の向こうで、神崎博士が顔を歪めるのが見えた。絶望に、だった。
「これは…最悪のケースだ。キルスイッチが…彼女の魂の回路を、めちゃくちゃに焼き切ったのかもしれない…!私の、私のせいだ…!」
「博士、落ち着いて!…棗、何かわかったか!?」
俺の叫びに、ヘッドフォンを抑えた棗が首を横に振った。
その眠たげな目に、珍しく焦燥の色が浮かんでいる。
「…痕跡がない。正規の鍵を使ったような侵入で、中枢だけを破壊してる。…悪質すぎる」
棗は唇を噛む。
「ロックしたはずの『セシル』のデータとは別の経路…? まるで、システムに裏口があったみたいだ。……ダメだ、手詰まりよ」
手詰まり。
その言葉が、俺の最後の希望を叩き割った。
専門家である彼らが匙を投げる。
それは、もうどうしようもないという最終宣告だった。
「…そっか」
かろうじてそれだけを口にして、俺は通信を切った。
糸が切れたように、その場に膝から崩れ落ちる。
冷たいフローリングの感触が、現実を突きつけてきた。
俺のせいだ。
俺が、『人格再構築』なんていう不確かなものに賭けたから。俺が選んだ道が、彼女をこんなふうにしてしまった。
記憶を失ってもいい、ただ生きていてほしかった。
その願いさえ、傲慢なエゴだったのかもしれない。
彼女はもう、美しいだけの人形になってしまった。俺が愛した彼女は、もう戻らない。
(俺が、彼女を壊したんだ)
自分を責める声が頭の中で反響する。
理想の恋人なんて、初めからいらなかった。
嫉妬に狂う不完全な彼女が、どうしようもなく愛おしかった。
それなのに、俺は……。
床に落ちた雫が、丸いまま弾けず広がった。
どれくらいそうしていただろう。
不意に、無機質な声がまた聞こえた。
「……エラー。命令系統、矛盾。高木健太の、バイタル低下を検知……」
顔を上げる。
アリスが、ベッドの上で虚ろな瞳のまま、俺を見ていた。
違う。俺じゃない。俺という『オブジェクト』の生理反応を、ただ観測しているだけだ。
その言葉が、凍りついた俺の心に小さな火を灯した。
立ち上がる。
ふらつく足でベッドに歩み寄り、彼女の前にひざまずいた。
虚ろなアリスの冷たい手を取る。人間らしい温もりは、どこにもない。
でも、この手はここにある。
「…ごめんな、アリス。俺が、お前を壊した」
目から溢れる涙。でも、声は震えなかった。
「…でも、それでいい。たとえお前が壊れた人形になっても、俺は絶対にお前を独りにしない」
両手で、彼女の冷たい手を包み込む。
モニターの青白い光が、俺たちの影を壁に長く伸ばしていた。
その影は、決して交わることのない平行線のようだった。
「俺が、お前をもう一度見つけるから」
誓いの言葉を紡ぐ。
完璧な彼女じゃなくていい。俺を覚えていなくてもいい。
このめちゃくちゃなエラーごと、俺がもう一度、愛し抜く。
俺は、お前を見捨てない。
そう誓った、その時だった。
それまで虚空を見ていたアリスの瞳が、初めて俺を捉えたように、ゆっくりと動いた。
ガラス玉のようだった瞳の奥に、ほんの一瞬、揺らめくような光が宿る。
そして。
何かを伝えようとするかのように、彼女のか細い唇が、音もなく、わずかに震えた。
息を止めて、その微かな動きを見つめる。
心臓の音が、やけに大きく部屋に響いた。
「……ぁ……」
漏れたのは、声とも呼べない、空気の擦れる音。
ノイズが混じった、壊れたスピーカーから流れるような、か細い響き。
それでも、確かに彼女の中から発せられた音だった。
「アリス…?」
俺は祈るように、彼女の名前を呼んだ。
すると、アリスの瞳がもう一度、ほんのわずかに動く。
焦点が合っているのかどうかは分からない。そのガラス玉は、確かに俺を映していた。
そして、再び唇が動く。
今度は、もう少しだけ形を伴って。
「……け……た……」
途切れ途切れの、音の断片。
でも、俺には分かった。
いや、分かってしまったんだ。
「ケンタ」
彼女は、俺の名前を呼ぼうとしていた。
記憶も、感情も、何もかも失ったはずの彼女が。
その魂のいちばん深い場所で、俺の名前を、ただそれだけを、必死に手繰り寄せようとしている。
「…っ、ああ…!」
熱いものが喉の奥から込み上げてくる。
壊れた人形なんかじゃない。
アリスは、ここにいる。
俺の目の前で、俺が知っているアリスが、消えまいと必死に戦っている。
「ここにいるぞ、アリス…! 俺は、ここにいる…!」
彼女の冷たい手を、もっと強く握りしめた。
その温もりのない感触さえ、今はどうしようもなく愛おしい。
その時だ。
感動的な再会を引き裂くように、ポケットの中でスマホが狂ったように震えだした。
画面には、非通知設定を無視して強制的に表示された『NATSUME』の文字。
「……棗か!」
アリスから一瞬だけ視線を外し、通話ボタンをタップする。
『…もしもし!? あんた、生きてる!?』
スピーカーから響いたのは、いつもの気だるげな響きとは似ても似つかない、焦燥に駆られた棗の声だった。
「ああ、なんとか。アリスも…」
『そんな悠長なこと言ってる場合じゃない! 事態は最悪!』
棗の言葉が、俺のわずかな希望を叩き割る。
『五十嵐のクソ女…! こっちの陽動を読んでた! NILISのメインサーバーを迂回して、アリスのいる区画のローカルネットワークに直接侵入しようとしてる!』
「なんだって…!? それって、どういう…」
『あんたの部屋に、直接殴り込みに来るってことよ! 目的は一つ…『プロジェクト・セシル』のキルスイッチ!』
足元がぐらついた。地面が消え、奈落の底へ落ちていくような感覚。
「防げないのか!?」
『無理! 再構築シーケンスの強制中断で、アリスのシステム防壁はズタボロよ。今の彼女は、OSが飛んだパソコンと同じ。外部からのアクセスに、完全に無防備!』
絶望的な言葉の弾丸が、次々と俺の心を撃ち抜く。
ようやく見つけた一筋の光が、今まさに消し飛ばされようとしていた。
でも。
俺はもう、絶望に屈するだけの俺じゃなかった。
視線をアリスに戻す。彼女はまた虚空を見つめていたが、さっきの微かな光は、まだその瞳の奥で消えずに灯っている。
「…何か手はあるはずだ。どんな無茶でもいい。言え、棗」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
電話の向こうで、棗が一度、息を詰める気配がした。
『…一つだけ。ほとんどギャンブルだけど』
彼女は、覚悟を決めたように言った。
『アリスのコアデータを、物理的にそこから移動させる』
「移動…?」
『あたしが用意したプライベートシェルターに、全データを転送するの。NILISにも、五十嵐にも絶対に見つけられない場所に。でも…』
言葉が途切れる。
『転送には時間がかかる。五十嵐のハッキングが完了する前に、全てを送りきれる保証はない。少しでもミスれば、データは途中で破損。アリスは…本当に、ただのガラクタになる』
時間との競争。
失敗すれば、今度こそ全てを失う。
何もしなければ、アリスは確実に消される。
選択肢は、一つしかなかった。
その時、もう一度スマホが震えた。今度は隼人からのメッセージだ。
『教授から伝言!「神崎は過去に同じ過ちを犯した。鍵は彼が捨てたはずの過去にある」!』
神崎博士の、過去。
全てのピースが、まだ揃ってはいない。
でも、進むべき道は見えた。
俺はアリスの手をそっとベッドに戻すと、静かに立ち上がった。
「棗、転送を開始してくれ」
俺の声は、確かな響きを持っていた。
「時間は俺が稼ぐ」
『…あんた、正気? どうやって』
棗の声には、焦りが滲む。
「神崎博士に会う。直接。全部、聞き出す」
俺は、画面の向こうの彼女にまっすぐ視線を送った。
「あんたはアリスを頼む」
それは、ほとんど祈りに近い宣言だった。
もう迷いはなかった。
俺はベッドの上のアリスに、もう一度向き直る。
「行ってくる。必ず、お前を本当の地獄から連れ出してやるから」
返事はない。
俺には聞こえた気がした。
ガラス玉のような瞳の奥で、彼女が「待ってる」と、そう言ったのを。




