三十一話 信じられるか2
アレクと想いが通じ合って以来、リリアンはサボン作りに根を詰めて部屋に閉じこもることはなくなった。
アレクの相手に相応しいと思われるように商人として認められたいという思いはまだあるが、早く認められなければアレクが誰かと婚約してしまうという焦りは消えたため、今まで通り余裕をもってサボンの試作に取り組めるようになった。
空き時間はアレクが執務をしている横で本を読んだり、庭を散策してお茶を飲んだりと自由に過ごすようになったリリアンは使用人から声を掛けられることが増えた。
初めて声を掛けられた時は驚いたリリアンだったが、以前リリアンが配った試作品のサボンの感想を伝えるために自由時間を見計らって声を掛けてくれたのだとわかると有り難く貴重な意見を聞かせてもらった。
そのおかげで使用人たちと打ち解けることが出来たリリアンはグランヴィル侯爵邸に随分と馴染んできたようだ。
アレクはそのことに頬を緩めた。
リリアンはまだ思い至っていないようだが、アレクと結婚すればこの邸で采配を振るうのは侯爵夫人であるリリアンの仕事になる。
使用人と仲良しこよしでいる必要はないが、彼らに受け入れられていれば結婚後の采配もスムーズに行くだろう。
アレクはリリアンを自分の隣部屋にすることで、彼女が次期侯爵夫人であると無言のうちに使用人達に知らしめていた。
アレクの執務室とリリアンの部屋の寝室が扉で繋がっているのは、そこが侯爵と侯爵夫人の部屋だからである。
それをこの邸で知らないのはリリアンだけであり、使用人たちは皆初めからリリアンを未来の侯爵夫人として見ているのだ。
当然リリアンがどのような人柄か気になるわけで、サボンの感想を伝えるという大義名分をもとにリリアンと話せる機会を使用人たちは喜んでいた。
そして自分たちの感想を真剣に聞いてくれるリリアンに使用人たちは好感を持ったのだった。
侯爵邸の中でも自然に振る舞えるようになってきたリリアンは、そのままの自分でも受け入れてもらえることを感じ、少しずつ自信を持てるようになってきていた。
「夜会ですか?」
よく晴れた昼下がりの庭でアレクとお茶を楽しんでいたリリアンはアレクから一緒に夜会に出てほしいと言われ驚いていた。
アレクはリリアンを連れて行く夜会を吟味しておりどの夜会にも連れていくわけではなかったため、王宮の夜会から既に二ヶ月近く経っていた。
その間アレクは一人で夜会に出席することもあったため、リリアンはもう自分が夜会に行くことはないのかもしれないと思っており、今回のアレクの誘いに純粋に驚いたのだった。
「王宮の夜会で会ったクレイニー公爵夫妻を覚えているか?今回は彼らが主催する夜会だからあなたも気負わずに楽しめると思うのだが」
リリアンは王宮の夜会でユリエと一緒に会話の中心にいた公爵夫人を思い出す。
高貴な空気を纏いながらも柔軟に話題を操りリリアンが過ごしやすいように気を遣ってくれた女性だった。
ユリエが随分打ち解けていたこともあり、リリアン自身も良い印象を抱いていた。
「はい、覚えています。初対面の私にも気を遣ってくださる優しい方でした。私も出席してもいいのなら行ってみたいです」
「良かった。公爵夫人がまたあなたに会いたいと仰っていたんだ。あなたを私の婚約者として紹介したい」
「アレク・・・」
アレクの言葉にリリアンは眉尻を下げた。
アレクの婚約者という響きに嬉しさを感じるのに、素直に喜べない自分がリリアンは嫌になる。
だがそんなリリアンにアレクは優しく微笑んだ。
「まだ早いか?」
「私・・・サボン作り以外何も出来ませんし、アレクの役に立てることもないと思います・・・。それでも許されるのでしょうか・・・?」
「リリアン、あなたは誰の許しが欲しい?私か?ご両親か?領民か?貴族社会か?」
「・・・・・・」
「私と一緒になることを怖がらないでくれ。確かにご両親の許可は欲しいが、それはあなたに心から幸せを感じてほしいからだ。たとえ反対されても私は諦めるつもりはない。私たちの結婚に本当は誰の許可もいらない。必要なのはあなたの気持ちだけだ」
「アレク・・・。私・・・あなたと結婚したい」
「ありがとう」
不安になるリリアンの心をアレクはその都度真摯な言葉で向き合い掬い上げることを何度も繰り返す。
アレクはそのことを面倒だとは思わなかった。
不安な胸の内をアレクに晒し、ぶつけてくれることを嬉しいとさえ感じていた。
アレクが恐れるのは、むしろそのことをリリアンに隠されてしまうことだった。
不安や戸惑いに悩み、リリアンが一人で苦しみ傷つくことを想像するだけでアレクの胸は痛む。
今後も慣れない貴族社会でリリアンが負担に思うこともあるだろうが、そのストレスの全てを自分に向けてでもいいから吐き出すようにしてほしいとアレクは思っている。
だからアレクは今のうちからリリアンに悩みや不満を吐き出せる相手として自分を認識してもらいたかった。
少し前までのリリアンなら悩みをアレクに漏らすことはなかったが、アレクと想いを通じ合わせてからは不安に思っていることを話してくれるようになり、アレクの期待通りになっている。
瞳を揺らしながらも頬を染めアレクに想いを告げるリリアンの勇気には、アレクなら受け止めてくれるという信頼が込められている。
そのことに気付いているアレクはゆるりと微笑んだ。
あなたが愛おしいと言わんばかりの優しい笑みにリリアンは見惚れるしかなかった。
夜会当日、公爵邸に着いたアレクとリリアンは早速クレイニー公爵夫妻のもとへ挨拶に伺った。
同じ貴族の屋敷でもグランヴィル侯爵邸とはまた雰囲気の違う華やかな公爵邸にリリアンの目は憧れと好奇心に輝いたが、公爵夫妻の前ではやはり緊張に固くなり、手を添えているだけのはずだったアレクの腕をギュッと掴んでいた。
アレクはそれを咎めることはなく、優しく細めた瞳でリリアンを見つめながらその手を撫でてやった。
「おやおや、グランヴィル侯爵は挨拶に来てくれたのかな?それとも見せつけに来たのかな?」
笑いを含んだクレイニー公爵の声にリリアンはハッとして視線を下げたが、アレクは落ち着いたまま優雅に一礼をした。
「クレイニー公爵。本日はお招きありがとうございます。もちろんご挨拶に伺いました」
「そちらはリリアン嬢だったね」
「はい。ようやく色よい返事を貰えまして・・・。領地に戻り次第、正式に婚約を結びたいと思います」
「まあ!おめでたいわね。今夜は楽しんでいってちょうだいね」
「ありがとうございます」
クレイニー公爵夫妻とアレクの会話を聞いていた周りの貴婦人たちから息を飲む音が聞こえ、次いで「そんな」「まさか」と言った囁きが波のように会場に広がっていった。
リリアンはそのさざめきを聞きながら、本当に自分で良かったのだろうかと不安が体の中に巻き起こる。
会場の中に歩みを進めていたアレクの足が止まりリリアンに向き合うとその頬をそっと撫でた。
「不安になったか?」
「ごめんなさい。・・・やっぱり自信がなくて・・・」
「謝る必要はないさ」
アレクはリリアンの耳元に顔を寄せると、彼女にだけ聞こえるようにそっと囁いた。
「私が好きか?」
「・・・好きです」
「私もあなたが好きだ。相思相愛だ」
「アレク・・・」
耳元で囁かれるアレクの声と告白にリリアンは恥じらいに目を泳がせる。
リリアンから顔を離しながらもアレクは艶を含んだ眼差しを彼女に送る。
「自信が持てたか?」
「はい」
はにかみながら返事をするリリアンを安心させるように微笑むとアレクはまた会場の中を歩き出した。
数組と挨拶や談笑を交わしたあと、一息つこうとしたときアレクたちは後ろから声を掛けられた。
「アレクさん、リリアンさん。こんばんは」
二人が振り返るとそこには一人で立つ百合恵の姿があった。
リリアンのイメージでは百合恵とラルフはいつも一緒にいてセットになっていたので、一人でいる百合恵に反応が遅れてしまった。
アレクも同じだったようで視線が百合恵の周りをぐるりと動いたのがリリアンにもわかった。
「ラルフは一緒じゃないのか?」
「飲み物を取りに行ってくれたんだけど、あそこで新しく取引を始めた伯爵に捕まっちゃってるみたいです」
そう言って百合恵が指差した随分先に伯爵と呼ばれた男性と話し込むラルフの姿が辛うじて見える。
離れた位置にいるラルフを目にしたアレクは僅かに眉をひそめた。
「女性を一人にして何をやっているんだ、あいつは」
「すぐに戻って来ようとはしてるみたいなんですけどね。さっきまでは男爵、その前は子爵に捕まってて、なかなか前に進めないみたいですよ」
苦笑を漏らす百合恵がリリアンにその微笑みを向けた。
「リリアンさん、デザートはもう食べました?」
「いえ、まだ・・・」
「よかったら一緒にあちらでいただきません?クレイニー公爵夫人お気に入りのスイーツがあって美味しいって評判なんですよ」
「えと・・・でも・・・」
リリアンは公爵夫人お気に入りのデザートに興味があったが、アレクからはそばを離れないようにと言われていたため、どうしようかとアレクを見上げた。
アレクはリリアンの関心を見越して微笑みながら頷いた。
「ユリエとなら安心だ。いっておいで。私は向こうでノートン卿に挨拶をしてくるよ」
「はい」
百合恵と仲良く連れ立っていくリリアンの後ろ姿を見送り、アレクはノートン卿の元へ向かった。
百合恵に連れられていった先はカラフルなお菓子がテーブルいっぱいに並べられており、リリアンは感嘆の声を上げた。
どれも一口で食べやすいように小振りなサイズなのがまた可愛らしさを増していて、リリアンの創作意欲をくすぐる。
リリアンと百合恵はひとしきりデザートを堪能したあと、そろそろ互いのパートナーの元へ戻ろうかとあたりを見回した。
ラルフは先ほどと変わらない場所に居たためすぐに見つかったが、アレクが見当たらずきょろきょろと視線を動かしていると、二人に声を掛けてくる者がいた。
「どうかされましたか?」
その声に振り返ると、くすんだ金髪を後ろで一つに束ねた優男風の男が二人を見ていた。
目も口も弧を描いているのに、笑っているというより厭らしくニヤけているように見える顔に、リリアンと百合恵の肩がびくりと揺れた。
「女性二人で心細そうにされて、どうなさったのです?パートナーに放って置かれて寂しいなら私がお相手しますよ」
男が一歩足を踏み出してきたと同時に、リリアンの背を百合恵が押した。
「ラルフを呼んできて」
「でもユリエさんが一人に・・・」
「大丈夫だから。早く」
百合恵を一人にするのは心配だが、ラルフの姿はそこに見えているし、自分が助けを呼びに行く方が百合恵も安全かもしれない。
百合恵にうながされたリリアンは助けを呼びに駆け出した。




