二十九話 私以外のもの2
柔らかなベッドと滑らかなシーツの感触はいつもと同じはずなのに、リリアンはまるで知らない場所に放り込まれた気がした。
呆然としたまま目を見開いているリリアンをアレクが抱きしめる。
自分を押さえつけるように囲うアレクの腕にリリアンはピクリと反応したが、ベッドに放り込まれた時のような強い力ではなく、なだめるような優しい抱擁に抵抗をすることはなかった。
状況がわからず揺れる瞳をアレクに向けたリリアンの頬を、アレクは手のひらで包みこんで撫でた。
「少し痩せたな・・・。クマも出来ている。寝ていないのか?」
「・・・寝てる、けど」
「けど?」
「深く眠れないの・・・すぐに目が覚めて」
「それで眠るのを諦めてザボン作りを?」
「・・・」
無言の肯定にアレクは溜息をついた。
リリアンの頬を親指で撫でる仕草は優しいのに、耳元に口を寄せて吐き出す息は艶めいていて、ただでさえ疲れているリリアンの頭を逆上せさせた。
「リリアン、あの夜を覚えているか?」
「アレク・・・?」
「あなたが眠れない時は、いつでも千の口づけを贈ろう」
アレクの言葉に息を飲んだリリアンは無意識のうちに体に力が入った。
それを逃げるためだと受け取ったのか、アレクはリリアンの手を絡め捕るように握り、ベッドに押し付けた。
アレクの唇がリリアンの耳朶を喰む。
熱く柔らかい唇の感触にリリアンが肌を染め上げると、アレクはそれを喜ぶように何度も啄ばみ、今度は耳裏を舐めあげた。
熱い吐息と共にぬるりとした感触に襲われたリリアンは背中に痺れが走り、堪らず声を上げた。
それでもアレクは止まらず、唇と舌で執拗に耳と首筋を責めてくる。
領地にいた時にアレクからもらった軽く柔らかな口づけしか知らないリリアンは、もう一度それを欲しいとずっと願っていた。
リリアンが願った通りアレクはあの頃と同じように「千の口づけを贈ろう」と言ってくれたのに、今リリアンに 施されている口づけはまるで別物だった。
アレクが獣だったらこのままガブリと喉元を食べられてしまいそうだとリリアンは痺れる頭で思う。
まさかこのまま身体を求められることになるのではという危惧が一瞬頭を過ると、たちどころに不安が大きくなっていく。
このまま体を許したらアレクは責任を取ってくれるだろうか。
それとも貴族に釣り合うほどの立場を得ていない今のままでは、将来を共にする相手としては見てもらえないのだろうか。
リリアンが逆上せる頭で不安に気取られているうちに、アレクの唇は首から耳に戻ってきており、その舌先が耳の中にねじ込まれた途端、リリアンの思考は途切れ甲高い声を上げた。
「寝る前に考え事か?意識が私から逸れていただろう?」
「あ・・・アレ、ク」
アレクはリリアンの耳朶にもう一度吸い付き声を上げさせると、ようやく頭を上げた。
「余裕があるなら私の質問に答えてくれないか?」
「しつもん・・・?」
「何故そこまで試作を続けるんだ?」
今にも唇が触れあいそうなほど近くでアレクはリリアンの瞳を覗き込む。
アレクに与えられた燻る熱と戸惑いのせいでリリアンは答えを考えることすら出来ないでいた。
「こちらに来たばかりの頃はもっと余裕をもってサボンの試作に取り組んでいたのに、夜会の後から急に何かに追われるように試作ばかりしている。それは何故?」
アレクの吐息がかかる唇を震わせるだけで答えないリリアンに、アレクは苦し気に眉を寄せ彼女の口の端に掠める程度に唇を落とすとすぐに離れた。
「・・・夜会で何か言われたか?」
わずかに首を振ったリリアンの唇の端にアレクが今度はしっかりと唇を落とす。
その温かな感触にリリアンの心の決壊がついに崩れ、その瞳から涙が溢れ落ちた。
「アレ・・ク・・・・・・ないと・・・・じゃない」
「リリアン?」
急に泣き出したリリアンに驚きながらも、アレクは泣きながらも紡がれるリリアンの言葉を聞き取ることに集中した。
「だって・・・頑張らないと・・アレクのそばに、いられないじゃない・・・。貴族じゃない私が・・・認めてもらうには・・・それしかないのに・・・」
「誰かに言われたのか?私はもうあなたを認めている。体調を崩すまで必死になる必要はない」
「違うの・・・!そうじゃない・・・」
リリアンは激しく首を振り、悲し気にアレクを見つめた。
アレクは貴族ではないリリアンを大切に扱ってくれるが、それはリリアンが百合恵の代わりを申し出た経緯があるからだ。
だがそれもアレクが結婚すれば終わってしまう。
ただの商人の娘である自分が侯爵であるアレクの結婚相手になれることはないと諦めていたが、あの夜会で貴族に認められるほどの商人になればそれも夢ではなくなるかもしれないと希望を持てた。
だからリリアンは頑張っているのに、思うようにはいかずに焦り苦しんでいる。
それなのにアレクは気まぐれにリリアンに触れ、惑わせ、サボンの試作に必死になる必要はないと言う。
では自分はどうしたらいいのだろうか?
リリアンはもうどう考えていいのかわからなくなり、アレクに向かって心の中で渦巻く想いを訴えた。
「頑張らずに・・・必死にならずに、このままの私でどうやったらアレクのそばにいられるの・・・?いつまで隣にいれるの?アレクが結婚相手を見つけるまで?」
「リリアン・・・」
「アレクはいつか自分の立場に見合った相手を選ぶんでしょ?私もアレクに見合う人間になれたらって思うの。貴族にはなれなくてもユリエさんみたいに立派な商人になれたら少しは私にも望みがあるかもって・・・。私には努力するしか方法がないのに・・・」
「私は自分の立場に合う相手を選びたいわけではない。私の心に合う人を選びたいと思っている。だから・・・」
「じゃあどうしてアレクは私に触れるの?アレクは私に優しくしてくれるし甘い言葉もたくさんくれるけど、何の約束もくれないじゃない。それは私がアレクの結婚相手にはなれないからでしょ?私はアレクが好きだから触れられると嬉しい・・・。だけどいつ捨てられるかもわからない状態で求められるのは怖いの・・・」
リリアンは両手をアレクに絡め捕られたままで涙を拭うことも顔を隠すこともできず、唇を噛み締めて本音を曝してしまった羞恥に耐えた。
アレクはアイスブルーの瞳を瞠ったままリリアンの告白を聞いていたが、我に返りリリアンの唇に目をやるとそこをぺろりと舐めた。
リリアンが驚いて唇を緩めると、アレクは真っ直ぐにリリアンを見つめた。
「噛むと切れるぞ」
「・・・・・・」
「私もあなたが好きだ」
「え・・・?」
アレクの告白に耳を疑い、リリアンは見開いた目からまた一筋涙をこぼした。
アレクは零れた涙を唇で拭うと、リリアンの瞳をひたと見つめ真摯に告げた。
「約束が欲しいならいくらでもしよう。私はあなたとこれからの時間を共に過ごしていきたい。私にはあなただけだと約束する。私と生涯を共にしてほしい」
「アレク・・・・・・でも・・・」
「あなたの努力する姿勢は素晴らしい。だが私はあなたを仕事ぶりで好きになったわけではない。あの公園で出会ったあなたのままでいい。ただそこにいてくれるだけで癒される。いつも通り話すだけで救われる思いがあるんだ。サボン作りが好きならいくらでも続けてくれて構わない。だが身分を気にしてほかの何者かになろうといないでくれ」
「・・・アレク」
「私はあなたが欲しい。私の相手はあなただけだ」
「ずっと不安だった・・・。優しくされるたびに好きになるのに、別れる日が来る怖さが大きくなっていって」
「辛い思いをさせてすまなかった。はっきり言葉にしない私が悪かった。私の本気の想いを告げてあなたが怖気づいてしまわないように、あなたの心がわかるまで様子を見ようとしていたんだ。・・・だが怖気づいていたのは私の方だ。あなたに逃げられるのが怖くて、あなたの気持ちに確信が持てるまで自分の想いを告げないでおこうとしていた」
「私も・・・アレクに触れてほしいのに、いずれ別れることを考えると怖くて逃げてた・・・」
「リリアン。あなたを愛している」
「私もあなたを愛してる。アレクと一緒に居たい。・・・アレクが欲しい」
リリアンの言葉に、一度は落ち着いていたアレクの瞳に熱が甦る。
頬を染めて瞳を揺らすリリアンにアレクは困ったように微笑んだ。
「あなたを寝かせてあげたかったのに・・・」
「アレク?」
「まあ、疲れれば眠れるか・・・。明日の朝は二人でゆっくり過ごそう」
アレクの艶を含んだ笑みにリリアンは体温が上昇するのを感じた。
ゆっくりアレクの顔が近づきリリアンは自然に瞳を閉じると、初めてアレクの唇と自分の唇が重なる心地良さを知った。
その夜疲れ果てるまでアレクの熱に翻弄されたリリアンは、昼近くまでアレクの腕の中で眠り続けることとなった。




