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婚約破棄されました——ええ、最初からあなたより好きな人がいました。でも“選ばせてもらえなかった”だけです

作者: カルラ
掲載日:2026/05/07

 舞踏会の灯りは、いつもより眩しく感じた。

 水晶のシャンデリアが黄金色の光を降らせ、絹のドレスがその光を受けてゆっくりと揺れる。楽団の音が空気を揺らし、笑い声と足音が混じり合う。どこを見ても、幸せそうな顔ばかりだった。

 アリア・フォン・ヴェルナーは、そのすべてを遠い場所から眺めているような気持ちで立っていた。

 隣には王太子エドワードがいた。整った顔立ちに軍服が似合う、誰もが認める貴公子。彼と並んで立つことが、この三年間のアリアの役割だった。笑顔を絶やさず、言葉を選び、常に場に相応しく振る舞う。それが、公爵令嬢として婚約者として、アリアに求められたことだった。

 エドワードが静かに口を開いたのは、広間のざわめきが少し落ち着いた頃だった。

「アリア、少し話がある」

 その声に、アリアは小さく首を傾けた。

「……今夜、婚約を解消したい」

 周囲の音が、すうと遠のいた気がした。

 エドワードは続けた。声は低く、しかし揺らぎがない。まるで、ずいぶん前から決めていたことを読み上げるように。

「君は完璧な婚約者だった。礼儀も教養も、申し分ない。だが——愛を感じたことがなかった。君の笑顔が、いつも少し遠い場所にあるように思えた。そして私は気づいてしまった。君は私を——本当には、見ていないのではないかと」

 広間が静まり返っていく。最初は近くの人々が、次いで中ほどの人々が、それから端の方まで、波紋のように静寂が広がっていった。

 エドワードはさらに言葉を重ねた。

「もし君が、他に想う相手がいるのなら——私は、それを責める気にはなれない」

 アリアはしばらく黙っていた。

 この場で泣くべきか。怒るべきか。否定すべきか。三年間、いつだって「すべき」を考えてきた。場に相応しい感情を選び、適切な言葉を纏い、望ましい令嬢を演じてきた。

 でも今夜は——何故か、そうする気になれなかった。

「……はい」

 アリアは静かに言った。

「その通りです」

 会場が、息を呑んだ。

 誰かが小さな悲鳴を上げた。扇がばさりと開く音がした。隣に立つエドワードでさえ、僅かに目を見開いた。否定しないとは思っていなかったのだろう。

 アリアは続けた。穏やかに、しかし今度は自分の言葉で。

「私は、別の方を想っています」

 また波紋が広がった。今度はざわめきを伴って。令嬢たちが顔を寄せ合い、紳士たちが眉を上げる。口元を隠した陰口が、風のように漂い始める。

 だがアリアは、その視線をほとんど感じていなかった。

「ただ——」

 彼女は続けた。声が、少し変わった。抑えていたものが、ほんの少しだけ滲み出るように。

「関係は何もありません。何かを行動したことも、一度もありません。ただ、想っていた。それだけのことです」

 エドワードが口を開きかけた。だがアリアは、静かに先を続けた。

「想ってはいけないと、分かっていました。だから、ずっと何も選びませんでした」

 広間は完全に沈黙した。

 楽団の音も止まっていた。いつの間に止んだのか、アリアには分からなかった。ただ、今この場にいる全員が自分を見ている、その重さだけをぼんやりと感じていた。

「浮気などではありません」とアリアは言った。「あなたを裏切ったことは、一度もない。でも——心が、一度もここには来なかった。それだけは、正直に申し上げます」

 エドワードは、何も言わなかった。

 アリアはそっと一礼し、踵を返した。誰かに止められる気がしなかった。誰も声をかけてこなかった。ただ道が開けるように、人々が左右に退いて、アリアのために一本の道ができた。

 外に出ると、夜風が冷たかった。

 石畳の上に立って、アリアは深く息を吸った。三年ぶりに、肺の底まで空気が入ってくるような気がした。


 あの方のことを最初に想ったのは、いつだっただろうと、アリアはよく考えた。

 記憶の中では、いつも夏だった。

 アリアが七歳の頃、父の所領の外れに小さな演習場があった。貴族の子弟が騎士の訓練をする場所で、アリアには本来近づく必要のない場所だった。だが彼女はある午後、迷子になってそこへ踏み込んだ。

 木剣を振る少年が一人いた。

 彼は練習相手もなく、一人で黙々と素振りを繰り返していた。汗が首筋を伝い、地面には既に無数の足跡が刻まれていた。相当な時間、ここで打ち続けていたのだろう。

 アリアが足を止めて見ていると、少年は気配に気づいて振り返った。

「……なんだ、お嬢さん」

 呼び方が乱暴だったが、声に悪意はなかった。ただ少し驚いていて、それだけだった。

「迷子になりました」とアリアは言った。正直に言うのが正しいと思ったからではなく、なんとなく、この少年には嘘をつく気になれなかったからだった。

「そうか」と少年は言い、木剣を地面に突き立てた。「どこまで戻ればいい?」

「ヴェルナー邸です」

「ああ、公爵のとこか」少年は少し考えてから言った。「送ってやる」

 それが、レオンだった。

 騎士見習いの家の子で、名もなく、身分もなく、しかし何故か少しも臆することなくアリアの隣を歩いた。道すがら、アリアが質問すると短く答え、自分からは何も語らなかった。でも歩幅を合わせてくれていた。アリアが石につまずきそうになった時、気づいて少し歩く場所を変えた。言葉にはしなかったが、見えていた。

 邸の前まで来ると、レオンは一度だけ振り返った。

「着いたぞ」

「ありがとうございます」

「また迷子になっても、あそこにいるから来い」

 それだけ言って、彼は歩き去った。

 アリアは小さく笑った。自分でも気づかないくらい、小さな笑みだった。でも、その時笑えたことを、ずっとずっと後になっても覚えていた。


 その後も、二人は何度か会った。

 アリアが一人で屋敷の庭に出ると、演習場の方角から木を打つ音が聞こえた。レオンはいつもそこにいた。アリアが近づくと、特に驚きもせず「また来たか」と言い、特に歓迎もせず、ただそこに居た。

 それが心地よかった。


 アリアは、その頃まだ「義務」という言葉の重さを知らなかった。

 笑うのが好きだった。声を立てて笑うのは令嬢らしくないと母に言われてはいたが、レオンと話す時はつい笑ってしまった。彼の言い方が、いつも少し不器用で、でも真っ直ぐで、うっかり笑いたくなるような何かを持っていたからだ。

「剣の稽古は、楽しいですか」とアリアは一度聞いた。

「楽しいかどうかは分からん」とレオンは言った。「ただ、やめようと思ったことがない」

「それは、好きということでは?」

「かもしれん」少し考えてから、「お前はどうだ。やめようと思わないことはあるか」

 アリアは考えた。

「……ここに来ることは、やめようと思いません」

 レオンは特に何も言わなかった。ただ少し目線を逸らして、また素振りを再開した。頬がほんの少し赤かったが、夏の暑さのせいかもしれなかった。

 アリアは、そういう時間が好きだった。

 何も演じなくていい時間。正しい令嬢でいなくていい時間。ただ七歳の、あるいは八歳の、あるいは九歳の自分として、草の上に座って、木剣の音を聞いていればいい時間。

 でも、その時間に終わりが来た。


 アリアが十歳の秋、父が書斎に呼んだ。

 公爵の書斎は天井が高く、壁一面に本が並んでいた。子供の頃のアリアには、その空間がひどく厳かに感じられた。父はいつも正しく、いつも遠く、この部屋においては特にそうだった。

「アリア、おまえに話がある」

 父の声は穏やかだったが、有無を言わせない響きがあった。

「王太子殿下との婚約が決まった」

 アリアは、何も言えなかった。

「おまえはこの家の娘として、この国に何かを返さなければならない。それは義務ではなく、誇りだ」

 父はそう言った。父は嘘をついていなかった。本当にそう信じていたのだろう。誇りという言葉が、義務という実態を覆っていることに、気づいていなかったのかもしれない。あるいは、気づいた上で目を向けなかったのかもしれない。

「……はい、お父様」

 アリアは頷いた。

 それ以外の選択肢が、なかった。


 その日の夕方、アリアは演習場へ行った。

 レオンはいつものように素振りをしていた。アリアの足音に気づいて振り返り、いつものように「また来たか」と言いかけて、何かを察して口を閉じた。

「どうした」

 アリアは草の上に座った。膝を抱えて、空を見た。雲が西の方へゆっくりと流れていた。

「婚約が決まりました」

 レオンは何も言わなかった。

「王太子殿下と」

 また、沈黙。

「だから、もうここには来られなくなります」

「……そうか」

 レオンの声は、いつもより少し低かった。アリアは彼の顔を見なかった。見れなかった。

「おめでとう、と言うべきか」

「分かりません」

「そうか」

 二人はしばらく黙っていた。木の葉が風に揺れる音だけがあった。

 アリアは立ち上がった。スカートの裾についた草を払い、礼儀正しく一礼した。

「お世話になりました」

「アリア」

 名前を呼ばれたのは、初めてだった。いつも「お前」か「お嬢さん」だった。アリアは少し驚いて、思わず顔を上げた。

 レオンはアリアを見ていた。真っ直ぐに、いつもと同じ目で。ただ、何かが違った。何かを言いたくて、でも言わないと決めているような、そういう目だった。

「……元気でいろ」

 それだけだった。

 アリアは頷いた。唇を一度結んで、それから歩き出した。振り返らなかった。振り返ったら、何かが崩れる気がしたから。

 演習場を出た後、アリアはしばらく木の陰に立っていた。泣かなかった。泣く理由が、言葉にできなかったから。ただ胸の奥に、熱くて重いものが沈んでいく感覚があった。

 その日から、アリアは自分の中に小さな部屋を作った。

 誰も入れない部屋。鍵をかけて、窓も塞いで、そこにあの夏の記憶をしまった。そしてその部屋の扉の前に、完璧な令嬢のアリアが立った。微笑みを絶やさず、言葉を選び、感情を抑える。それが、これからのアリアの生き方だった。


 王太子エドワードは、確かに申し分のない人だった。

 博識で、礼儀正しく、政務に誠実で、側近からの信頼も厚い。婚約者として不満を言える部分が、客観的にはどこにもなかった。

 最初の頃、アリアはそれで十分だと思っていた。感情などいらない。役割を果たすことが自分の生き方なのだと、信じようとしていた。

 でもエドワードとの時間を重ねるうちに、アリアの中に名前のつかない疲労が積もっていった。

 原因は、彼の「正しさ」だった。

 エドワードはいつも正しかった。判断が正確で、倫理的で、公平だった。それは本当のことで、アリアはそれを尊敬してもいた。ただ——彼の正しさは、時折アリアの感情を処理する前に、答えを出してしまうことがあった。

 ある日のこと。アリアが慈善事業の視察から戻り、少し疲れた様子を見せた時、エドワードは言った。

「公爵令嬢として、民の暮らしを知ることは重要だ。よく務めてくれた」

 労いだった。間違いなく。アリアを認める言葉だった。

 でも、アリアが欲しかったのはそれではなかった。疲れたと言いたかった。今日は子供が大勢いて少し賑やかすぎたと笑いたかった。意味のない、役に立たない、ただの言葉を交わしたかった。

 だがエドワードはそういう話を好まなかった。いや、好まないというよりも、その必要性を理解していなかった。彼にとって、会話とは情報であり、判断であり、行動への入り口だった。意味のない言葉は、彼の中に居場所がなかった。

 そして決定的だったのは、ある秋の夕暮れのことだった。

 アリアは何気なく言った。ふと思い出したように、声に出しただけだった。

「いつか、どこか遠くへ行ってみたいですね。地図にも載っていないような場所へ」

 エドワードは少し考えてから答えた。

「王太子妃が理由なく国外へ出ることは難しい。視察であれば可能性はあるが、まず目的と意義を明確にする必要がある。外務省と調整して——」

「……そうですね」

 アリアは微笑んだ。いつもの、正しい微笑みで。

「ご指摘の通りです」

 エドワードは満足そうに頷いた。彼は何も悪いことをしていなかった。ただ現実的に考えただけで、それは彼の誠実さの表れだった。

 だがアリアの心は、その時また少し、遠くへ行った。

 地図にも載っていない場所、と言った時、アリアはどこかの草原を想像していた。風が吹いていて、木剣の音がして、誰かが「また来たか」と言う——そんな場所を。

 でも、その言葉は声にならなかった。その部屋の扉は、いつも閉まっていたから。


 婚約破棄の夜から、三日が経った。

 アリアはヴェルナー邸にいた。父は何も言わなかった。母は少し泣いた。使用人たちは気を遣って静かにしていた。屋敷全体が、腫れ物に触るような空気の中にあった。

 アリアは一人、窓辺の椅子に座っていた。

 不思議と、泣けなかった。悲しくないわけではなかった。ただ、何が悲しいのかが自分でもよく分からなかった。婚約を失ったことが悲しいのか、三年間演じ続けた自分が哀れなのか、それとも、ずっと閉めていた部屋の扉の前に今も立ち続けていることが——

 こわいのか。

 初めて、その感覚に名前をつけた。

 選んでいいのか分からない。

 三年間、選ばないことが正しさだった。感情を封じることが誠実さだった。婚約者としての役割を果たすことが、アリアのアリアであることだった。

 では、その役割がなくなった今、自分は何を選んでいいのか。選ぶことが、本当に許されるのか。

 窓の外では、庭師が落ち葉を掃いていた。箒の音が、規則正しく聞こえてきた。

 アリアはそっと目を閉じた。

 瞼の裏に、あの演習場が浮かんだ。草の匂いと、木を打つ音と、あの真っ直ぐな目が。

 レオンは今、どこにいるのだろう。

 王宮の騎士団に入ったと、いつかどこかで耳にしていた。それ以上のことは知らなかった。三年間、知ろうとしなかった。知れば、閉めた扉を意識してしまうから。

 アリアは立ち上がった。

 理由を考える前に、体が動いていた。いつもなら「すべき」を考えてから動く。でも今は、考えるより先に足が向いていた。

 どこへ、とは言葉にしていなかった。

 ただ、行きたい場所が、久しぶりに心の中にあった。


 王都の外れに、今も演習場はあった。

 子供の頃と変わらない石塀。変わらない鉄の門。ただ規模が少し大きくなっていて、騎士団の紋章が掲げられていた。

 アリアは門の外に立った。中に入る勇気が、すぐには出なかった。

 そこへ、中から人が出てきた。

 革の鎧を片腕に抱え、汗を拭いながら歩いてくる、長身の男。顔を上げた瞬間、アリアと目が合った。

 十五年前と同じ目だった。驚いて、それから静かになる目。

「……アリア」

 レオンは立ち止まった。

 アリアも立ち止まった。

 何を言えばいいか分からなかった。準備もしていなかった。ただ立っていた。

 レオンは少しの間黙っていた。それから、やはりいつかのように言った。

「無理に来なくていい」

 アリアは目を瞬かせた。

「今は色々あっただろう。気が向いた時でいい」

 急かさなかった。引き留めもしなかった。ただそこに立って、アリアの選択を待っていた。

 アリアは、ゆっくりと息を吐いた。

 三年間、誰かにそう言われたことがなかった。「来なくていい」と言われたことも、「気が向いた時で」と言われたことも。いつも「すべき」があって、「役割」があって、「期待」があった。

 でも彼はただ、待っていた。

 それだけで、アリアの目が少し熱くなった。


 王太子エドワードは、その夜初めて、自分が何かを見落としていたことに気づいた。

 婚約破棄の翌朝から、彼は執務に戻った。それがエドワードのやり方だった。感情を引きずることなく、次にすべきことへ進む。それが責任というものだと、ずっとそう思っていた。

 だが、三日目の夜、書類に向かいながら、ふとアリアの言葉が戻ってきた。

 想ってはいけないと分かっていたので、ずっと何も選びませんでした。

 エドワードはペンを止めた。

 何も選ばなかった、とアリアは言った。それは誠実なことだとエドワードは思った。感情を律して、役割を果たす。それこそが高貴さの証ではないか——と、思いかけて、止まった。

 待て、と彼は自分に言った。

 アリアは「選ばなかった」のではなく「選べなかった」と言っていた。

 同じことではない。

 エドワードは椅子の背にもたれた。窓の外に夜の王都が広がっていた。灯りが点々と輝いていた。

 三年間を、頭の中で手繰り寄せた。

 アリアはいつも正しかった。礼儀も所作も言葉も、何一つ誤りがなかった。だからエドワードは安心していた。完璧な婚約者がいる、自分は正しい選択をしたと、そう信じていた。

 でも——完璧すぎた、のかもしれない。

 人は、完璧にはなれない。疲れる時がある。間違える時がある。意味のない言葉を言いたい時がある。アリアにも当然そういう瞬間があったはずだった。ただ、彼女はその度に飲み込んでいた。正しい婚約者でいるために。

 そしてエドワードは、それを「当然のこと」として受け取っていた。

 一度でも「疲れたか」と聞いたことがあったか。一度でも、意味のない話をしようと誘ったことがあったか。

 答えは出なかった。記憶の中を探しても、そういう場面が見当たらなかった。

 エドワードは目を閉じた。

 自分は間違っていなかった。だがそれは、自分が正しかったということとは、違うのかもしれなかった。

 翌朝、彼はヴェルナー邸へ向かった。


 応接間に通されると、アリアはすでに来客を知っていたのか、落ち着いた顔で待っていた。

 エドワードは椅子に座り、しばらく黙った。言葉を選んでいた。いつもは迷わないのに、今日は何故か、最初の一言が出てこなかった。

「……突然来て、すまなかった」

「いいえ」とアリアは言った。「お茶でも——」

「いい」エドワードは短く遮ってから、「話をしに来た」と付け加えた。

 アリアは静かに手を膝の上に置いた。

 エドワードはまっすぐ彼女を見た。

「三日、考えた。君のことを」

「……はい」

「君が言った言葉を、何度も思い返した。想ってはいけないから、何も選ばなかった、と」

 アリアは目を伏せなかった。ただ静かに、彼の言葉を聞いていた。

「私は——君に、選ぶ余地を与えていなかったのかもしれない」

 エドワードはそこで一度止まった。こういうことを口にするのは、彼には慣れていなかった。だが続けた。

「君が完璧だったのは、君が優れていたからではなく、君がそうせざるを得なかったからだったかもしれない。私はそれを……正しいことと受け取っていた」

 アリアは、微かに息を吸った。

「今ならやり直せる」

 エドワードは言った。

「私も、変わろうと思う。君の話を、もっと聞こうと思う。これまで私が見落としていたものを——」

「エドワード殿下」

 アリアが、静かに遮った。

 初めて、彼の言葉を途中で止めた。三年間、一度もそんなことをしたことがなかった。

 エドワードは黙った。

 アリアは膝の上の手を、ゆっくりと握った。

「いいえ」

 声は穏やかだった。震えていなかった。

「私は——初めて、自分で選びます」

 エドワードは何も言えなかった。

 アリアは続けた。

「あなたは間違っていません」

 それははっきりと言った。責める言葉ではなかった。本当にそう思っていたから。

「あなたは誠実でした。真面目で、責任感があって、私を傷つけようとしたことは一度もなかった。それは本当のことです」

「だが——」とエドワードは言いかけた。

「でも、私は幸せではありませんでした」

 その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。

 アリアはエドワードを見た。まっすぐに。おそらく三年間で、初めて本当にまっすぐ。

「あなたが悪いのではありません。でも私には、あなたの隣が合っていなかった。そのことに、もっと早く正直になれていたら良かったと、今は思っています。それができなかったことは、私の不誠実でした」

「アリア——」

「婚約を解消してくださったこと、感謝しています」

 エドワードは口を閉じた。

 反論する言葉が、出てこなかった。出てこないのは、アリアの言葉が正しかったからではなく、アリアの言葉が真実だったからだと、彼はゆっくりと理解した。

 正しいかどうかの話ではなかった。

 幸せかどうかの話だった。

 そして、それは自分には決められないことだった。

 エドワードは長い沈黙の後、静かに言った。

「……そうか」

 たった二文字だった。

 だがその二文字の中に、エドワードのすべてがあった。納得と、後悔と、それから——アリアへの、不器用な敬意が。

 彼は立ち上がり、一礼した。普段の王太子としての礼ではなく、ただの一人の人間としての礼だった。

「幸せになれ」

 それだけ言って、エドワードは部屋を出た。

 アリアは彼が扉を閉めるのを見届けた。足音が廊下を遠ざかっていく音を聞いた。馬車が走り去る音を、窓越しに聞いた。

 それからしばらく、動かなかった。

 泣くかと思ったが、泣かなかった。

 ただ、胸の中に長く閉じていた部屋の、鍵が静かにほどける音がした気がした。


 次の日の朝、アリアは一人で王都の外れへ歩いた。

 使用人もつけなかった。馬車も使わなかった。秋の空は高く、風が少し冷たく、落ち葉が石畳の上を転がっていた。アリアはそれを踏みながら歩いた。音が好きだった。子供の頃から、落ち葉を踏む音が好きだったことを、久しぶりに思い出した。

 演習場の前に着くと、中から声が聞こえた。

 稽古の掛け声と、剣が打ち合う音。何人かがいるようだった。アリアは門の外で少し待った。

 やがて休憩になったのか、人の気配が散った。

 それからしばらくして、革の上着を羽織ったレオンが門から出てきた。水筒を持っていて、アリアを見て立ち止まった。

「来たか」

 三日前と同じ言い方だった。驚かなかった。ただそこにいた。

「来てしまいました」

「無理に来なくていいと言ったが」

「分かっています」とアリアは言った。「でも、来たかったから来ました」

 レオンは少し目を細めた。何かを言いかけて、言わなかった。代わりに隣の石壁を少し叩いて、「座るか」とだけ言った。

 二人は石壁に並んで腰を下ろした。

 高い秋空の下、しばらく何も言わなかった。風が吹いて、木の葉が揺れた。遠くで鳥が鳴いた。

 アリアは空を見上げた。

 子供の頃も、こうして黙っていたことがあった。言葉がなくても不安にならなかった。この人の隣は、沈黙が重くなかった。

「レオン」

 呼ぶと、彼は短く「ああ」と答えた。

「一つ、聞いてもいいですか」

「何だ」

「あなたは——あの頃、私のことを、どう思っていましたか」

 レオンは少し間を置いた。

「正直に言うか」

「はい」

 また間があった。風が一つ吹いた。

「好きだった」

 さらりと言った。自慢でも告白でもなく、事実を述べるように。

「でも、お前には行き先が決まっていた。俺には何もなかった。だから何も言わなかった」

「……そうでしたか」

「後悔したかと聞くなら——した。でも、お前が選べない立場にいることは分かっていたから、引き留める気にはなれなかった」

 アリアは目を伏せた。

 胸の奥で、長い間沈んでいた何かが、ゆっくりと浮き上がってくる感覚があった。

「私も」

 声が少し掠れた。

「私も、ずっと——」

「知ってる」

 レオンが静かに言った。

 アリアは顔を上げた。彼は空を見たまま、少し目を細めていた。

「お前が演習場に来るたびに、笑い方が変わっていくのが分かった。最初は声を出して笑っていたのに、だんだん笑い方が小さくなっていった。婚約が決まった後、お前の笑顔はきれいだったけど——前のとは、別物だった」

 アリアは何も言えなかった。

「ずっと閉じてたんだろう」

 否定できなかった。

「うん」と、アリアは小さく言った。令嬢らしくない返事だったが、今はそれでよかった。

 レオンはそこで初めてアリアの方を向いた。

「急がなくていい」

「……え」

「さっき来たくて来たと言ったが、それが本心なのか、流れでそう思っただけなのか、自分でもまだ分からんだろう。三年分、色々あったんだから」

 アリアは彼を見つめた。

「急かさないんですね」

「当たり前だ」

「……みんな、決めさせたがるのです。どうするのか、どこへ行くのか、何を選ぶのか。すぐに」

「俺は違う」レオンは短く言った。「お前が決めたことが、お前の答えだ。いつ決めても」

 アリアの目が、じわりと熱くなった。

 泣くまいと思った。でも今度は止められなかった。一粒、頬を伝った。慌てて拭こうとすると、レオンが静かに言った。

「泣いていい」

「令嬢が人前で——」

「俺は人前じゃない」

 それが何故か、おかしかった。

 アリアはこらえきれずに笑った。泣きながら笑った。声を出して笑った。子供の頃みたいに、何も考えずに。

 レオンも少し笑った。目元が緩んで、口の端が上がって、それだけだったが、アリアにはそれで十分だった。


 しばらく笑って、泣いて、それからまた黙った。

 風が止んで、秋の光が石畳を静かに照らしていた。アリアは目元を袖で拭いて、もう一度空を見た。高く、青く、遠くまで続いていた。

 胸の中の小さな部屋の扉が、今度こそ、ゆっくりと開いていく気がした。

 アリアは、隣に座るレオンを見た。

 彼はまた空を見ていた。急かさず、待たず、ただそこにいた。

「レオン」

「ああ」

「今度は——」

 一度止まった。言葉を探した。正しい言葉ではなく、自分の言葉を。

「今度は、選んでもいい?」

 レオンはアリアを見た。

 真っ直ぐな目だった。十五年前と同じ目だった。ただあの頃より少し深くなっていて、その深さの中に、長い年月分の何かが静かに沈んでいた。

「お前が選ぶなら」と彼は言った。「俺はここにいる」

 それだけだった。

 飾りのない言葉だった。約束とも宣言とも違う、ただの事実だった。でも、アリアにはそれが何よりも確かなものに聞こえた。

 アリアは小さく頷いた。

 これが初めて、自分で選んだ恋だった。

 誰かに決められたのではなく、義務でもなく、役割でもなく、ただ自分の心が向かう方へ、自分の足で歩いた先にある——初めての、自分だけの選択だった。

 風がまた吹いた。

 落ち葉が二人の足元を転がって、どこかへ消えていった。

終幕


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