婚約破棄されました——ええ、最初からあなたより好きな人がいました。でも“選ばせてもらえなかった”だけです
舞踏会の灯りは、いつもより眩しく感じた。
水晶のシャンデリアが黄金色の光を降らせ、絹のドレスがその光を受けてゆっくりと揺れる。楽団の音が空気を揺らし、笑い声と足音が混じり合う。どこを見ても、幸せそうな顔ばかりだった。
アリア・フォン・ヴェルナーは、そのすべてを遠い場所から眺めているような気持ちで立っていた。
隣には王太子エドワードがいた。整った顔立ちに軍服が似合う、誰もが認める貴公子。彼と並んで立つことが、この三年間のアリアの役割だった。笑顔を絶やさず、言葉を選び、常に場に相応しく振る舞う。それが、公爵令嬢として婚約者として、アリアに求められたことだった。
エドワードが静かに口を開いたのは、広間のざわめきが少し落ち着いた頃だった。
「アリア、少し話がある」
その声に、アリアは小さく首を傾けた。
「……今夜、婚約を解消したい」
周囲の音が、すうと遠のいた気がした。
エドワードは続けた。声は低く、しかし揺らぎがない。まるで、ずいぶん前から決めていたことを読み上げるように。
「君は完璧な婚約者だった。礼儀も教養も、申し分ない。だが——愛を感じたことがなかった。君の笑顔が、いつも少し遠い場所にあるように思えた。そして私は気づいてしまった。君は私を——本当には、見ていないのではないかと」
広間が静まり返っていく。最初は近くの人々が、次いで中ほどの人々が、それから端の方まで、波紋のように静寂が広がっていった。
エドワードはさらに言葉を重ねた。
「もし君が、他に想う相手がいるのなら——私は、それを責める気にはなれない」
アリアはしばらく黙っていた。
この場で泣くべきか。怒るべきか。否定すべきか。三年間、いつだって「すべき」を考えてきた。場に相応しい感情を選び、適切な言葉を纏い、望ましい令嬢を演じてきた。
でも今夜は——何故か、そうする気になれなかった。
「……はい」
アリアは静かに言った。
「その通りです」
会場が、息を呑んだ。
誰かが小さな悲鳴を上げた。扇がばさりと開く音がした。隣に立つエドワードでさえ、僅かに目を見開いた。否定しないとは思っていなかったのだろう。
アリアは続けた。穏やかに、しかし今度は自分の言葉で。
「私は、別の方を想っています」
また波紋が広がった。今度はざわめきを伴って。令嬢たちが顔を寄せ合い、紳士たちが眉を上げる。口元を隠した陰口が、風のように漂い始める。
だがアリアは、その視線をほとんど感じていなかった。
「ただ——」
彼女は続けた。声が、少し変わった。抑えていたものが、ほんの少しだけ滲み出るように。
「関係は何もありません。何かを行動したことも、一度もありません。ただ、想っていた。それだけのことです」
エドワードが口を開きかけた。だがアリアは、静かに先を続けた。
「想ってはいけないと、分かっていました。だから、ずっと何も選びませんでした」
広間は完全に沈黙した。
楽団の音も止まっていた。いつの間に止んだのか、アリアには分からなかった。ただ、今この場にいる全員が自分を見ている、その重さだけをぼんやりと感じていた。
「浮気などではありません」とアリアは言った。「あなたを裏切ったことは、一度もない。でも——心が、一度もここには来なかった。それだけは、正直に申し上げます」
エドワードは、何も言わなかった。
アリアはそっと一礼し、踵を返した。誰かに止められる気がしなかった。誰も声をかけてこなかった。ただ道が開けるように、人々が左右に退いて、アリアのために一本の道ができた。
外に出ると、夜風が冷たかった。
石畳の上に立って、アリアは深く息を吸った。三年ぶりに、肺の底まで空気が入ってくるような気がした。
あの方のことを最初に想ったのは、いつだっただろうと、アリアはよく考えた。
記憶の中では、いつも夏だった。
アリアが七歳の頃、父の所領の外れに小さな演習場があった。貴族の子弟が騎士の訓練をする場所で、アリアには本来近づく必要のない場所だった。だが彼女はある午後、迷子になってそこへ踏み込んだ。
木剣を振る少年が一人いた。
彼は練習相手もなく、一人で黙々と素振りを繰り返していた。汗が首筋を伝い、地面には既に無数の足跡が刻まれていた。相当な時間、ここで打ち続けていたのだろう。
アリアが足を止めて見ていると、少年は気配に気づいて振り返った。
「……なんだ、お嬢さん」
呼び方が乱暴だったが、声に悪意はなかった。ただ少し驚いていて、それだけだった。
「迷子になりました」とアリアは言った。正直に言うのが正しいと思ったからではなく、なんとなく、この少年には嘘をつく気になれなかったからだった。
「そうか」と少年は言い、木剣を地面に突き立てた。「どこまで戻ればいい?」
「ヴェルナー邸です」
「ああ、公爵のとこか」少年は少し考えてから言った。「送ってやる」
それが、レオンだった。
騎士見習いの家の子で、名もなく、身分もなく、しかし何故か少しも臆することなくアリアの隣を歩いた。道すがら、アリアが質問すると短く答え、自分からは何も語らなかった。でも歩幅を合わせてくれていた。アリアが石につまずきそうになった時、気づいて少し歩く場所を変えた。言葉にはしなかったが、見えていた。
邸の前まで来ると、レオンは一度だけ振り返った。
「着いたぞ」
「ありがとうございます」
「また迷子になっても、あそこにいるから来い」
それだけ言って、彼は歩き去った。
アリアは小さく笑った。自分でも気づかないくらい、小さな笑みだった。でも、その時笑えたことを、ずっとずっと後になっても覚えていた。
その後も、二人は何度か会った。
アリアが一人で屋敷の庭に出ると、演習場の方角から木を打つ音が聞こえた。レオンはいつもそこにいた。アリアが近づくと、特に驚きもせず「また来たか」と言い、特に歓迎もせず、ただそこに居た。
それが心地よかった。
アリアは、その頃まだ「義務」という言葉の重さを知らなかった。
笑うのが好きだった。声を立てて笑うのは令嬢らしくないと母に言われてはいたが、レオンと話す時はつい笑ってしまった。彼の言い方が、いつも少し不器用で、でも真っ直ぐで、うっかり笑いたくなるような何かを持っていたからだ。
「剣の稽古は、楽しいですか」とアリアは一度聞いた。
「楽しいかどうかは分からん」とレオンは言った。「ただ、やめようと思ったことがない」
「それは、好きということでは?」
「かもしれん」少し考えてから、「お前はどうだ。やめようと思わないことはあるか」
アリアは考えた。
「……ここに来ることは、やめようと思いません」
レオンは特に何も言わなかった。ただ少し目線を逸らして、また素振りを再開した。頬がほんの少し赤かったが、夏の暑さのせいかもしれなかった。
アリアは、そういう時間が好きだった。
何も演じなくていい時間。正しい令嬢でいなくていい時間。ただ七歳の、あるいは八歳の、あるいは九歳の自分として、草の上に座って、木剣の音を聞いていればいい時間。
でも、その時間に終わりが来た。
アリアが十歳の秋、父が書斎に呼んだ。
公爵の書斎は天井が高く、壁一面に本が並んでいた。子供の頃のアリアには、その空間がひどく厳かに感じられた。父はいつも正しく、いつも遠く、この部屋においては特にそうだった。
「アリア、おまえに話がある」
父の声は穏やかだったが、有無を言わせない響きがあった。
「王太子殿下との婚約が決まった」
アリアは、何も言えなかった。
「おまえはこの家の娘として、この国に何かを返さなければならない。それは義務ではなく、誇りだ」
父はそう言った。父は嘘をついていなかった。本当にそう信じていたのだろう。誇りという言葉が、義務という実態を覆っていることに、気づいていなかったのかもしれない。あるいは、気づいた上で目を向けなかったのかもしれない。
「……はい、お父様」
アリアは頷いた。
それ以外の選択肢が、なかった。
その日の夕方、アリアは演習場へ行った。
レオンはいつものように素振りをしていた。アリアの足音に気づいて振り返り、いつものように「また来たか」と言いかけて、何かを察して口を閉じた。
「どうした」
アリアは草の上に座った。膝を抱えて、空を見た。雲が西の方へゆっくりと流れていた。
「婚約が決まりました」
レオンは何も言わなかった。
「王太子殿下と」
また、沈黙。
「だから、もうここには来られなくなります」
「……そうか」
レオンの声は、いつもより少し低かった。アリアは彼の顔を見なかった。見れなかった。
「おめでとう、と言うべきか」
「分かりません」
「そうか」
二人はしばらく黙っていた。木の葉が風に揺れる音だけがあった。
アリアは立ち上がった。スカートの裾についた草を払い、礼儀正しく一礼した。
「お世話になりました」
「アリア」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。いつも「お前」か「お嬢さん」だった。アリアは少し驚いて、思わず顔を上げた。
レオンはアリアを見ていた。真っ直ぐに、いつもと同じ目で。ただ、何かが違った。何かを言いたくて、でも言わないと決めているような、そういう目だった。
「……元気でいろ」
それだけだった。
アリアは頷いた。唇を一度結んで、それから歩き出した。振り返らなかった。振り返ったら、何かが崩れる気がしたから。
演習場を出た後、アリアはしばらく木の陰に立っていた。泣かなかった。泣く理由が、言葉にできなかったから。ただ胸の奥に、熱くて重いものが沈んでいく感覚があった。
その日から、アリアは自分の中に小さな部屋を作った。
誰も入れない部屋。鍵をかけて、窓も塞いで、そこにあの夏の記憶をしまった。そしてその部屋の扉の前に、完璧な令嬢のアリアが立った。微笑みを絶やさず、言葉を選び、感情を抑える。それが、これからのアリアの生き方だった。
王太子エドワードは、確かに申し分のない人だった。
博識で、礼儀正しく、政務に誠実で、側近からの信頼も厚い。婚約者として不満を言える部分が、客観的にはどこにもなかった。
最初の頃、アリアはそれで十分だと思っていた。感情などいらない。役割を果たすことが自分の生き方なのだと、信じようとしていた。
でもエドワードとの時間を重ねるうちに、アリアの中に名前のつかない疲労が積もっていった。
原因は、彼の「正しさ」だった。
エドワードはいつも正しかった。判断が正確で、倫理的で、公平だった。それは本当のことで、アリアはそれを尊敬してもいた。ただ——彼の正しさは、時折アリアの感情を処理する前に、答えを出してしまうことがあった。
ある日のこと。アリアが慈善事業の視察から戻り、少し疲れた様子を見せた時、エドワードは言った。
「公爵令嬢として、民の暮らしを知ることは重要だ。よく務めてくれた」
労いだった。間違いなく。アリアを認める言葉だった。
でも、アリアが欲しかったのはそれではなかった。疲れたと言いたかった。今日は子供が大勢いて少し賑やかすぎたと笑いたかった。意味のない、役に立たない、ただの言葉を交わしたかった。
だがエドワードはそういう話を好まなかった。いや、好まないというよりも、その必要性を理解していなかった。彼にとって、会話とは情報であり、判断であり、行動への入り口だった。意味のない言葉は、彼の中に居場所がなかった。
そして決定的だったのは、ある秋の夕暮れのことだった。
アリアは何気なく言った。ふと思い出したように、声に出しただけだった。
「いつか、どこか遠くへ行ってみたいですね。地図にも載っていないような場所へ」
エドワードは少し考えてから答えた。
「王太子妃が理由なく国外へ出ることは難しい。視察であれば可能性はあるが、まず目的と意義を明確にする必要がある。外務省と調整して——」
「……そうですね」
アリアは微笑んだ。いつもの、正しい微笑みで。
「ご指摘の通りです」
エドワードは満足そうに頷いた。彼は何も悪いことをしていなかった。ただ現実的に考えただけで、それは彼の誠実さの表れだった。
だがアリアの心は、その時また少し、遠くへ行った。
地図にも載っていない場所、と言った時、アリアはどこかの草原を想像していた。風が吹いていて、木剣の音がして、誰かが「また来たか」と言う——そんな場所を。
でも、その言葉は声にならなかった。その部屋の扉は、いつも閉まっていたから。
婚約破棄の夜から、三日が経った。
アリアはヴェルナー邸にいた。父は何も言わなかった。母は少し泣いた。使用人たちは気を遣って静かにしていた。屋敷全体が、腫れ物に触るような空気の中にあった。
アリアは一人、窓辺の椅子に座っていた。
不思議と、泣けなかった。悲しくないわけではなかった。ただ、何が悲しいのかが自分でもよく分からなかった。婚約を失ったことが悲しいのか、三年間演じ続けた自分が哀れなのか、それとも、ずっと閉めていた部屋の扉の前に今も立ち続けていることが——
こわいのか。
初めて、その感覚に名前をつけた。
選んでいいのか分からない。
三年間、選ばないことが正しさだった。感情を封じることが誠実さだった。婚約者としての役割を果たすことが、アリアのアリアであることだった。
では、その役割がなくなった今、自分は何を選んでいいのか。選ぶことが、本当に許されるのか。
窓の外では、庭師が落ち葉を掃いていた。箒の音が、規則正しく聞こえてきた。
アリアはそっと目を閉じた。
瞼の裏に、あの演習場が浮かんだ。草の匂いと、木を打つ音と、あの真っ直ぐな目が。
レオンは今、どこにいるのだろう。
王宮の騎士団に入ったと、いつかどこかで耳にしていた。それ以上のことは知らなかった。三年間、知ろうとしなかった。知れば、閉めた扉を意識してしまうから。
アリアは立ち上がった。
理由を考える前に、体が動いていた。いつもなら「すべき」を考えてから動く。でも今は、考えるより先に足が向いていた。
どこへ、とは言葉にしていなかった。
ただ、行きたい場所が、久しぶりに心の中にあった。
王都の外れに、今も演習場はあった。
子供の頃と変わらない石塀。変わらない鉄の門。ただ規模が少し大きくなっていて、騎士団の紋章が掲げられていた。
アリアは門の外に立った。中に入る勇気が、すぐには出なかった。
そこへ、中から人が出てきた。
革の鎧を片腕に抱え、汗を拭いながら歩いてくる、長身の男。顔を上げた瞬間、アリアと目が合った。
十五年前と同じ目だった。驚いて、それから静かになる目。
「……アリア」
レオンは立ち止まった。
アリアも立ち止まった。
何を言えばいいか分からなかった。準備もしていなかった。ただ立っていた。
レオンは少しの間黙っていた。それから、やはりいつかのように言った。
「無理に来なくていい」
アリアは目を瞬かせた。
「今は色々あっただろう。気が向いた時でいい」
急かさなかった。引き留めもしなかった。ただそこに立って、アリアの選択を待っていた。
アリアは、ゆっくりと息を吐いた。
三年間、誰かにそう言われたことがなかった。「来なくていい」と言われたことも、「気が向いた時で」と言われたことも。いつも「すべき」があって、「役割」があって、「期待」があった。
でも彼はただ、待っていた。
それだけで、アリアの目が少し熱くなった。
王太子エドワードは、その夜初めて、自分が何かを見落としていたことに気づいた。
婚約破棄の翌朝から、彼は執務に戻った。それがエドワードのやり方だった。感情を引きずることなく、次にすべきことへ進む。それが責任というものだと、ずっとそう思っていた。
だが、三日目の夜、書類に向かいながら、ふとアリアの言葉が戻ってきた。
想ってはいけないと分かっていたので、ずっと何も選びませんでした。
エドワードはペンを止めた。
何も選ばなかった、とアリアは言った。それは誠実なことだとエドワードは思った。感情を律して、役割を果たす。それこそが高貴さの証ではないか——と、思いかけて、止まった。
待て、と彼は自分に言った。
アリアは「選ばなかった」のではなく「選べなかった」と言っていた。
同じことではない。
エドワードは椅子の背にもたれた。窓の外に夜の王都が広がっていた。灯りが点々と輝いていた。
三年間を、頭の中で手繰り寄せた。
アリアはいつも正しかった。礼儀も所作も言葉も、何一つ誤りがなかった。だからエドワードは安心していた。完璧な婚約者がいる、自分は正しい選択をしたと、そう信じていた。
でも——完璧すぎた、のかもしれない。
人は、完璧にはなれない。疲れる時がある。間違える時がある。意味のない言葉を言いたい時がある。アリアにも当然そういう瞬間があったはずだった。ただ、彼女はその度に飲み込んでいた。正しい婚約者でいるために。
そしてエドワードは、それを「当然のこと」として受け取っていた。
一度でも「疲れたか」と聞いたことがあったか。一度でも、意味のない話をしようと誘ったことがあったか。
答えは出なかった。記憶の中を探しても、そういう場面が見当たらなかった。
エドワードは目を閉じた。
自分は間違っていなかった。だがそれは、自分が正しかったということとは、違うのかもしれなかった。
翌朝、彼はヴェルナー邸へ向かった。
応接間に通されると、アリアはすでに来客を知っていたのか、落ち着いた顔で待っていた。
エドワードは椅子に座り、しばらく黙った。言葉を選んでいた。いつもは迷わないのに、今日は何故か、最初の一言が出てこなかった。
「……突然来て、すまなかった」
「いいえ」とアリアは言った。「お茶でも——」
「いい」エドワードは短く遮ってから、「話をしに来た」と付け加えた。
アリアは静かに手を膝の上に置いた。
エドワードはまっすぐ彼女を見た。
「三日、考えた。君のことを」
「……はい」
「君が言った言葉を、何度も思い返した。想ってはいけないから、何も選ばなかった、と」
アリアは目を伏せなかった。ただ静かに、彼の言葉を聞いていた。
「私は——君に、選ぶ余地を与えていなかったのかもしれない」
エドワードはそこで一度止まった。こういうことを口にするのは、彼には慣れていなかった。だが続けた。
「君が完璧だったのは、君が優れていたからではなく、君がそうせざるを得なかったからだったかもしれない。私はそれを……正しいことと受け取っていた」
アリアは、微かに息を吸った。
「今ならやり直せる」
エドワードは言った。
「私も、変わろうと思う。君の話を、もっと聞こうと思う。これまで私が見落としていたものを——」
「エドワード殿下」
アリアが、静かに遮った。
初めて、彼の言葉を途中で止めた。三年間、一度もそんなことをしたことがなかった。
エドワードは黙った。
アリアは膝の上の手を、ゆっくりと握った。
「いいえ」
声は穏やかだった。震えていなかった。
「私は——初めて、自分で選びます」
エドワードは何も言えなかった。
アリアは続けた。
「あなたは間違っていません」
それははっきりと言った。責める言葉ではなかった。本当にそう思っていたから。
「あなたは誠実でした。真面目で、責任感があって、私を傷つけようとしたことは一度もなかった。それは本当のことです」
「だが——」とエドワードは言いかけた。
「でも、私は幸せではありませんでした」
その言葉が、部屋の中に静かに落ちた。
アリアはエドワードを見た。まっすぐに。おそらく三年間で、初めて本当にまっすぐ。
「あなたが悪いのではありません。でも私には、あなたの隣が合っていなかった。そのことに、もっと早く正直になれていたら良かったと、今は思っています。それができなかったことは、私の不誠実でした」
「アリア——」
「婚約を解消してくださったこと、感謝しています」
エドワードは口を閉じた。
反論する言葉が、出てこなかった。出てこないのは、アリアの言葉が正しかったからではなく、アリアの言葉が真実だったからだと、彼はゆっくりと理解した。
正しいかどうかの話ではなかった。
幸せかどうかの話だった。
そして、それは自分には決められないことだった。
エドワードは長い沈黙の後、静かに言った。
「……そうか」
たった二文字だった。
だがその二文字の中に、エドワードのすべてがあった。納得と、後悔と、それから——アリアへの、不器用な敬意が。
彼は立ち上がり、一礼した。普段の王太子としての礼ではなく、ただの一人の人間としての礼だった。
「幸せになれ」
それだけ言って、エドワードは部屋を出た。
アリアは彼が扉を閉めるのを見届けた。足音が廊下を遠ざかっていく音を聞いた。馬車が走り去る音を、窓越しに聞いた。
それからしばらく、動かなかった。
泣くかと思ったが、泣かなかった。
ただ、胸の中に長く閉じていた部屋の、鍵が静かにほどける音がした気がした。
次の日の朝、アリアは一人で王都の外れへ歩いた。
使用人もつけなかった。馬車も使わなかった。秋の空は高く、風が少し冷たく、落ち葉が石畳の上を転がっていた。アリアはそれを踏みながら歩いた。音が好きだった。子供の頃から、落ち葉を踏む音が好きだったことを、久しぶりに思い出した。
演習場の前に着くと、中から声が聞こえた。
稽古の掛け声と、剣が打ち合う音。何人かがいるようだった。アリアは門の外で少し待った。
やがて休憩になったのか、人の気配が散った。
それからしばらくして、革の上着を羽織ったレオンが門から出てきた。水筒を持っていて、アリアを見て立ち止まった。
「来たか」
三日前と同じ言い方だった。驚かなかった。ただそこにいた。
「来てしまいました」
「無理に来なくていいと言ったが」
「分かっています」とアリアは言った。「でも、来たかったから来ました」
レオンは少し目を細めた。何かを言いかけて、言わなかった。代わりに隣の石壁を少し叩いて、「座るか」とだけ言った。
二人は石壁に並んで腰を下ろした。
高い秋空の下、しばらく何も言わなかった。風が吹いて、木の葉が揺れた。遠くで鳥が鳴いた。
アリアは空を見上げた。
子供の頃も、こうして黙っていたことがあった。言葉がなくても不安にならなかった。この人の隣は、沈黙が重くなかった。
「レオン」
呼ぶと、彼は短く「ああ」と答えた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「あなたは——あの頃、私のことを、どう思っていましたか」
レオンは少し間を置いた。
「正直に言うか」
「はい」
また間があった。風が一つ吹いた。
「好きだった」
さらりと言った。自慢でも告白でもなく、事実を述べるように。
「でも、お前には行き先が決まっていた。俺には何もなかった。だから何も言わなかった」
「……そうでしたか」
「後悔したかと聞くなら——した。でも、お前が選べない立場にいることは分かっていたから、引き留める気にはなれなかった」
アリアは目を伏せた。
胸の奥で、長い間沈んでいた何かが、ゆっくりと浮き上がってくる感覚があった。
「私も」
声が少し掠れた。
「私も、ずっと——」
「知ってる」
レオンが静かに言った。
アリアは顔を上げた。彼は空を見たまま、少し目を細めていた。
「お前が演習場に来るたびに、笑い方が変わっていくのが分かった。最初は声を出して笑っていたのに、だんだん笑い方が小さくなっていった。婚約が決まった後、お前の笑顔はきれいだったけど——前のとは、別物だった」
アリアは何も言えなかった。
「ずっと閉じてたんだろう」
否定できなかった。
「うん」と、アリアは小さく言った。令嬢らしくない返事だったが、今はそれでよかった。
レオンはそこで初めてアリアの方を向いた。
「急がなくていい」
「……え」
「さっき来たくて来たと言ったが、それが本心なのか、流れでそう思っただけなのか、自分でもまだ分からんだろう。三年分、色々あったんだから」
アリアは彼を見つめた。
「急かさないんですね」
「当たり前だ」
「……みんな、決めさせたがるのです。どうするのか、どこへ行くのか、何を選ぶのか。すぐに」
「俺は違う」レオンは短く言った。「お前が決めたことが、お前の答えだ。いつ決めても」
アリアの目が、じわりと熱くなった。
泣くまいと思った。でも今度は止められなかった。一粒、頬を伝った。慌てて拭こうとすると、レオンが静かに言った。
「泣いていい」
「令嬢が人前で——」
「俺は人前じゃない」
それが何故か、おかしかった。
アリアはこらえきれずに笑った。泣きながら笑った。声を出して笑った。子供の頃みたいに、何も考えずに。
レオンも少し笑った。目元が緩んで、口の端が上がって、それだけだったが、アリアにはそれで十分だった。
しばらく笑って、泣いて、それからまた黙った。
風が止んで、秋の光が石畳を静かに照らしていた。アリアは目元を袖で拭いて、もう一度空を見た。高く、青く、遠くまで続いていた。
胸の中の小さな部屋の扉が、今度こそ、ゆっくりと開いていく気がした。
アリアは、隣に座るレオンを見た。
彼はまた空を見ていた。急かさず、待たず、ただそこにいた。
「レオン」
「ああ」
「今度は——」
一度止まった。言葉を探した。正しい言葉ではなく、自分の言葉を。
「今度は、選んでもいい?」
レオンはアリアを見た。
真っ直ぐな目だった。十五年前と同じ目だった。ただあの頃より少し深くなっていて、その深さの中に、長い年月分の何かが静かに沈んでいた。
「お前が選ぶなら」と彼は言った。「俺はここにいる」
それだけだった。
飾りのない言葉だった。約束とも宣言とも違う、ただの事実だった。でも、アリアにはそれが何よりも確かなものに聞こえた。
アリアは小さく頷いた。
これが初めて、自分で選んだ恋だった。
誰かに決められたのではなく、義務でもなく、役割でもなく、ただ自分の心が向かう方へ、自分の足で歩いた先にある——初めての、自分だけの選択だった。
風がまた吹いた。
落ち葉が二人の足元を転がって、どこかへ消えていった。
終幕




