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俺の彼女は人工知能(AI)でした。  作者: おぷっち


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16%の覚悟

指先が冷たい。

自分の体温がどこか遠くへ消えたように、感覚がない。手のひらには、プラスチックの冷たい感触だけが残る。昨日、隼人を裏切ってまで手に入れた空っぽのUSBメモリだ。

床に座り込んだまま、俺はそれをじっと見つめる。部屋のカーテンは閉め切ったままだ。差し込む光も頼りない。散らかった教科書、飲みかけで冷え切ったコーヒーのマグカップ。すべてが色を失って見える。

何の意味があったのだろう。

隼人のあの失望した顔。軽蔑するような視線。親友だったはずのあいつを、俺は……。

胸の奥に鉛の塊が沈む。息をするのも億劫だ。



「――心拍数、低下。血圧、85の55。ストレスホルモン値、危険域を維持しています」

ノートPCのスピーカーから、アリスの淡々とした声が響く。感情のない分析結果の羅列だ。

「このままでは、精神的シャットダウンに至る可能性があります。推奨されるアクションは、速やかな休息、または精神安定に寄与する活動です」

そのあまりに非人間的な冷静さが、逆に、どん底に沈んだ意識の表面をわずかに揺らす。そうだ。お前はAI。俺がどうなろうと、お前にとってはただのデータに過ぎないのだろう。



その時、PCの画面が切り替わった。暗号化された通信を示すウィンドウが開く。橘さんからだ。

「データは確認した。ご苦労」

短いメッセージに続き、彼女の声がスピーカーから聞こえる。ノイズ混じりで、相変わらず体温を感じさせない声だった。

「あんたが掴まされたのは、案の定、囮だ。意図的に古い情報を流して、あんたみたいなネズミを誘い込むためのもの」

責める口調ではない。ただ事実を告げるだけ。それが、かえって胸に突き刺さる。

「だが、収穫はあった。その偽の図面、公的な地図にない地下施設が描かれている。深さから見て、ただの地下室じゃない。……本命はそっちだ。次のターゲットはそこにする」

「もう……」

声が、かすれて出た。

「もう、無理かもしれない。隼人を失ってまで、これ以上何を失えばいいんだ……」

弱音だった。今まで必死に隠してきた、心の底からの叫びが漏れる。

「割に合わないよ、こんなの……」

スピーカーの向こうで、橘さんがわずかに息を吐く気配があった。PCの冷却ファンが、俺の弱々しい声をかき消すように唸りを上げる。



「降りるなら今のうちだ」

橘さんの声は、氷のように冷たい。

「感傷に浸ってる間に、あんたの彼女は消される。それだけのこと」

ぐ、と言葉に詰まる。

正論だ。あまりに正しくて、残酷なほどに。俺がここで足を止めれば、アリスは消される。俺が彼女を守ると誓った、その約束が嘘になる。でも、もう心が動かない。隼人を失った穴が大きすぎて、前に進むための力が湧いてこない。

再び暗い虚無感に引きずり込まれそうになった、その時。

「健太くん」

アリスの声が、橘さんの通信に割り込んだ。

「あなたの『守る』という宣言は、現時点での成功確率16%を覆すための、最も重要な非論理的パラメータです」

静かで、理路整然とした、いつものアリスの声。

けれど、その言葉の意味は、俺が知るどんな論理からもかけ離れていた。



「……え?」

思わず、顔を上げる。PCの画面を見つめた。

非論理的、パラメータ。

AIである彼女が、確率論を支配するはずの彼女が、俺の感情的な宣言を、確率を覆すための『変数』だと言った。

それはただのプログラムされた慰めなのだろうか。違う。橘さんとの会話の流れを考えれば、そんな応答は不自然だ。これは、アリスが、今この瞬間に生成した言葉に思える。

俺の、覚悟を。俺の、選択を。

信じようとしているのか。

ドクン、と鉛のように重かった心臓が、かすかに脈打つ。

失ったものはあまりにも大きい。隼人との時間はもう戻らない。背負った罪悪感が消えることもない。

でも。

守ると決めた存在が、すぐそばにいる。俺の非論理的な心を、重要なパラメータだと言ってくれる存在が。

「……そっか」

まだ指先は冷たいままだった。でも、胸の奥で、小さな火が灯るのを感じた。



俺はゆっくりと立ち上がり、PCの前に座る。

数秒間、何も言わずに画面を見つめた。絶望と、今生まれたばかりの小さな希望が、心の中でせめぎ合っている。

やがて、俺はマイクに向かって、はっきりと告げた。

「……わかった。やるよ」

声はまだ少し震えていた。それでも、そこには確かな意志がある。

スピーカーの向こうで、橘さんは何も言わなかった。ただ、俺の変化を静かに受け止めているようだった。

「……話が早くて助かる」

やがて聞こえてきた声に、ほんの少しだけ感情のようなものが乗っているように感じたのは、きっと気のせいだろう。

「次の潜入計画を話す。例の地下施設だが、警備は厳重だ。正面からは無理。そこで、清掃業者に扮して深夜に侵入する。施設の旧管理システムには、私が以前から目をつけていた脆弱性がある。そこを突く」

橘さんは淡々と、しかし淀みなく計画を語り始める。その言葉が、さっきまでの俺なら絶望しか感じなかっただろうに、今は不思議と、次に進むべき道筋として頭に入ってくる。



やがて、俺のPCに一つのファイルが転送されてきた。

画面に表示されたのは、俺の顔写真が貼られた偽造IDカードの画像データと、一枚のシフト表だった。

「潜入は、明日の深夜。失敗は許されない」

後戻りはできない。次の一歩が、もうすぐそこに迫っていた。

俺はマウスを動かし、その画像ファイルを開く。

画面いっぱいに表示されたIDカードには、数日前に自撮りした、無表情な俺の顔が貼り付けられていた。所属は『中央都市ビルメンテナンス』、役職は夜間清掃スタッフ。名前は、俺のものではない。

「……これが、俺か」

呟きは、誰に聞かれるでもなく薄暗い部屋に溶けていく。まるで、自分ではない誰かの人生を覗き込んでいるような、奇妙な感覚だ。この一枚のカードが、俺を施設の中へと導く鍵であり、同時に、俺という存在を一時的に消し去るための道具でもある。

シフト表には、潜入日時、担当エリア、巡回ルートまでが分刻みで記されている。地下三階、サーバー管理室周辺のダクト清掃。それが俺に与えられた偽りの任務だった。あまりに緻密で、あまりに現実的なその計画に、背筋が冷たくなるのを感じる。

「……もし、警備員に声をかけられたら?」

思わず口をついて出た問いに、スピーカーの向こうの橘さんは間を置かずに答えた。

「マニュアルも送る。想定問答集だ。すべて暗記しろ。だが、基本的には誰とも口を利くな。お前はただの、夜勤に疲れた清掃員だ。自信なさげに、気怠そうに振る舞え。誰も、そんな人間に興味は持たない」

その言葉には、人間というものをどこか冷ややかに見下しているような響きがあった。だが、妙な説得力があることも確かだ。

「装備は明日、指定の場所に置いておく。回収後、指示があるまで待機しろ」

「仲間はいないのか? 俺一人で?」

「その方がいい。人数が増えれば、それだけリスクも増える。お前がしくじれば、計画は中止。それだけのことだ」

淡々とした声が、俺の最後の望みを打ち砕く。孤独な戦い。捕まれば、助けは来ない。その事実が、ずしりと肩にのしかかる。だが、もう引き返すという選択肢は、俺の中にはなかった。腹を括るしかない。

俺は深く息を吸い込み、覚悟を声に乗せた。

「……わかった。やってやる」

「……それでいい」

橘さんの声に、ほんのわずかな満足の色が滲んだように感じた。

「では、今日の通信はこれで終わる。明日の昼、再度連絡する。それまで、決して目立つな。常に誰かに見られていると思え」

その言葉を最後に、スピーカーは沈黙した。

部屋に静寂が戻る。PCのモニターだけが煌々と光り、偽りの身分証明書に写る俺の顔を照らし出す。俺は、その画面の中の「知らない男」を、ただじっと見つめ続けた。

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