白ブタ、死ぬ
午後九時を少し回ったころ、白ブタは重大な問題に直面していた。
白ブタはコンビニのパン棚の前で、二つの惣菜パンを見比べている。一方は、ソーセージが丸ごと入った、いつも買っているパン。もう一方は、30円の値引きシールが貼られたメンチカツパン。30円引きなら、いつものソーセージパンとほぼ同じ値段である。しかも、それぞれを手のひらに乗せてみると分かる。メンチカツパンの圧倒的な重量感。
白ブタはもう五分ほど、両手をジャグリングのように上下させていた。
こっちにするか。
断腸の思いで、ソーセージパンを棚へ戻そうとする。だが、手から離れてくれない。どうしても無理なのだ。
月に自由に使える金は五千円ほどしかない。高校生のころから、なぜかそのまま続いている小遣いで、三十を過ぎた今でも、親からもらっている。コンビニに来るのは週に二回くらいで、毎日来たら、それだけで金がなくなる。だから一回の買い物は、白ブタにとってビッグイベントなのである。
そして今日は、なおのこと特別だ。
誕生日なのである。
子どものころは親が祝ってくれた誕生日も、今は誰も祝ってくれない。なら、自分で祝うしかない。動画でも見ながら、少し贅沢なものを食べて、酒を飲む。今日はそういう日なのだ。
白ブタは手に持った二つのパンを見比べた。
よし! 誕生日なんだから、今日は両方買っちゃおう。やってやるぞ!
そう決めると、少しだけ鼻息が荒くなった。両手の惣菜パンを籠に入れ、いつもの大きめのメロンパンも取る。さらにプライベートブランドの安いポテトチップスも入れて、ついでにチョコレートにも手を伸ばした。
いや、待て。
ここは我慢した。オレ、偉い!
最後に、大きな甘い炭酸飲料を一本。家にある安い焼酎を少しだけ拝借して、これで割るのだ。白ブタは酒そのものの味が苦手で、甘い炭酸で割らないと飲めない。滅多に飲まないし、焼酎が減っているのを親に気づかれると面倒だ。でも、今日は特別。誕生日くらい、酒で乾杯したっていいだろ。
恋人同士が誕生日にワインで乾杯する。あれをやりたい。
一人だが。
会計を済ませた袋は、いつもより少し重かった。ちょっと買いすぎたか。まあ、誕生日だし。
店を出ると、冷たい空気が頬に当たった。雨はまだ小降りだった。
普段なら、もう少し遅い時間に来る。近所の知っている顔に会いたくないから、人が減ってからの方がいい。だが、今夜は深夜から雨が強くなるらしい。仕方ない。雨には勝てない。
白ブタは歩きながら、レジ袋を片腕で胸に抱えた。空いた手で袋の口を広げ、中を覗き込む。
最初はメンチカツからいくか、いつものソーセージからいくか。交互という手もあるな。夢がどんどん広がっていくんだけど。ポテトチップスをときどき挟んで、食感の変化も楽しむべきだ。
視線はすっかり袋の中に釘付けで、頭の中では、もう誕生日会が始まっていた。
何かが左肩にぶつかった。
「痛っ」
身体が右へ流れ、二歩、三歩とたたらを踏む。立て直せる、そう思ったところで、かかとが縁石に引っかかった。
無理。
白ブタは、そのまま尻から落ちた。レジ袋が手から離れる。パンが飛んだ。ポテトチップスも飛んだ。乾杯を彩るはずの炭酸のペットボトルは、ころころと歩道の先へ転がっていった。
「ああっ」と、白ブタの情けない声がもれた。
そっちに気を取られかけて、白ブタはようやく顔を上げた。歩道を挟んだ壁際に、小柄な女子高生が倒れていた。鼻と口のあたりを両手で押さえている。
白ブタは固まった。
え。オレか?
すぐそばには、さっきまで持っていたレジ袋が落ちていて、中身はほとんど外へ飛び出していた。白ブタは、とりあえず袋へ手を伸ばした。その近くに、小さな白い欠片が落ちている。ゴミかと思って、何となく一緒につまんだ。
指に赤いものがついた。白い欠片にも、血がついていた。もう一度、女子高生を見る。鼻と口を押さえたまま、うずくまっている。
歯だ。
そう分かった瞬間、白ブタの顔がこわばった。唾を飲み込もうとしても、喉が動かない。息が浅くなる。
警察。親。賠償金。怒られる。
どうしたらいい。何を言えばいい。逃げたい。いや、逃げたらまずい。でも、ここにいたくない。
身体は動かなかった。手の中には、まだ歯があった。白ブタはそれを見た。血のついた、小さな歯。なぜか、それをレジ袋の中へ落とした。パンのことも、ポテトチップスのことも、転がっていった炭酸のことも、もう頭になかった。
助けてくれ。
誰か、助けてくれ。
白ブタは立とうとしたが、立てなかった。脚に力が入らない。
ここから離れなきゃ。
あの子から離れなきゃ。
白ブタはレジ袋を握ったまま、両手を地面についた。そのまま四つん這いでよたよたと進み、歩道を離れ、車道へ出て、手前の車線も越えていく。
助けてくれ、誰か。
かあちゃん!
大きなクラクションが鳴り、ブレーキの音がした。
そこで、白ブタの意識は途切れた。
* * *
目を開けると、土があった。
頬に湿った地面が触れている。木、草、落ち葉。山の匂いがした。頭が重く、身体もだるい。白ブタはしばらく伏せたまま、ぼんやり考えた。
「……また、やったんか」
以前、一度だけ酒で記憶を飛ばしたことがある。翌朝、親から前の晩に自分が何をしたか聞かされ、自分だけ何も覚えていないことに青ざめた。
昨日は誕生日だった。家に帰って、焼酎を炭酸で割って飲むつもりだった。なら、また飲みすぎたのかもしれない。事故のあと、たぶん家へ帰った。酒を飲んだ。それから記憶を飛ばして、外へ出た。そういうことなんだろう。抜け落ちた時間を、頭の中で勝手につないでいく。
ふと、右手に何かを握っていることに気づいた。コンビニの白いレジ袋だった。
昨日、何を買ったんだっけ。
そう思って袋の口を開くと、底に、白い欠片が一つだけ転がっていた。赤黒いものがこびりついている。
数秒、意味が分からなかった。次の瞬間、女子高生の両手、その下から垂れた血、白い欠片が一気につながった。白ブタは袋を放り出した。喉の奥から、声にならない音が漏れた。
肩がぶつかった。女の子が倒れた。歯を拾った。逃げた。道路へ出た。クラクション。
そこから先がない。
記憶が飛んでいる。昨日はそうとう飲んだんだろう。周囲を見回す。近所の裏山だろうな。白ブタはレジ袋を拾い直したが、中の歯は見ないようにした。とにかく下へ行けば、道路か住宅地に出る。そう思って歩き始めた。
だが、下っているつもりだった道はすぐ平らになり、また別の斜面へ続いた。少し下り、少し登り、木の間を抜ける。
どっちが下りだよ。
白ブタは、勘で斜面を下った。何度か立ち止まるうちに、息が上がった。パーカーの中は汗ばんでいて、口も乾いてきた。腹も減った。
仕方ない、親に電話しよう。
ポケットを探って、そこでスマホを家に置いてきたことを思い出した。コンビニへ行くだけだったから、スマホなんて使わない。仕方なく、また歩き出す。それでも道路は出てこない。白ブタの知っている裏山は、高さ二百メートルもない。こんなに歩けるほど、広いはずがなかった。
ふと、死んだ爺さんのことを思い出した。
子どものころの白ブタは、今とは違って、活発に外を出歩く子どもだった。目を離すと、どこかへ行ってしまう。探しに行くのが面倒になった爺さんは、あるとき白ブタを脅した。
一人で山へ入ると、神隠しに遭う。道がなくなって、どれだけ歩いても帰れなくなる。そこはもう、人間のいる場所じゃない。山の神様の世界。神様は人間みたいな姿とは限らず、狐みたいな顔で現れることもある。
幼かった白ブタは、それを本気で信じた。夜になっても思い出して眠れなくなるくらい怖かった。爺さんは、怖がれば怖がるほど面白かったらしい。その後も白ブタが一人で出歩こうとするたび、笑いを堪えながら神隠しの話をした。
大きくなれば分かる。全部、勝手に歩き回る孫を止めるための、爺さんのいい加減な作り話だった。白ブタも、とっくにそう思っていた。
なのに今、その話が頭から離れない。道がない。電柱も家もない。知っている裏山より、明らかに広い。
「……神隠し」
口に出した途端、子どものころの恐怖まで一緒に戻ってきた。
馬鹿らしい。そんなものがあるわけがない。そう思うのに、ほかに説明がつかなかった。
「いや、おかしい。こんな広い山じゃない」
白ブタはその場にへたり込んだ。喉はからからで、腹も減っている。少し休むだけのつもりで木にもたれ、いつの間にか眠っていた。
びゅう、と強い風が森を抜けた。葉が鳴る。白ブタは顔をそむけるようにして目を覚ました。
「……寝てたんか、オレ」
まだ寝ぼけたまま顔を上げると、三十メートルほど先に、何かが立っていた。
小さい。二本の脚で立っていて、服を着ている。そして、顔は犬か狐に見えた。
眠気が消えた。さっきまで頭の中にあった爺さんの声が、そのまま蘇る。
山には神様がいる。人間みたいな姿とは限らない。狐みたいな顔で現れることもある。
白ブタは、目の前のものを見た。
疑う余地がなかった。
「……神様」
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