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プロローグ

——プロローグ——


「やめろ……」


声が、掠れた。

喉の奥には血の味が広がっている。

それでも、もう一度。


「やめろ……ッ!」


白亜の玉座の間に、男たちの笑い声が響いた。


「まだ喋れるのか、こいつ」

「随分としぶといな」


直後、背中を軍靴が踏み抜く。


「ぐッ……!」


肺から空気が吐き出された。

 

両腕を二人の兵士に押さえ込まれ、首筋には槍の穂先。

少しでも身体を起こせば、その切っ先が容赦なく肉へ食い込む。


それでも。

肉に刃が突き刺さり、血が滲んでも。

俺は床を掻いた。


爪が割れる。

 

指先から血が滲む。

 

そんなことは、どうでもよかった。

 

数メートル先。

 

そこに――最愛の妹がいた。


「そいつに……触るな……ッ!」


人界の紋章を胸に掲げた兵士たち。

その中心で、妹は床に押さえつけられていた。

衣服は引き裂かれ、細い肩が震えている。

俺は立ち上がろうとした。


挿絵(By みてみん)


「動くな」


押さえつける手に力が入り、背中に槍が突き立てられた。


肉が裂ける。

熱い血が背中を伝っていく。

それでも腕に力を込める。


「おっと」


後頭部を踏みつけられた。

額が石床へ叩きつけられる。

視界が白く弾けた。


「……ぁ」


目の前に、血が落ちる。

その向こうに――手が見えた。

震える指先が、俺と同じように、何かを求めるように床を掻いている。

届くはずもないのに。

俺は手を伸ばした。


「やめろよ……」


男たちの笑い声。

布の裂ける音。

妹が必死に押し殺す、小さな声。

聞きたくない。

理解したくない。

それなのに、耳を塞ぐことさえ許されない。


「やめて……くれ……頼む……」


返ってきたのは笑い声だった。

その瞬間。

妹が小さく声を漏らした。

頭の中で、何かが切れた。


「――殺すぞ」


笑い声が止まる。


「今すぐ……そいつから離れろ」


兵士の一人が鼻で笑った。


「この状況で、まだそんな口が利けるのか?」


「殺す」


「やってみろよ」


槍が更に肩へ突き刺さる。


「立てるものならな」


肩から血が床へ落ちる。

それでも俺は兵士ではなく、その奥を見ていた。

玉座。


そこに一人の男が座っている。

豪奢な衣。

頭上に戴く王冠。

人々が忠誠を捧げる、この世界の頂点。

――人界の王。


男は頬杖をついて、こちらを眺めていた。

笑ってすらいない。

まるで退屈な芝居でも見ているように。


「頼む、やめてくれ……」


俺は血を吐きながら懇願した。

王の瞳が、ゆっくりと俺を捉える。


「なんで?」


あまりにも軽い声だった。

耳を疑った。


王は、その老齢な顔に子供のような笑みを浮かべる。


「止める理由がないだろう」


それだけだった。

必死の懇願に対して、それだけ。

 

怒りが。

憎しみが。

殺意が。

身体の奥から溢れ出してくる。


けれど。


動けない。

俺は、妹一人救えない。


「殺すなら……」


歯を食いしばる。


「俺を殺せ」


初めてだった。

誰かに、額から血が滲むほど床に頭を擦り付けるほど、

頭を下げたのは。


「頼む、妹は……関係ない……」


返事はない。


「俺が全部悪い……だから……」


拳を握りしめる。


「頼む……」


涙が一滴、石床へ落ちた。


「妹だけは……助けてくれ……」


やがて。

男たちの笑い声が止んだ。

兵士たちが妹から離れていく。

俺は顔を上げた。


終わった。


そう思った。


助かった。


ほんの一瞬だけ。


そう思ってしまった。


――シャリン。


金属が鞘を擦る音。


一人の兵士が剣を抜いた。


「…………は?」


理解するより早く、身体が動いた。


「やめろッ!!」


押さえていた兵士の腕を振り払う。

槍が肩を貫いた。

構わない。


「止めろォォォォッ!!」


もう一本。

脇腹。


さらに一本。

腿。


それでも立つ。

立たなければ。


俺が。


俺が助けなければ。


あいつには――俺しかいない。


「離せッ!! 離せえええええッ!!」


何人もの兵士が身体に飛びつく。

膝を蹴られた。

再び床へ叩きつけられる。

それでも手を伸ばした。


数メートル。

たった数メートルなのに。


届かない。


「やめろ……!」


妹が、ゆっくりと顔を上げた。


目が合った。

泣いていた。

身体は震えている。

怖いに決まっている。

なのに。

俺を見た瞬間。


妹は――ほんの少しだけ笑った。


どうして。

どうして、お前がそんな顔をする。


「大丈夫だ!」


俺は叫んだ。


「今、助ける!」


嘘だった。

立つことすらできない。


「絶対に助けるから!」


また嘘をついた。

妹は何も言わない。

ただ俺を見つめている。


「だから……!」


兵士が剣を振り上げる。


「待ってろ!」


やめろ。


「俺が……!」


やめてくれ。


「俺が絶対に――!」


妹の唇が動いた。

最後に。


俺の名前ではなく。

昔から何度も聞いてきた、その呼び方で。


「お兄ちゃん――」


剣が振り下ろされた。


音が消えた。

兵士たちの声も。

王の声も。

自分の絶叫さえも。


何も聞こえない。


白い石床を赤いものだけが、


ゆっくりと広がっていく。


その中心に妹がいた。


動かない。


「…………」


手を伸ばす。


届かない。

あと少しなのに。


届かない。


小さな頃、怖い夢を見た夜には、必ず俺の部屋へやってきた。


転んで膝を擦りむけば、真っ先に俺を呼んだ。


泣いたときも。


笑ったときも。


困ったときも。


いつだって。


——お兄ちゃん。


そう呼ばれるたびに、俺はあいつのところへ行った。


なのに。


俺は。


妹のところへ行けなかった。


何を言おうとしたのだろう。


助けて。


だったのか。


怖い。


だったのか。


それとも――。


もう、その続きを聞くことはできない。


——その日。


俺の中から、何かが消えた。


人を信じる心だったのか。


神を信じる心だったのか。


それとも。


人間であるために必要な、何かだったのか。


今でも分からない。


ただ一つだけ。


今でも鮮明に覚えている。


「お兄ちゃん――」


あの日、最後までその言葉を聞くことができなかった、妹の声だけを。

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― 新着の感想 ―
最初から絶望感溢れる展開でびっくりしました…! 続きが気になります!
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