夏バイト
朝 八時三十分
村立診療所のシャッターが上がる
葵は受付カウンターの内側に立つ
白い名札 まだ少しだけ 似合っていない
「おはようございます」
最初の患者は 毎週来るおばあさん
「おや 葵ちゃんかい」
名前で呼ばれる それだけで 背筋が伸びる
カルテを受け取り 診察券を確認する
手順は覚えた
でも まだ少しだけ緊張している
私はここで働いている
患者として来ていた場所で
今日は迎える側に立っている
温泉旅館の食事処
湯気と出汁の匂い
さくらはエプロンを締め直す
盛り付け担当
地元の夏野菜 みかんを使った冷菜
小松菜の焼き菓子の試作品
「それ もう少し彩足せるか?」
板長の声
さくらは少し考え 刻んだ大葉を添える
「ええやん」
短い一言
それだけで胸が熱くなる
食べてもらう前の一瞬が
こんなに緊張するんや
今 この村の食材を扱っている
午後 電話が鳴る
少し慌ただしい声
「転倒です 意識あり」
救急搬送の連絡
葵の指先が冷える
所長が静かに指示を出す 葵はカルテの準備
受け入れ体制の確認
搬送車のサイレンが近づく
心臓の音が 自分で分かる
怖い
けれど
逃げない
深呼吸
ドアが開く 担架が入る
葵は立っている
震えてはいるが 立っている
一時間後 患者は安定
所長が言う
「怖いのは当たり前や
怖いまま立てるのが大事や」
葵は小さく頷く 私は ここにいていい
団体客が入る
厨房が少し混乱する
予定していたデザートの数が足りない
板長が眉をひそめる
さくらは一瞬迷う どうする?
冷蔵庫を見る
みかんのシロップ煮 わらび餅
思いつく
「みかんとわらび餅の和風パフェに出来ます」
一瞬の沈黙
「やってみい」
急いで組み立てる 客席に運ばれる
数分後
「これ 売ってへんの?」
その一言が返ってくる
胸が高鳴る 作りたい
はじめて はっきりと思う
売れる商品ではなく
誰かの顔が浮かぶ食べ物
診療所帰り 旅館帰り 二人は偶然会う
「お疲れ」
「お疲れ」
短い会話 でも顔が違う
少しだけ 大人びている
「今日な 救急あって」
「うちも デザート作った」
報告し合う 誇らしさと 疲労
さくらが言う
「道の駅完成したら ここで売りたいな」
葵が答える
「完成したら 救急箱おきましょう」
二人は笑う 冗談の様で 冗談ではない
それぞれの家に戻る
アルバイトは小さな一歩
だがその一歩で
二人は「守られる側」から
「支える側」へ変わり始めている
村の未来は 人の中にも立っている
夜になると 村はとても静かになる
窓を少し開けると山の方から虫の声が
流れて来た
遠くで川の音もしている
今のテーブルの上には麦茶の入ったグラスが
二つ並んでいた
菫は畳に座り
扇風機の風を受けながら妹の葵をみた
「どう?診療所」
葵はグラスをもったまま少し考えた
「忙しい日もある」
「やっぱり」
「今日はおばあちゃん三人来た」
葵は笑った
「みんな同じこと言うんよ」
「なんて?」
「暑いなあって」
菫も笑った
「それ 診察じゃなくても言うやつやん」
葵は頷いた
「でもね」
少しだけ真面目な顔になった
「先生 ずっと一人で診ている」
「うん」
「大変そう」
「先生 大阪の大学病院で
働いていたって聞いたけど
なんでこんな田舎にわざわざ来たんやろ」
「…なんでやろな」
窓の外で 風が竹を揺らした
菫は麦茶を一口飲んだ
「葵はさ」
「うん?」
「本当に戻って来るつもり?」
葵はあっさり言った
「うん」
「迷わない?」
「ちょっとは」
葵は笑った
「だってさ」
グラスを机に置いた
「うちの学校の子 ほとんど都会行くもん」
「やっぱり?」
「病院いっぱいあるし」
少し間が空いた
扇風機の羽の音が静かに回っている
葵は窓の外を見た
遠くの山の中に ぽつぽつ灯りが見える
「でもさ」
葵が言った
「今日 受付してたら」
「うん」
「幸子ばあ来た」
菫は笑った
「幸子さん?」
「そう」
「元気やった?」
「元気」
葵も笑った
「でもね」
葵は少し考えながら言った
「帰る時 言われた」
「何て?」
葵は少し照れくさそうに言った
「あんた ここで働いてくれるんかって」
菫は黙って聞いた
葵は続けた
「私さ」
少しゆっくり言った
「その時 思った」
「うん」
「ここ 誰かおらんと困るんやなって」
部屋が少し静かになった
虫の声が大きく聞こえる
菫は妹をみた
「大変やで」
「うん」
「給料も都会より少ないし」
「うん」
「友達も少ない」
葵は笑った
「それ姉ちゃんやん」
「こら」
二人は少し笑った
笑いが落ち着いたあと 葵が言った
「でもさ」
「うん」
「ここ 嫌いじゃない」
窓の外を見た
夜の山の中に 家の灯りが点々とある
「この灯り 無くなったら寂しいやん」
菫はしばらく何も言わなかった
それから小さく笑った
「そうやな」
葵は姉を見た
「姉ちゃんは?」
「何が?」
「ここにおるん?」
菫は少し考えた
扇風機の風が髪を揺らす
「まだ分からん」
正直に言った
「でも」
少しだけ笑った
「もうちょこっと この村面白くしてから
考える」
葵は笑った
「役場っぽい」
「仕事やから」
外では虫の声が続いている
菫は窓の外を見た
山の中の小さな灯り
葵も同じ方を見ていた
しばらく二人とも黙っていた
その灯りは夜の中で静かに光っていた




