01:その手を引く者
繁華街とオフィス街を繋ぐ大きな橋は昼間とは違い人通りがない。
真っ暗な川がぽっかりと口を開けて、地上を飲み込もうとしている。ホテルやビルの灯りがチラチラと水面を照らし、生暖かい風が1つに結んだ髪を大袈裟に揺らしていった。
先日、この場所で見た光景が頭から離れない。
バスの窓から一瞬見えた、靴とカバン。
綺麗に揃えられて川の方を向くスニーカーと、橋にもたれかかったリュックはあまりに不自然だった。何せ、そこにいるはずの持ち主がいないのだから。聞こえてくる消防車のサイレンに、橋の1箇所に集まる人だかり。私は何も出来ずただただ走行音とともに通り過ぎていった。
後日《その人》は助かった、とネットニュースの小さな記事で知った。
欄干に頬杖をついて、オフィス街の方を振り向く。
「気持ちは分かるけどね」
残業続きで自分の時間など皆無だ。1度社会人になってしまえば、仕事仕事仕事。他に割く余裕などない。
将来どころか夢や希望さえ見失うのも仕方がない。
自分の時間も身体も心も全てを売り払って、ようやくギリギリ生活出来るだけの稼ぎを得られる。そんな地獄のような時間が永遠と続くのだ。
お先真っ暗なら今すぐ暗闇に飛び込んでしまいたくなるのも頷ける。
おもむろに社員証を取り出して眺める。自分の名前と、証明写真。
「つまらない大人になっちゃった」
子どもの頃、こんな大人になるとは微塵も思っていなかった。
しがない中小企業のしがないOL。仕事内容にちっとも興味が持てず、気力もどんどん失われ、ついにはメンタルをやられてしまった。
適応するために鈍感に、心を殺しているうちに頭の中は霧がかかったように真っ白で考え事すら上手く出来ない。ただただ同じような毎日を無味無臭に過ごすだけ。
今までの人生を想起していると、大きな風が吹く。
社員証が手から逃げ、川の方へと攫われた。思わず身を乗り出し、気付けば黒々とした水面へと一直線に落下する──。
幼少期から今までの記憶が走馬灯のように流れていた。
その最中、頭の中に誰かの声が響く。
【女神様、どうか国をお救いください】
幼い少女の祈りのようだ。
社員証を掴むと、目を閉じて衝撃に備えた。
水飛沫とともに下へ下へと身体が落ちていく。何か強い力に引っ張られるような感覚に為す術なく身を委ねていると、水流が穏やかになった。
沈んだ身体をなんとか明るい水面へと運ぶ。
「っはあ、死ぬかと思ったっ」
髪をかきあげ視界を確保して辺りを見渡すと、先程まで夜を覆っていた憂鬱な曇り雲は消えていた。見え隠れしていた月すらない。
代わりにそこには森があった。
木々の隙間から木漏れ日が射し、青々とした草の合間から小花が顔を覗かせている。どこからか鳥の鳴き声が聞こえてきた。
久々に嗅ぐ、地面の香り。
平穏、をイメージ図にするならばこの景色が相応しい。まさに天国だ。
「……天国? ちょっと待って。私、もしかしてさっきので本当に死んじゃった?」
水辺から地上へ上がる。
ずぶ濡れになったスーツが肌に纏わりつき不快だった。上着を脱ぎ、近くの木の枝にかける。
自分が出てきた湖を振り返ると、どこまでも透き通っていた。
靴と靴下を脱ぎ、どこかに道がないかを探す。
さすがにあの川から流されてこんな美しい場所には辿り着かないだろう。そもそもこんな素敵な空間は記憶にない。
なにより夜だったはずが、今はどう見ても昼間になっている。
「やっぱり天国なのかな。それとも夢? ……溺れて意識を失ってる間にあの世とこの世を彷徨っているとか……?」
頬をつねると、痛い。
目は覚めない。ということは現実だ。
「…………え? いや、ここ、どこ……」
鳥や虫の声だけがやたらと響く森林で、焦りだけが募っていく。社員証を靴の中に放り込むと、再び湖に引き返した。
あまり深くはないが、潜って《入り口》のようなものがないか目を凝らす。
辿り着いたのだから、帰る事も出来るはずだ。
混乱する頭を落ち着かせるために隅から隅までを調べる事に集中した。
しかし、そこまで広くない湖の調査はすぐに終わってしまい、途方に暮れる。
それらしきものは見つからなかった。
「川に落ちた時と同じようにすればもしかしたら」
ハッと希望を抱いて湖に飛び込んでみる。
が、やはり何も起こらない。
トボトボと陸に上がり「再現性が足りなかったのかな」と独り言を溢しながら、今度は社員証を掴み、あの時の行動を思い出しつつ実行した。
しかし何も変わらない。
何度か色々と飛び込み方を試した後に、今度は勢いをつけて沈み、しばらく浮かび上がらない作戦でいく。
ぶくぶくと水泡が空の方へ上がっていった。
目を閉じると、何かに腕をグイと引き上げられる。
「大丈夫ですか!?」
子どもの声がしてそちらを向けば、そこには金髪碧眼の少年がいた。絵画のように美しい容姿をしている。
どうやら人が溺れていると思い、わざわざ助けにきてくれたらしかった。
心配そうにこちらの様子を伺っている。
天国ときたら、当然いるだろう存在を思い浮かべて12、13歳くらいの男の子を見つめ返した。
「あの、もしかして天使様ですか?」
「いえ、私はただの人間です」
開口1番おかしな事を口走ってしまったことを反省していると、少年は「とりあえず陸に上がりませんか」と落ち着いた様子で提案してくる。
付近の小学校で明日、不審者情報を流されてしまうかもしれない、という余計な心配を頭から振り払い、頷いた。
「ごめんなさい。あなたまで濡れちゃったね」
「いいんです。それよりお怪我は?」
「私は何も。あなたは?」
「私も平気です。……ところで、こちらで何を?」
「……あの、信じてもらえるか分からないけれど、実は、私、川に落ちてしまって。気が付いたらここに。ちなみにここはどちらでしょうか?」
「ここはノエルシア王国の僻地です。誰も足を踏み入れないような。それにしても川、ですか」
少年はまじまじと湖を観察し、首を傾げる。
同じように視線を水辺にやるが、どう見ても川には見えない。頭の心配をされる前に「どうして湖にいたのか自分でも分からなくて」と補足で説明を付け加えた。
それから、はたと動きを止める。
「……ノエルシア王国って?」
「この国の名称です。その様子ではこの国の住民ではなさそうですね。貴女はどちらから?」
「日本です……」
「ニホン?」
初めて聞く単語のようで、不思議そうに響きを確かめている。
ドッキリでも夢でもないのならば。
異世界に迷い込んでしまったとでもいうのか。
抜けるような青空に、生い茂る植物達、それから美しい少年を順に視界に入れ、口を閉ざした。
「……濡れたままでは風邪を引いてしまいますね。よろしければ私が暮らしている家が近くにありますのでいらしてください。タオルや着替えもご用意出来ますので」
「そんな、申し訳ないです。助けていただいた上にお世話にまでなるなんて」
相手は少年だが、信じられないくらいにしっかりしている。ついこちらまで敬語になってしまうくらいには。
「レディをこんなところに放置していくだなんて私の矜持が許しません。それに家には物知りな同居人もおりますので、何か助言をもらえるかもしれませんよ」
少年の微笑みはどこか上品で、天使というよりも王子様に見えてくる。
サラッとレディなんてキザな呼び方をされても、うっかりトキメいてしまうくらいに絵になっていた。
いつまでも見惚れているわけにはいかないので「それじゃあ、お言葉に甘えて……」と少年の後に続く。
案内された先にはツリーハウスがあった。絵本に出てきそうな、手作り感満載の小さな家だ。
つい少女の心が蘇ってワクワクしてしまう。
何やら魔法陣のような模様の書かれた木製のドアから中に入ると、そこには大きな三角帽子を被ったいかにも魔法使いらしい風貌の老齢の男性がいた。彼はこちらを見るなり難しい表情を浮かべる。
「師匠。湖で出会った女性を連れてきました。それと、お伝えしたいことが」
少年が老人の耳元で何事が囁くと、老人の表情はさらに険しくなる。
「それでは私は着替えを取りに失礼します」と男の子が言い残して去ると、部屋には重苦しい沈黙が流れた。
「お主、湖に何かしたか?」
静寂を破ったのは老人だ。
長い顎髭を撫でながら、小さな眼鏡をずり下げる。茜色の瞳が鋭く私を射抜いた。
「な、何も」
雰囲気に圧倒されて、後退りしてしまう。
「あの湖はオルビタールに汚染されていたじゃろう。弟子の話ではそれが清められていたと」
「おるびたーる? いえ、私にも何が何だか分からないのですが、その、川に落ちて。気が付いたらあの湖にいたのです」
「川?」
「はい。落とし物を追いかけて川に飛び込んだのです。そして浮かび上がったらあの湖だったというわけで。……もしかしたらここは私がいた世界とは違うのかもしれません」
「異世界から来たというのか?」
相変わらずの固い声色で問われて、控えめに頷いた。
「俄かには信じられませんが、そうとしか思えません。《ノエルシア王国》なんて聞いた事がないですし。……そういえば、落ちる直前に人の声を聞きました」
「人の声とな?」
「はい。聞き覚えはありませんでしたが。でも確かに《女神様、どうか国をお救いください》と。たしか、小さな女の子の声だったような」
正直に事情を打ち明ければ、老人は考える素振りを見せ、何度か咳払いをする。
そして再び口を開いた。
「《女神様、どうか国をお救いください》。……こんな声だったかの?」
記憶通りの声だ。
目の前の老人から、幼い少女の声が聞こえてくる。その信じられない光景に、思わず目を大きくしてしまう。
「はい、まさに」
なんとか捻り出した声は少し裏返っている。驚きを隠せないでいると、いつの間にか少年が戻ってきていた。タオルや服を抱えたまま、立ち尽くしている。
「師匠、何故その声を」
「ようやく戻ってきおったか。……このお嬢ちゃんが湖に辿り着く前に聞いたのだと」
「そうですか。それではやはり」
「ああ」
席を立った老人は、部屋の奥の何やらカラフルな瓶が並んだ棚から1つを手に取って戻ってくる。
理科の実験で使うようなフラスコには、光を通さない真っ黒な液体が入っていた。
「これがオルビタールじゃ。ここ30年くらいこの大陸はこれに悩まされておる。別の言葉に言い換えるならば瘴気のようなものかの。植物を枯らし、小動物を殺し、人の心を病ませやがて死に追いやる。どんなに偉大な魔法使いでもこれだけはどうにも出来ぬのじゃ。今の魔法技術では精々水辺に封印するのが限界。……これは汚染されていたあの湖から汲んできたもの。扱いには気をつけよ」
フラスコを受け取ろうと触れた途端、光の筋がガラスを包み、数秒もしないうちに中身を透明に変える。
受け取った時には既にただの水のようだった。
「……まさかこれほどまでとは」
「師匠、彼女が伝承の《女神様》でしょうか」
「こんな芸当が出来るのは、女神くらいじゃろうて」
老人は取り返したフラスコを眼鏡のガラス越しに眺めると、こちらを向く。少年も同じような流れで視線を私に定めた。
「あの、すみません。女神様っていうのは……?」
どうやら自分についての話をしているらしいということは理解出来ても、全く話が読めない。
恐る恐る口を挟めば、老人がぽつりぽつりと語り出した。
「この王国に長く伝わる予言じゃ。《国の危機に異世界より奇跡の力を持つ女神現る》とな。お主がそうなのであれば、王宮で召喚の儀が行われたはずじゃが、どうやらあの間抜けは儂の杖を使ったらしいの」
「間抜け?」
「現宮廷専属魔法長じゃ。あやつは儂の弟子だったが出来がイマイチでな。魔法使いに1番大切なものを修得できんかった」
「魔法使い……? えっと、1番大切なものとは?」
「おお。よく見たらお主、濡れ鼠じゃな。どれ、挨拶がわりに乾かしてやろう」
老人は口を挟む暇を与えず、何か呪文のようなものを唱え始めた。
何度か瞬きをしているうちに床から緑色に光る蔓のようなものが生えてきてあっという間に身体を包まれた。心地よい風を受けていると、いつの間にか髪も服も乾いている。
呆気に取られていると同じように緑に囲まれていた少年が「師匠、いきなり魔法を使わないでくださいっていつも言っていますよね」と眉を寄せた。
それから不必要になったタオルと着替えを近くの棚に置く。
「お主、名をなんと言う?」
師匠と呼ばれた老人はとぼけたように肩を上げるとわざとらしく話題を変えた。
こちらに向けられた目は先程とは違い、好奇に満ちている。
「え?」
「師匠、女性に名を尋ねるならばこちらが先に名乗るのが礼儀ですよ」
「こんな森の中で礼儀作法などあってないようなものじゃろ」
老人が口を尖らせてぶつぶつ言うのをスルーし、少年は美しい所作で挨拶をする。
「失礼いたしましたレディ。私はこちらの大魔法使い様の元で修行を積んでいます、アルと申します。そしてこちらが」
「儂は魔法使いのギルじゃ。ギル爺と呼んどくれ」
「……私はリナです」
「それではリナ、早速じゃがお主の力を見せてもらおうかの」
「あの、力っていうのは?」
「魔法の力じゃよ」
当然とばかりに微笑みを見せられ、気まずさに目線を下げた。
「あの、元いた世界には魔法はなかったので……その、使い方が分かりません。使える気もしません。先程見せてもらいましたが、そもそもまだ魔法を信じられていないというか……」
「それはいかんのう。せっかくじゃし、ひとつ見せてやろうかの。大サービスじゃ」
ギル爺は悪戯な笑みを浮かべると、またもや呪文を唱え始めた。
アルが「言ったそばから」と呆れているが、聞こえていないようだ。
いつものことなのだろう。少年の苦労を案じていると周りが暗くなる。3人を囲むように夜が訪れたようだった。しばらくするとポツポツと蕾が現れ、黄金の薔薇の花が咲き乱れる。
その花々の間を美しい蝶が行き来していた。
「綺麗……」
夜空を飛んでいると錯覚するほどの絶景につい見惚れてしまう。
「皆履き違えておるが魔法というのは本来、人を助け心を癒すものなのじゃよ。他者への想像力が原点だからの」
「そう、なんですね」
「どれ。やってみよ」
ギル爺のひとことで幻想は消え去り、元の風景に戻った。楽しげに笑う老人に促され、仕方なく試してみることにする。
「師匠、彼女はつい先程まで魔法を知らなかったのですよ。それなのにそのような最高難易度の魔法はさすがに」
「まあ、見ておれ」
呪文など分からない。
ただ、『魔法は想像力』と言っていたギル爺の声を思い返しながら手を握りしめた。
黄金の薔薇の花と、カラフルな蝶。
『出てこい!』
すると、光で出来たようなほんのりクリーム色の花々が出てきた。薔薇ではない中途半端な花弁。蝶の代わりに何故か鳩が羽ばたいている。
「あれ?」
「やはりな」
「やはりとは?」
「お主のソレは魔法に似て異なるものじゃ。どんなに偉大な魔法使いでも呪文を唱えなければ魔法を出せはせん」
「えっ?」
やらせておいて後出しで情報を出してくるのは反則だ。
抗議の目を向ければギル爺は悪びれもなく笑っている。
「試して悪かったのう。じゃがこれで分かった。お主はまごうことなき伝承の《女神》じゃ。その力はまさに奇跡。さっそくじゃが、浄化の力を見せとくれ。ここらの水場はオルビタールに冒された場所も多い」
「えっとでもやり方が……」
「何でもやってみないと物事は進まぬものじゃよ」
ギル爺はお茶目にウインクをすると、ウキウキと玄関に向かう。
残されたアルに視線を向ければ、彼は首を横に振り、困ったように眉を下げる。
「こうなると聞かないんです。色々な事が起こりお疲れのところ申し訳ないのですが、もう少しだけお付き合いいただけますか?」
そう問われれば、頷くしかない。
「お主ら何をしておる、早よ来い!」
外から弾んだ声が聞こえてきて、アルと2人目を合わせる。それから陽だまりの中に足を踏み出した。




